引き続き 、「谷干城遺稿 三」〈書簡部分)および「陸羯南全集第10巻」より拾い読みを続ける(解説は有山輝雄著「陸羯南」、他による)。
明治29年9月26日(谷干城⇒陸羯南宛書簡)
「・・・伊藤〈内閣)が八方美人的に引受たる戦後経営之不始末と板垣が無学無識之内務方針は如何之愧態を呈する・・・大隈(外相)も入閣(松隈内閣)に成り候様子・・・大隈は軍備を少縮せずとの意見にて・・・軍人等の激昂を恐れ彼が一時の姑息策にて野夫は決而同表する不能と相考候。・・・一時の椅子に恋々として増税又は外債等を為さば、敗北の上に後世へ汚名を残すこと必然と被存候。新政府が本会議に人望を博すべきは軍備不動に非ず左の件にあり。
一 新聞条例改正(発行停止を廃する)
一 集会政社法改正
その他自由党等の従来唱へ来たりしものにして・・・一切断然と決行し・・真正の立憲政体主とするものなる事知ら令めれば必ず勝算を得ん。・・・増税は第一の禁物・・・軍人を恐れて政治の施行敏捷なら令むる能はざるは、唐の藩鎮の兵の如く、東ローマの末世の如く、君ありて君の実なく、是亡国の徴なり。・・・」
上記のように、谷も、「三国干渉」⇒「臥薪嘗胆」*⇒「軍備拡張」や地租増徴に反対であったようだが、陸羯南も共同歩調を取った。但し、陸羯南は、ただ反対キャンペーンを展開しただけでなく、賛成論者にも紙面を提供し、新聞「日本」を論争の場にした。陸羯南にとって、「二つの対立的意見の『均衡』の喪失」こそが、最悪の病理現象であったようだ。
*この言葉は、新聞「日本」紙上で三宅雪嶺が最初に使ったが、雪嶺は
ロシアへの敵愾心を煽る意味では使っていない、と有山先生は述べ
ている。
しぶさわ