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日本鉄道史

老川慶喜著(2014)「日本鉄道史 幕末・明治編」中公新書のpp.176-178に、「青森県人 陸羯南の予言」という項があるので、ポイントを紹介したい。

・1891年9月に日本鉄道が全通するまで、青森-東京間の移動は
陸路・徒歩:20日
馬車:12日(運賃は22~23円)
海路(函館経由):4~5日(1日1便で輸送力に限度あり)

・日本鉄道(青森-東京間)では
26時間40分
運賃:下等=4円55銭、中等=9円10銭、上等=13円65銭

以下p.177をそのまま引用する。

「・・・陸羯南は『東奥日報』(1890年7月13日)に「鉄道敷設後の陸奥国(承前)」を寄稿している。そのなかで、日本鉄道の全通によって東北地方は「利益を享受」するが、「利益の傍らには必ず弊害」があると警鐘を

鳴らしていた。陸によれば、その弊害とは「生産と消費の不釣合」に他ならなかった。すなわち、鉄道が開通し交通の便がよくなると人々の需要が増加する。しかし東北地方は「農産水産」の地なので、需要を他の地方

に仰がねばならない。試みに「農産水産」の年額を150万円、他の地方に仰ぐ「需要品の総額」も150万円とし、前者は増加しないが、後者は2割ほど増加すると仮定する。すると「需要品の総額」は180万円となり、青

森県は30万円を失うことになる。・・・」

と予言したという。

しぶさわ
# by kuga-katsunan | 2015-11-12 23:41 | その他

合肥  李鴻章故居

 北京の李鴻章の邸宅が特定出来ないでいる。
彼の故郷、合肥に行く機会があったので、その家を訪ねた。
 合肥は、安徽省の省都、北京からは、高速鉄道で4時間、北京を出て、天津、済南を通って、次の停車駅が合肥だった。
 以前、上海に駐在していた頃、仕事で二回ほど行ったことがあったが、そのころ、2000年前後には、省都といえども、本当の田舎街で、外国経営のホテルもノボテルが出来て画期的、と騒がれていたレベルであった。それから12年、今回、高速鉄道の駅からタクシーでホテルに向かって驚いた。
 今や、高層ビルが立ち並び、高架道路も完備された近代都市となっていた。
 李大人の故居は、旧市街の中心地、観光客向けの歩行者天国の一角にあった。
 故居に行ってくれと頼んだタクシーの運転手は、歴史が好きなのかと聞いてくる。
下関の講和条約の時に、李大人を狙撃した男は、日本では英雄になっているのか、と厳しい質問をしてくる。講和交渉の使者を狙撃するのは、日本の感覚では英雄とはいえない、と答えると、日本の攻撃は奇襲が多いからな、と切り返してくる。
 一理あるので、つまっていると、目的地についた。
「ここで、よく歴史を勉強してくれ」
 と送り出してくれた。
 歩行者天国を歩いてゆくと、雨の朝とは思えない位、名所の前は人だかり。やはり合肥といえばここなのだろうか。
 どんな場所かは、昨年6月に行かれた方が、写真入りの詳細な旅行記を書いていらっしゃる。

http://4travel.jp/travelogue/10902052

 中国語のわかる方はこちらもご覧下さい

http://www.anhuitravel.com.tw/Anhui_Scenery/Anhui_Attractions/Attractions.aspx?cid=54&id=2967&t=1


 改めて、彼の生涯を振り返ると、清末の苦しい時期に、渾身の力を振り絞った政治家だったことがよくわかる。
 羯南たちが、北京で会った時も、義和団の乱、北清事変の後始末で苦悶している時期で、会談の内容が残っているわけではないが、実質的に明治天皇の名代でもある近衛篤麿一行をむかえ、日清戦争、北清事変と負けが連続している老大国を背負いながら苦渋の面談ではなかったかと思えてくる。
 羯南たちに会ったのが8月、9月に北京議定書を締結し、10月30日には大喀血、11月7日に亡くなった。78歳という長命、民族に尽くした生涯といえる。
 彼の伝記を書かれた岡本隆司先生が、彼の絶唱を引用している。
    「秋風の宝剣
     孤臣涙す
     落日の旌旗
     大将の壇
     海外の塵氛
     なお未だやまず
     諸君作す莫かれ
     等閑に看るを」   (岡本隆司 「李鴻章」 岩波新書 2011年11月)

 上海時代に、李大人の愛姫、丁香の邸宅だったレストランに何回か行ったことがある。
当時はその広壮さに、李大人を羨んだものだが、改めてその生涯を見る時、此の位はかるいものだと想い直してしまった。

たかぎ 

  

   
# by kuga-katsunan | 2015-11-07 23:05 | 紀行

<羯南と古島一雄>(90) 私立大学評判記(その79)

