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<羯南と古島一雄>(31) 私立大学評判記(その20)

 今回から、再び私立大学評判記に戻ろう。「(六)官立大学の今昔」に入る。

 ここで古島一雄が、明治初期の東京大学を理想視していることがわかる。彼は、次のように述べている。

 「試みに十数年前の東京大学に見よ。当時の大学は、今の帝国大学の如く爾かく官学的なりしか、今の卒業生の如く爾かく吏習的なりしか。」

 その象徴的な出来事が、明治9(1876)年の天長節(天皇誕生日)での騒動であった。その経緯を、当時学生であった西芳菲が書き残しており、古島は、その文章を取り上げている。以下にその概要を紹介しよう。

 その日は、天長節だった。学生の西、福富孝季、増島六一郎、城多虎雄たちは、慶事を祝い大いに飲んでいた。その中で、日ごろ制服を非難する学生に天罰を与えようという話になった。(福富たちからすれば、明治天皇から下賜された学生服をけなすことは、道義に外れた行為であった。) 

 福富たちは、彼らを運動場に引きずり出し、「天誅」と言いながら殴った。(当然、福富らにすれば、正義を貫いたという思いだったのだろう。)  

 しかし、翌日、暴力行為を行った福富ら15名は、校則を破ったとして罪に問われた。井上良一教授が審判に入った。その時、福富たちを弁護したのが、高橋健三と河上謹一であった。だが、酩酊の上の行為であったため、被害者の申し立てのみが採用された。

 それで、福富、増島、城多、千頭は退学に、西、大谷木、河原は、6週間、岩崎、磯野ほか7名は4週間の停学となった。しかし、彼らは、処罰が異なるのは不公平であると全員の退学を申し出た。

 その時、斡旋者がいて、近日中に退学者が許される旨の内諭があった。さらに鎮静化に尽力したため、大事には至らなかった。実際、退学者もその年の12月には、再入学が許可されたのであった。

 この事件について、古島は、以下のように評価している。

 「今の大学生をして此一節を読ましむれば、其乱暴なるを痛罵すべきは勿論、諄々乎として其挙動の学生に有るまじき事たるを説くべく、而して其議論の如何に老成らしく、如何に着実らしく、如何に尤もらしく、如何に正理らしく組立てらるるやを見るべきなり。」

 確かに乱暴ではあるが、当時の学生の真摯な心意気、潔さを感じさせる。さらに、もう少し、突っ込んでみれば、姑息でなく、生き生きとした自由闊達さをも感じさせてくれるのではないだろうか。

 明治も30年代ともなると、東京帝国大学を出れば、将来は安定していた。しかし、官吏になるための試験に汲々とした学生は増えたが、上記のような心意気のある学生は減っていたのである。

 なお、高橋、福富、千頭、河上は、新聞「日本」の発足にかかわる連判状の人物であった。また、新聞「日本」の相談役が高橋、千頭であり、芝居評その他の担当が、福富、時事狂句担当が西であった。ちなみに河上は、逸材といわれたが、日本銀行時代、総裁に反旗を翻して退職。その後、住友財閥に招かれ、住友銀行の発展の基礎を作った。

 いしがみ
by kuga-katsunan | 2010-06-29 13:44 | その他
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明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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