弘前に一時期まで台湾の国民党の代表が日本へ赴任すると必ず訪れていたいう寺があるという。新寺町の貞昌寺である。
そこには山田良政、純三郎の兄弟の碑がある。その碑は孫文が文章をつくり、犬養毅が書を書いている。山田良政は辛亥革命の端緒となった1900年の恵州起義で亡くなり、一連の辛亥革命に至る義挙に参加した日本人の中で最初の犠牲者であった。弟の純三郎は兄の遺志を継いで、中国にわたり孫文の片腕の一人として活躍、以降1947年に上海居留民とともに日本へ帰るまで、常に日中関係の好転のために腐心した。彼らの生家は、弘前の在府町、まさに羯南の生家の向いであった。
良政は、叔父の菊池九郎の経営する東奥義塾に学び、さらに青森師範に学んだ。しかしこの学校で1888年賄征伐の騒動がおこり、彼は友人をかばい退学処分となってしまう。このくだりは、羯南の司法省法学校退校の様子と酷似している。当時各地の学校で大なり小なり似たような事件がおこり、同様のめにあった前途有為の青年たちが少なからずいた、ということだろうか。学校を追われた良政は幼い時から親しんだ羯南を頼って上京した、と言われている。
たかぎ