桐生悠々といえば、信濃毎日新聞の主筆として新聞史に名前を残している。
大正期のシーメンス事件、昭和初期の社説「関東防空大演習を嗤ふ」の二回にわたって、その座を追われた。
自らの節に殉じる新聞人であったが、若き日々には、下野新聞、大阪毎日新聞、そして大阪朝日新聞と、あちこちの新聞社で腕を磨いた。
彼は、二度目の主筆辞任の後に、個人雑誌「他山の石」を発行し、そこに、自らの半生を振り返る随筆「思い出るまま」を執筆した。
金沢出身の桐生は、大阪の土地になじめず何とか東京で就職口がないものかと、郷里の先輩の帝大法学部の戸水寛人教授の紹介で、朝日の池辺三山を訪ねた。
たかぎ