記事を読むと、事件は3月に発生。
数名の容疑者が捜査線上に浮かび、次々に調べを受けるなか、美少年ばかりを誘拐し、暴力をふるっていた某容疑者(当時22)が捜査線上に浮かび、捕まった。美少年をねらう猟奇的な犯罪に、世の中の目は釘付けだったようだ。
二日後の朝日新聞の7日5面には、「麴町の少年殺しに就いて」と続報まで載り、警視庁が証拠集めに奔走していること、容疑者の家族構成、学歴にくわえ、詐欺や窃盗の犯歴があること、一時横浜に逃げて、警察官の世話になっていたことなど、およそ取材したことをすべてを記事にしたような詳しい情報が載っていた。
1行が22字のところ、60行以上もこの記事を扱っていた。
このころの「日本」の、社会面的な記事といえば、せいぜい社会悪を糾弾する贈収賄事件の顛末などだ。
そんな「日本」の社会面的な記事について、羯南が記者たちに編集方針をしたためた手紙が、「古島一雄清談」(1951年・古島一雄述/毎日新聞社編)に紹介されている。
その題は「『日本』新聞と三面記事」。
古島は「日本」の元記者であり、後に衆院議員、貴族院議員を務め、戦後は吉田茂のご意見番でもあった。
きくち