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タグ:天田愚庵 ( 7 ) タグの人気記事

いわき 愚庵会 講演内容

いわきの愚庵会のご依頼で、2月10日にいわき市文化センターで行われた筆者の講演

「愚庵の義侠  羯南の条理」

の概要が、いわきの日々の新聞2月28日号(360号)に

掲載されました。

 こちらのホームページに司馬さんと青木先生のお話を詳しくご紹介して頂いております。

http://www.hibinoshinbun.com/files/360/360_tokusyu.html

 「
    特集陸羯南への思い  新聞とジャーナリズムのこと

          新聞は読者から遠い存在に」(日々の新聞  360号)

  この題は、当日、ご覧頂いた青木先生の映像の中で、先生が語られていた言葉を引用して

  頂いています。

 「青木さんが生前、報道番組に出演した映像が残っている。

  それは1990年(平成2)の「ニュース23」で、筑紫哲也さん、立花隆さんと

  新聞について語っている。

 <新聞が読者から遠い存在になってしまった、ということでしょう。

  距離がものすごくあいちゃった。

  その原因は、新聞の権力的な体質です。

  そのいかがわしさが読者や国民の側にチラチラと見えてきている。

  その部分を新聞が変えていかないとなりません。

  だから、新聞が生き残るとすれば、活字メディアとしての特性をどう生かしていくか、

  ということだと思うんです。

  つまり言論性、解説性、記録性、一覧性などを提供していく、ということです。

  ぼくは、新聞は残り得ると思っていますけどね>


 それから28年、青木さんが亡くなってから14年がたった。

  いまこそ、国家や政府と対峙して震え上がらせた羯南や

  新聞「日本」のジャーナリズム精神を、より学ぶ必要がありそうだ」

                (同上)

  北京から日本の日々の様子を見ていると、まさにその通りだと思います。

  司馬さんも、青木先生も、天国からそう思って見ているでしょう。

       死者は語らず、生者をもって語らしめん。

                           たかぎ

 


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by kuga-katsunan | 2018-03-20 04:10 | ニュース | Comments(0)

井上劍花坊(6)

引き続き、坂本幸四郎「井上劍花坊・鶴彬-川柳革新の旗手たち」(1990)を中心に引用を進める(pp.59-63)。

「『日本』新聞の、川柳欄、「新題柳樽」は好評で、ちょうど1年がたった、明治37(1904)年7月3日には、投句者が300余名に増え、井上秋劍は、選者名を「新題山柳樽寺和尚劍花坊(しんだいさんりゅうそんじおしょうけんかぼう)」と名乗った。

これから後年、この派が、柳樽寺派といわれるようになり、主宰者の劍花坊は、門下生から和尚の愛称で呼ばれるようになる。・・・(ペンネームを坊主にしたのは、)天田愚庵との邂逅からだという。・・・天田愚庵は、1854年平藩主安藤信正の家臣、甘田平太郎の五男として生まれ・・・漢詩のほかに万葉調の和歌を能くし、正岡子規に多くの影響を与えた。

・・・神田のニコライ新学校で・・正院の大主記である小池祥敬に出会い・・・生涯の大恩人、山岡鉄舟を紹介され・・・国学の師、落合直亮を知った・・・1873年、直亮が開塾した中教院で、生涯の友となった、国分高胤と落合直文を知り、国分によって、陸羯南、福本日南ら『日本』新聞をよりどころとする人たちを知る。

・・・1882年春、産寧坂に草庵をかまえ愚庵と称し・・・ここに多数の文人が訪れ、正岡子規、河東碧梧桐、桂湖南、国分青崖らもその仲間であった。・・・1903年5月上京、日本新聞社の特別桟敷で初日から千秋楽までの9日間、角力記者であった井上秋劍と二人ならんで観戦した・・・。

そのひと月後、7月3日、『日本』新聞に、「新題柳樽」の川柳欄を設けた・・・天田愚庵研究家、柳内守一は

秋劍は、愚庵を思慕したものであろう。川柳革新の砦を柳樽寺と名づけ、己を僧にみたて、禅童、劍花坊、秋劍禅侶、大和尚などと呼称した。やがて川柳を中興したといわれる柳樽寺派と、その総帥、井上劍花坊の誕生はここからであった(『川柳人』1987年1・2月号)

といっている。」


しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2009-06-08 00:08 | 研究 | Comments(0)

幻の新聞「日本」第2号見つかる 弘前編

 新聞「日本」第2号については、1期のたけざわ先輩と弘前へお持ちした。

東奥日報さんが下記の様に報じて頂いている。

  「これまで現物が発見されず、幻とされてきた、一八八九(明治二十二)年二月十二日発行の新聞「日本」第二号を、東京の陸羯南研究会が入手した。研究会は一日、弘前市を訪れ、「『日本』の主筆兼社主である陸羯南の古里・弘前市で、有効に活用してもらえれば」と、市立郷土文学館に持参した。