 今回も「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」である。
 古島一雄は世間の慶応義塾に対する素町人主義批判への反論に続き、拝金主義批判への疑問を以下のように呈する。 

 「下って矢野文雄時代となり、更に三田に移って藤田茂吉、箕浦勝人、波多野承五郎等がギゾーの文明史を読み得て始めて卒業者となりし時代を見よ。其先輩たる九鬼、渡邊、肥田の諸輩が官途に就くや、意気地なしの骨頂と罵り、留まって義塾の講師となり、其清貧に安んじたる門野等が、如何に名誉あるものとして尊敬せられたるぞ。」

 明治時代中期、慶應義塾では、卒業し官吏となって金と地位を得るより、母校の講師として収入は少なくも、清く正しくあることが理想とされた。

 ちなみに、矢野文雄は慶應義塾の大阪分校の校長、評議員を務め、後に郵便報知新聞社社長、政治家となった。また、藤田茂吉は郵便報知新聞社主筆となり、その後、立憲改正党の政治家として活躍し、箕浦勝人は郵便報知新聞社社長となり、後に政治家へ転向した。波多野承五郎は時事新報主筆を経て、朝野新聞社長に就任し、その後政治家となっている。

 一方、九鬼隆一、肥田昭作は前回にも紹介したように、当時、官吏として活躍していた。ただ渡邊治は官吏となった様子は確認できなかった。
 そして、古島は次のように続けている。

 「当時慶応義塾を卒業したるものは少なくも百円の月給には有付きしなり。然るに塾中の者皆曰く、願わくば学成って三田の講師たらん已むを得ずんば民間の政治家乎。若し夫の官吏たるは一生の恥辱なりと。此時に方て彼等の塾中果たして一人の拝金主義ありし乎。」

 古島は慶応義塾の卒業生にとって、金に目がくらんで官吏になることは、「一生の恥辱なり」というほどであったという理由で、拝金主義を否定する。

 当時、慶応義塾を卒業したら100円の月給が得られたという。当時の1円は現在でいうと2万円に相当する(ただし、さまざまな換算方法がある。)。ということは月収200万円、相当な高給であるが、さらに官吏となれば、それ以上の高額給与が約束されていた。例えば、奉任官6等で150円(現在の300万円)、5等ともなれば200円(400万円)あった。

 一方、慶應義塾の講師の月給は10円(20万円)から50円(100万円)であった。慶応卒業生の多く者は講師を目指したという。そうでなければ政治家へ、決して官吏になろうとはしなかった。したがって、拝金主義ではないと古島はいうのである。

 いしがみ
# by kuga-katsunan | 2015-10-28 09:41 | その他

<羯南と古島一雄>(89) 私立大学評判記(その78)

 今回から「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」に入る。
 古島一雄は、まず素町人主義への反論を次のように述べる。

 「試みに新銭座時代に見よ。障子は破れて之を繕ふ松下禅尼もなく、品川帰へりの王郎は時々剣を抜き畳を斫て莫哀を歌ふ。朱鞘の大刀は斜めに壁間に掛けられ、焼藷の皮は貧乏徳利と伍して机上に堆し、トコトンヤレ節でザツトのイツトを読む毛脛の偉男子もあれば、夏になれば屁子一貫の赤裸々にてウエーランドの経済書を輪読する連中あり。」

 慶應義塾大学がまだ新銭座にあったとき、塾生は士族出身であり、帯刀していたようである。身なりにかまうことなく、ひたすら勉学に励んでいた様子がうかがえる。勇ましくも可笑しくもある。

 「砲撃一発東台の天に轟くや塾に在るものは只だ小泉信吉のみ。アトハ面白半分の戦場見物、帰へり道でのおでん燗酒に余勇を鼓して兵児の謡を歌ふもあれば、附焼団子の弾丸に黒砂糖の硝薬、是は近頃の脇差と自ら酬ゆる下戸もあり。夜は横丁の黒犬を斬りて腕前を試めし、朝は夜着を被つて天下の前途を諭す。」

 戊辰戦争で上野が戦場となったとき、塾生はみな面白半分で見物に行ったのだが、小泉信吉一人だけが学校に残って勉強していたという。しかし、天下国家を論じあったとあるように、政治への関心が高かったことがわかる。    

 「之を前にして小幡篤二郎あり、松山棟庵あり、之を後にして荘田あり、吉川あり、朝吹、永田、肥田、門野、岡本、草郷、九鬼、渡邊、濱野、中上川、小泉等あり、先生は三百年の当弊を打破せんと意気込み。生徒は時代の暁鐘たらんとす。群豪雲の如く意気天を衝く。此時に当て彼等の塾中、果たして一個素町人的根性を有せしものありし乎」

