熊本城の重囲が解け、山川率いる部隊が喇叭を吹いて入城してくるとき、城内には歓声が上がったというが、このとき、頭に、致命傷となるのを五分の差で避けたという擦過傷を受けていた谷は、まさしく、手塩にかけた山川に救われることとなった。このあたりの情景は司馬遼太郎の「翔ぶが如く」に生き生きと描かれている。(「翔ぶが如く」九巻)
柴四郎は、こうした二人の関係があった上で、谷干城と出会った。もっとも、正確に言うと、四郎は白虎隊として参戦するはずだった戊辰戦争において、官軍に投降した際にも谷を見てはいた。後に四郎は次のような述懐を書いている。
自分が初めて、谷子爵の顔を見たるは、子爵が官軍の一武将として会津征伐に来られたときで、真逆東西も弁ぜぬ、少年を斬りもすまいから、進み出て救命を哀訴せよと、年長長たる人々より、勧められ、オズオズ官軍の宿営を尋ねて、彷徨し足る末、日暮方、漸く土佐藩の陣営を見つけて、投陣した時、子爵も居られた。其後、西南戦争の時、新聞記者として従軍し、熊本鎮台に於て、再び子爵の顔を見た。(「谷干城遺稿」より)
西南戦争において、四郎は、得意の文章力を活かし、この戦況を報じる書簡をしたため「東京日日新聞」「東京曙新聞」に寄稿し、記事となる。それまでにも、学資をかせぐために「東京日日新聞」に投稿などはしてはいたものの、この出征が四郎に生業としての文章家の道を大きく切り開いたといえる。戦後すぐに、文筆に長けているということで、四郎は「戦史編纂御用掛」を命じられる。
やまだ