 新聞「日本」は、大日本帝国憲法が発布された日と同じ、一八八九年二月十一日に創刊した。

 創刊号は複数の図書館が所蔵しているが、二、三号だけは見つかっていなかった。復刻版でも欠号扱いで、社説のみが陸羯南全集に収録されている。

 その幻の第二号を所有していたのは、東京都の天田晴彦さん。天田さんは、羯南と親交が深く、「日本」にも出稿していた禅僧・歌人の天田愚庵の兄の子孫に当たる。

 仕事を持ちながら個々の切り口で研究に取り組んでいる陸羯南研究会のメンバーは十月、天田さんを訪ねて愚庵と羯南のかかわりを調査。後日、天田さんから「研究に役立ててほしい」と寄贈された資料の中に、第二号が含まれていた。

 第二号は四面立てで、憲法発布当日の各地方の祝宴の模様を掲載してあり、青森では八十歳以上に祝い金が配られたことも紹介。当時既に、全国各地に情報のネットワークを築いていたことをうかがわせる。」

  (東奥日報  2007年12月2日

http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/kugakatsunan/index.html)

 
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by kuga-katsunan | 2007-12-30 07:40 | ニュース | Comments(1)

新聞『日本』幻の第2号発見 親友の子孫らにより“故郷”弘前へ

  以下、先日、当会の活動の一部を描いた<東京新聞>さんの記事を紹介させていただきます。

<明治を代表するジャーナリスト、陸羯南(くがかつなん)(1857-1907年)が創刊した新聞「日本」で幻とされていた第2号が見つかった。発見者は羯南の親友で歌僧の天田愚庵(あまだぐあん)(1854-1904年)の子孫で1日、第2号が羯南の出身地、青森県弘前市の市立郷土文学館に手渡された。

 羯南は弘前藩士の家に生まれ、東奥義塾などで学ぶ。司法省法学校本科に入学し退学処分となり、青森新聞社に勤務。再び上京し太政官文書局の官吏となり、その後、新聞「東京電報」に入社し、翌1889(明治22)年に「日本」を創刊した。

 羯南が社長・主筆を務めた「日本」は、長谷川如是閑、福本日南、三宅雪嶺ら明治を代表するジャーナリストを輩出。当時、政府が進めた欧化政策に反発し「国民主義」を論調とする硬派の新聞として読者の支持を得た。97年の新聞紙条例改正まで発行停止処分が30回(計230日)にも及んだ。

 九八年、短歌革命を起こした正岡子規の「歌よみに与ふる書」を掲載するなど、子規の文学活動の舞台にも。「日本」は羯南が1906年に病のため譲渡し、14(大正3)年12月31日付が最終号(第9194号)となった。

 復刻・縮刷版は88年から91年にかけて発行されたが、第2号と第3号は欠落して存在が確認されず、新聞研究史上の空白になっていた。

 「幻の第2号」を見つけたのは、東京都江東区の郵便局長、天田晴彦さん(62)。天田愚庵の兄真武(まさたけ)から5代目の子孫だ。愚庵は子規の短歌に多大な影響を与えたほか、清水次郎長を世に知らしめた伝記「東海遊侠(ゆうきょう)伝」の著者としても知られている。

 第2号(2月12日発行、4面)の1面を見ると、「国民的の観念」の論文が掲載。「今日の国家は『国民』と言える一大観念の上に安置せらるるものにして此(こ)の観念に依るにあらざれば以(もっ)て一国の一国たる元気を発揮するに足らざるなり」(原文は旧字)などと、国民の独立の観点から急激な西欧化の危惧(きぐ)を訴えている。

 憲法発布に絡んでは、「故西郷隆盛 特旨を以て正三位を被贈」と、隆盛の死後12年を経て特赦が出されたことを報じる短信もある。

 晴彦さんは以前、愚庵の出身地、福島県いわき市の古書店「平読書クラブ」で第2号などが売られているのを知り購入。今年10月、都内の社会人研究グループ「陸羯南研究会」に委ね、日本新聞博物館(横浜市)や国立国会図書館に問い合わせて、欠落の号と判明した。晴彦さんが同会と相談し、同会の手で弘前市立郷土文学館に渡された。

 同館では「今後、どう活用するか、検討したい」としているが、晴彦さんは期待を込めてこう話す。

 「羯南生誕150年、没後100年の節目の年に、親友愚庵の血縁の私を通じ貴重な資料と分かったのも何かの縁。今後の研究に役立ててほしい」>
ひろかわ
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by kuga-katsunan | 2007-12-27 05:44 | ニュース | Comments(0)

