その月報の巻頭には池辺一郎が書いている。
池辺一郎は、ゴーギャンやルドンの愛好者にはおなじみの名前だが画家であり、実は池辺三山の長男でもある。彼は父の伝記も書いている。(ただこの月報を書いた翌年には亡くなっているのでその仕事は、三山の次女の息子である社会学者の富永健一に引き継がれる。)
一郎は1932年から38年にかけてフランスに留学していたのでその縁もあってフランス印象派、象徴派の紹介者の一人となったのであろう。父三山は、旧主の熊本の殿様のおつきとして1892年から1895年にかけてパリに留学していた。親子二代でフランスへ留学したことになる。
一郎は<鳥居素川のこと>と題して書いている。
<鳥居素川(本名赫雄、1867-1928)は、明治25年頃、天田愚庵という奇人の門人となったところで経歴をはじめている。それ以前に上海にいたことがあるらしいが、その時期のことははっきりしない。>
鳥居は、やはり三山と同じ熊本の人。慶應三年、1867年、に細川藩士の三男として生まれている。彼はその生まれからいって明治の子だといえよう。
兄数恵は、西南の役に際し、三山の父、池辺吉十郎が糾合した熊本隊八百人の中の二番小隊長として西郷を救援しその転戦のなかで戦死している。三山とは親子兄弟を通じた深い縁を持っている。
熊本の済済黌に学び、明治十七年に上京、独逸協会専門学校で学んでいる時に荒尾精に出会う。荒尾の勧めで、明治19年上海にあった日清貿易研究所(東亜同文書院の前身)に留学した。