 学生には逸材がそろい、彼らは時代の政治変革を目指していた。したがって、慶應義塾大学は素町人主義とは言えないと、古島は結論づける。

 ちなみに、ここに登場した人物を紹介しておこう。小泉信吉は塾長を務めた人物で、実業家(横浜銀行支配人)でもあった。小幡篤二郎は塾長となり、福沢諭吉の片腕であった。松山棟庵は慶應義塾医学所校長となり、東京慈恵会医科大学の創立者でもある。荘田は荘田平五郎のことであり、三菱財閥の重鎮であった。

 吉川は吉川泰次郎であり、実業家として日本郵船二代目社長となった。朝吹は朝吹英二のことであり、三井財閥の「四天王」と呼ばれた。永田は永田一二であり、ジャナリストとして数社の新聞社の主筆を務めた。肥田は肥田昭作のこと、文部官僚となり、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長となった人物である。

 門野は門野幾之進のことであり、慶応義塾で教頭を務め、後に千代田生命保険初代社長となった。岡本は岡本周吉であり、本名を古川節蔵といい、慶応義塾初代塾長となった。草郷は草郷清四郎のことであり、実業家である。九鬼は九鬼隆一のこと、文部官僚として重要な役割を担った。

 渡辺は渡邊治のことであり、大阪毎日新聞社長となった。濱野は濱野定四郎であり、塾長を務めた。中上川は中上川彦次郎のことであり、三井財閥で「三井中興の祖」と言われた人物である。

 政官財各方面へ、時代を動かしていた人物たちである。

 いしがみ
# by kuga-katsunan | 2015-09-26 11:17 | その他

<羯南と古島一雄>(88) 私立大学評判記(その77)

 今回も引き続き「私立大学評判記(二十四)慶応義塾の学風(一)」である。
 前回、慶応義塾大学についての一般的な世間での評価として、(1)「拝金宗」を説明したが、今回は、(2)「素町人主義」、(3)「常識教育」を取り上げる。
 古島一雄は、素町人主義について以下のように述べる。

 「世人は福沢氏を以て素町人主義なりと云う、非乎。世人は慶應義塾を以て町人養成所なりと云う、非乎。ぞろりとしたる着流しに雪駄ちゃらちゃらの帽子なし。是れ福沢氏の風采たるを知らば彼は如何にも町人らしからずや、非乎。」

 福沢諭吉自身の身なりが町人のようだという。さらに、福沢には次のような言説が見られるという。

 「袴は廃せよ屁子帯は締めるな」「一人前の家に住み一人前の衣食が出来てから始めて一人前の口をきけ」「月給取りは士族の後家が公債証書の利子に衣食するが如し、新知識のハイカラで旧思想の前垂連を打破せよ」

 これらは商人としての生き方を示すものであり、いかにも町人らしい教訓であると、古島は指摘する。
そして、以下のようにまとめている。

 「彼の門下実業界に在るもの千百を以て数ふ。彼を素町人主義の本尊なりとすれば、彼は又よく此の主義の目的を達したるものと云うべし。素町人主義果たして彼の志なりし乎。」

 確かに慶応義塾大学の卒業生は実業界に就職した者が多い。しかし、古島は素町人主義が本当に福沢の思いだったのかと疑問を呈する。
さらに、彼は常識教育について、次のように続ける。

 「世人は福沢氏を以て常識教育の祖師なりと云う、非乎。世人は慶應義塾を以て常識の教育所なりと云う、非乎。其宇宙を観しては単に天然の微妙に帰し天を怨むな天に謝するなと説けるが如き。其人世を観しては善悪は絶対的の標準なし。只人の好悪に依て定まる。小むづかしき理屈や高尚なる手段は無益なりと説けるが如き。其外諸生を諭しては理論を去て実際に着けと云うが如き。学問に齷齪たらんよりは早く虚世の道を脱せよと勧むるが如き。彼は如何にも常識本位論者にあらずや。」

 引き続き常識教育の成果を簡単にまとめれば次のようになると述べる。

 「其門下生が一寸学問もあり、一寸小知恵もあり、一寸文章も書ければ、一寸話も出来、一寸小金の才覚も出来れば、一寸端唄の一つも唸なれ、何をさしても一寸間に合ひ、応接振りもシトやかに人の機微を損なはず、万事に抜目がなくて融通が利き、お世辞上手の世渡り上手、所謂常世の才子風、所謂常世の紳士気質なるを見るべし。」

 そして、以下のように問う。

 「之をして若し常識教育なりと言うを得れば彼は又た其祖師たるに恥じざるなり。嗚呼嗚呼是れ果して彼の志なりし乎。」

 果たして、慶応義塾大学は世間の評価のように、「拝金宗」「素町人主義」「常識教育」なのであろうか。次回、古島はそれを確かめて行く。

 いしがみ
# by kuga-katsunan | 2015-08-27 09:25 | その他




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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