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<羯南と古島一雄>(49) 私立大学評判記(その38)

 今回から「(十四)慶応義塾の沿革(中)」に入る。時は明治26年11月16日、次年の2月8日には日露戦争が始まるわけで、日本とロシアとの緊張が高まっているころでもある。ここでは慶応義塾の「月謝制度の創定と演説会の創始」が紹介されている。今回は、月謝制度を取り上げよう。

 今日では当たり前であるが、学校が授業料を徴収するようになったのは、慶応が初めであった。古島一雄は次の福沢諭吉の文章を引用する。

 「古来日本に於て人に教授する者は所謂(いわゆる)儒者にして此儒者なるものは衣食を其仕(つかまつ)る所の藩主に仰ぐ歟(か)若くは出入の旦那より扶持米を収領し、或は揮毫して潤筆料を取り、或は講筵(こうえん)に出頭して謝物を受ける等極めて曖昧の間に心身を悩まして人の為に道を教へたることなれども今や世界中の時勢は斯る曖昧なるものに非ず教授も亦是れ人の労力なり、労して報酬を取る、何の妨あらんや、断じて奮慣を破て学生より授業料を取るの法を創造す可し」

 江戸時代まで日本の学校では授業料という発想がなかった。近世の教員は上述のようなさまざまな方法や束脩(そくしゅう)という入学金にあたる金品で収入を確保していた。ちなみに「授業料」という言葉は福沢の発明であったという。
 さらに、以下のように続く。

 「束脩の名義甚だ不適当なれば改めて之を入社金と名け其金額を規則に明記して之を納むるに熨斗(のし)水引を要せずとて生徒入社の時には必ず金三円を払はしむることに定めたり。当時世間に例もなきことにして且つ三円の金は甚だ多きに似たれども一は以て軽躁学生の漫(すずろ)に入来するを防ぎ、一は以て塾費に充んとする趣行なりき」

 上記のとおり入学金は3円としたが、授業料は毎月50銭であった。その根拠を次のように決めたと述べている。

 「毎月授業料の高を定むるに当て其標準と為す可きものなし。依て案ずるに当時の教員若干名其一月の食費雑費を概算すれば物価下直の時節一人に凡そ四円にして足る可き金額と塾の諸雑費とを其計して之を学生の数に割付れば一名よも毎月五十銭を収めて過不足なかる可しとて慶応義塾の授業金半円なりと記したるは本塾創立以来明に金を取て人に数ゆるの始めなり」

 毎月の授業料は教員1ヶ月分の食費をもとに計算したことがわかる。年にすると6円となる。明治5年の白米10kgの値段が36銭であったという(『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社)。これを基準に現在の価値に換算すると入学金は約35,000円、授業料は約70,000円となる。

 これは、現代の大学の授業料と比較すると安く感じられる。しかし、当時の学生の中心である士族にとって、藩校は無料であったし、秩禄処分で困窮していたことを考えるとかなりの冒険であっただろう。

 福沢は、このように学費の徴収を始めたため、世間から当初は「不義不徳の商売人」と批判された。しかし、官学も私学も追従し、この時期には定着していた。

 古島は慶応に対し、この授業料を高く設定することで、乱暴な学生を排除できたことは認めるが、金持ちの子弟が行く学校になってしまったと嘆く。

 いしがみ
by kuga-katsunan | 2011-12-27 14:41 | その他
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明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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