幻(?)の創刊第二号

 新聞日本の創刊号は、あまりにも有名な

<新聞紙たるものは政権を争ふの機関にあらざれば

  即ち私利を射るの商品たり。

  機関を以て自ら任ずるものは党議に偏するの謗を免れ難く

  商品を以て自ら居るものは或は流俗を趁ふの嘲を招く。

  今の世に当り新聞紙たるものの位置亦た困難ならずや。>

(明治22年2月11日  新聞日本  創刊号)

ではじまり、

<日本と云ふ表題>

<日本国民の新特性>

そして志賀重昴の

<「日本」の発刊豈に偶然ならん>

と続く、創刊号にふさわしい力のこもった紙面となっている。

 ところが、それに続く第二号はどうであったかというと・・・・・。

 ひろかわ君が、天田愚庵の一族の子孫にあたる方にアポイントをとってくれたので、二人で御話を聞きにお伺いした時のことである。(その時の様子は、ひろかわ君が、紹介してくれますが)

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-11-08 04:15 | トピックス | Comments(0)

<貧天地 飢餓窟 探検記>  大我居士 桜田文吾

 紀田順一郎に<東京の下層社会>と題する著作がある。(新潮社、平成2年5月)

 明治期から昭和の終戦に至るまでの、東京の下層社会を描いた作品を描いているが、その最初に紹介されているのが、新聞日本に連載されていた、大我居士こと桜田文吾のルポルタージュ<貧天地 飢餓窟 探検記>である。オリジナルは、明治23年8月から新聞日本に連載されていたルポルタージュである。

 桜田は、1863年仙台藩士の家に生まれた。紀田の紹介によれば

 <幼くして父を失い、さらに二人の兄がそれぞれ戊辰戦争と五稜郭の戦いに敗れたのち病没、一人の姉も誘拐されたため、母親は悲嘆のあまり世を去った。>(同書)

 このあたりは、同じく新聞日本に連載されて評判を呼んだ<血写経>の著者愚庵天田五郎の生い立ちに似ている。奥羽列藩同盟に加わった、いわゆる<賊軍>の藩の人々は多かれ少なかれ同じような境遇を味わったのだと思う。新聞日本に集まった人々の多くは、<賊軍>の藩出身者が多かったようだ。

 <彼みずからは苦学の後に東京法学院(のちの中央大学)卒業、縁あって陸羯南の経営する日本新聞社に入社することができたのであった。>(同書)

 この連載は、新聞記者になるまで、苦渋に満ちた少年時代、青年時代を経験してきた桜田ならではの視点なのだといえよう。

  <むかし、新聞記者が取材のため変装するのは日常茶飯事であったが、いまはその種の感覚が薄れてしまっている。一億総中流のため、あらゆる職業がサラリーマン化し、変装なんかする必要もなくなった。>(同書)

 報道の基本である<現場百篇>、クラブ報道が記者と新聞を堕落させたのかもしれないが、このルポはまさに現場に身をおいた作品だったといえよう。

 この連載は明治26年5月に、日本新聞社から<日本叢書>の一冊として出版された。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-04-05 23:46 | トピックス | Comments(0)

明治大正言論資料 月報

 その月報の巻頭には池辺一郎が書いている。

 池辺一郎は、ゴーギャンやルドンの愛好者にはおなじみの名前だが画家であり、実は池辺三山の長男でもある。彼は父の伝記も書いている。(ただこの月報を書いた翌年には亡くなっているのでその仕事は、三山の次女の息子である社会学者の富永健一に引き継がれる。)

 一郎は1932年から38年にかけてフランスに留学していたのでその縁もあってフランス印象派、象徴派の紹介者の一人となったのであろう。父三山は、旧主の熊本の殿様のおつきとして1892年から1895年にかけてパリに留学していた。親子二代でフランスへ留学したことになる。

 一郎は<鳥居素川のこと>と題して書いている。

<鳥居素川(本名赫雄、1867-1928)は、明治25年頃、天田愚庵という奇人の門人となったところで経歴をはじめている。それ以前に上海にいたことがあるらしいが、その時期のことははっきりしない。>

 鳥居は、やはり三山と同じ熊本の人。慶應三年、1867年、に細川藩士の三男として生まれている。彼はその生まれからいって明治の子だといえよう。
兄数恵は、西南の役に際し、三山の父、池辺吉十郎が糾合した熊本隊八百人の中の二番小隊長として西郷を救援しその転戦のなかで戦死している。三山とは親子兄弟を通じた深い縁を持っている。
 熊本の済済黌に学び、明治十七年に上京、独逸協会専門学校で学んでいる時に荒尾精に出会う。荒尾の勧めで、明治19年上海にあった日清貿易研究所(東亜同文書院の前身)に留学した。 

  
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by kuga-katsunan | 2007-01-28 09:16 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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