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青森新聞 編集長時代

 東京から弘前に戻った羯南は、中田姓から陸姓になる。

 戸主になると徴兵から免除されるということから、徴兵のがれ、とする論もあるが、真実は闇の中である。

 陸という姓が本当にあったのか、それとも羯南の好きな中国の詩人・陸遊から創作したのか、
これもはっきりしない、ただこの姓が珍しいことはたしかである。
長男の乾一が夭逝し、養子の四郎のところにも子供がなかったために、今は陸姓を名乗る子孫は残っていない。
 
 やがて羯南は青森新聞に職をえる。明治12年の後半だと思われる。
青森は、明治になって開けた街で、古都弘前から居を移した羯南には落ち着かない土地であったろう。昔、日本全国で唯一、村にできた国立大学に通ったことを思い出す。

 羯南は、親戚の中田敬太郎にあてた手紙で

<当地は深雪にて且つ厳寒其上無聊、韓退之が潮州に貶せられし時の思あり。
毎日書と酒とに因て慰懐罷在候。>
(明治13年1月25日)

と所感を語っている。

 青森新聞は、明治12年3月6日の創刊。青森で初めての新聞、北斗新聞の後を引き継いだ形であり、発行所は、青森県庁の廓内、今の県庁と新庁舎の間くらいの位置と言われている。
印刷所の真文舎が発行しており、印刷業と新聞業が兼営されていたようだ。

 当時のいずこの新聞も同じだったように、印刷で収益をあげ、新聞の赤字を埋める、という構造だったようで、結局16年には廃刊、その後は、青森新報、そして明治21年12月に創刊された東奥日報に引き継がれていく。

 <東奥日報百年史>によれば、東奥日報の創刊者は、菊池九郎であり、東奥義塾のメンバーが中心となった青森の自由民権運動の運動母体<共同会>のメンバーが思想的バックボーンになっていた。そこには、羯南も、本多庸一も参加していた。

 青森新聞で編集長稼業の傍ら、共同会に拠って、政治活動の一端にも加わっていたのだろう。その意味で、青森時代は、羯南にとって、再び来るべき東京での活動のための<祭りの準備>の場であったのかもしれない。

たかぎ
by kuga-katsunan | 2007-08-31 00:03 | 研究
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明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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