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<羯南と古島一雄>(48) 私立大学評判記(その37)

 今回は「(十三)慶応義塾の沿革(上)」の後半となる。
 ここでは慶応義塾の開学から数年までの学生の様子と教育の風景が描かれている。

 古島一雄は、次の福沢諭吉の文章を引用する。

 「諸藩の壮年士族が戦場より帰りて、直に学に就き、其心事挙動の淡泊にして、活発なるは真に愛す可しと雖も、奮時の殺気なお未だ去らず。動もすれば粗暴に走りて学塾の教場或は一小戦場たる可きの恐れ少なからず」

 当時の時代背景もあって乱暴者が多く、沈黙をもって暗に諭すことも、理論の深遠をもって直接諭すことも無理であった。教員側が旧来の行儀作法を重んじることなく気さくに生徒に交わり、そのうえで「理を説き道を示して」、ようやく学生らしく誘導することができたという。また、もっとも困ったのは、維新以後3、4年とのことである。 

 次に教育の風景について、福沢は以下のように記している。

 「創立の初めに当ては、学問の規則とて特に定めたるものなく、唯英文を読んで其義を解することを勉め、所用の書籍も僅かに一、二冊の会話編又は文典書あるのみ」

 開学当初は、教材すら乏しかったことがわかる。さらにその後の様子が綴られている。

 「万延元年に至て米国開版の原書数部とウエブストルの辞書一冊を得たり。之を本塾蔵書の初として其他に当時藩幕政府の筋より私に数部の英書を借用し、又一年を隔て文久二年英国開版の物理書地理書学術韻府等の書に併せて経済書一冊を得たり。即ちチャンブル氏教育読本中経済の一小冊子にして当時は日本国中稀有の珍書なりき」

 開学後4年たって初めて経済学の原書が手に入ったのであった。そして、学生は以下のごとく熱心に勉学に励んだようである。

 「右の如く書籍に乏しくして生徒の書を読まんとする者は手から原書を謄写して課業の用に供する程の有様なれば個より塾中に教則を立てんとするも其方便ある可らず」

 「五年を経て慶応三年の冬、英国の原書数百部を得たり。之を本塾一新の機とす。此時には地理物理学の書は無論、従前稀に見たる経済書歴史の如きも各其種類に従って数十冊づつを備へ生徒各科を分けて書を講ずること甚だ易く、塾中復た原書を謄写するが如き迂遠の談を聞かず」

 開学9年してようやく原書が個々の学生にわたるようになった。しかし、人はこうした苦労を経験した方がいいようだ。
 古島は、次のように分析している。

 「方今の世、教師備わり、教科書成り、博物館あり、図書館あり、知見を博くせんと欲すれば其求むるに従うべく、書を読まんと欲すれば其見るに任すべし、殊に今の慶応義塾の如き其設備の完全なる私立学校中多く其此を見ず」

 明治中期ともなると慶応義塾の教育は充実していた。しかし、卒業する学生の質はどうか。

 「慶応義塾が人材を出せしは却って此の不完全不備の時代に多くして、整頓時代に少なきを見るは何ぞや。嗚呼々々社会の秩序漸く成りたるが為めなりと云う乎。嗚呼々々風雲際会の機、少なきが為めなりと云う乎」

 時代が混乱し教育が不完全の方が、優秀な人材を輩出と古島には映ったようである。生死に直面し修羅場をくぐる経験がもっとも人を成長させるということだろう。幕末の坂本竜馬しかり、戦国の織田信長しかり。

 とりわけ古島自身の実感があったのだろう。彼自身が乱暴者であり、いくつかの学校に入ったが退学を余儀なくされた。大学にも行っていない。彼の同志の多くも同様であった。陸羯南も司法省法学校(現・東京大学法学部)を中退しているし、正岡子規も帝国大学(現・東京大学)を途中で辞めて、新聞「日本」へ入社したのであった。彼は学校教育を信用していないように思える。

 いしがみ
by kuga-katsunan | 2011-11-30 08:43 | その他
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明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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