現在の新聞と同じように新聞日本にも何回かの連載で特集記事が掲載されていた。
特集の中で好評、反響の大きかったものについては、日本叢書、という本にして出版された。
試みに、どんな特集が組まれていたか、創刊の年、明治22年の紙面を繰ってみた。
署名のあるもの、ないもの入り乱れているが、はやくも明治22年2月16日の創刊6号には
<在英国 法学士 植村俊平述>
として
<在米国西部日本人>
と題する連載がはじまっている。
植村俊平は、 文久3年(1863年)の生まれ、明治19年7月東京大学法学部卒業、翌年には助教授となった。
羯南たちよりはだいぶ後輩にあたる。
この英国留学は、在職中の派遣留学だったと思われる。
のちに、日本銀行文書局長、住友本店支配役、鉄道庁理事などをへて明治43年に第四代目大阪市長に就任した。
この記事は、英国留学に赴く途中で寄った米国で見聞した同地の日本人の状況をレポートしている。
その後も新聞日本には
<馬尼刺紀行> 竹陰處士
<京城通信>
<東北漫遊紀行> 東海散士
<南島近事> 夢想子
<マルシャル群島事情> 圖南居士
<欧人侵略考>
<南洋彙聞>
<巴里万国博覧会一班>
と海外、国内の紀行ものが続々と掲載された。
これらにまざって
<新富町桐座演劇評>
などの各地の芝居評
<美術家> 霞城山人
などの美術評など
なかなか、どうして、ひとことで<政論新聞>と言い切ってしまうのは、間違いではないかとも、思われる充実ぶりである。
たかぎ