寒川鼠骨といえば、子規山脈に連なる俳人で新聞日本でも働き、子規没後も子規庵をまもった人物である。
その鼠骨が、羯南の十七回忌にあたって<日本及日本人>(第869号、大正13年)がくんだ特集<陸羯南を憶ふ>の中で、<陸翁の長清会>と題する文章を残している。
「神田の書生町から八丁堀の江戸っ子町に移って、下町気分にひたつて獨り喜んでゐたのはよいが、私の健康は兎角に勝れず缺勤がちに愚圖々々するやうになつた。『上野に移つてはどうだね、下町は空気が悪いからいけないよj』と陸翁は私を上野に誘はれた。」
(日本及日本人 第869号、大正13年)
と、ここに羯南の<声>が出てくる。
自分の社員をいたわる社長羯南の雰囲気が伝わってくる。
鼠骨は、このアドバイスを受けて、上野の元光院へ移り住んだ。
この元光院が、長清会の会場であった
たかぎ