早稲田大学村山先生の「陸羯南の漢詩ー同時代漢詩人との交流」と題する講演が弘前で開催されました。
非常に堅いテーマですが、羯南理解のためには重要なテーマで、50人近くの皆様に聴講していただき、大変盛況となりました。
明治中期は、西欧文明の導入の中でも、一方の伝統的な漢詩文化の最盛期でもあったという。オリジンは、中国文明だが、日本独特の文化の一部ともなった。
新聞日本の発行停止の理由の多くは、羯南らの論説にあったが、青崖の評林の時事漢詩も、政府の怒りをかった大きな要因だったといわれている。
「日本新聞が明治二十二年から二十九年まで八年間に受けた発行停止の数だが
黒田内閣の下に三回 三十一日間
山県内閣の下に二回 三十二日間
松方内閣の下に二回 二十九日間
伊藤内閣の下に二十二回 百三十一日間
松方内閣の下に一回 七日間
合計 三十回 二百三十日
という数だ。これでは、新聞の経営はなりたたない。」
(古島一雄 「一老政治家の回想」 中央公論社 )
新聞にとっての漢詩の重さが大きかった時代だった。
たかぎ