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タグ:青木彰 ( 13 ) タグの人気記事

青木先生の長谷川如是閑  4

 「 彼は実は早大生で、そのときは新宿駅前で十人近い男女と並んで靴磨きのアルバイトを続けていた。

  彼以外はみな本職である。彼は「年頭小言」の載っている新聞を同業の人の数だけ買い、みんなに読ませた。そしてこういった。

  「われわれはこの往来の砂利となって人々にふまれながら、日本の行く道を固める人間になろうじゃないか」

  みんな汚れた手で新聞を握りしめながら泣いたという。


  如是閑が「クツみがき」を書いた戦後期と今日とでは、社会相も価値観も違い、私自身、靴磨きを”下層の街頭の砂利”とは毛頭思わない。

  ただ如是閑の心のたかぶりには共感する。

  同時に当時の新聞と読者・国民との濃密な結びつき、とりわけ新聞の重みとでもいったものに心を打たれるのである。

  もちろん、テレビの発達などマスメディアの多様化が進んだ今日、新聞のウェートが相対的に低下したのは理解できる。

  だが、それにしても、いまの新聞は軽すぎはしまいか。

  新聞人に気の緩みというか、時代をリードする気概の欠如が感じられてならない。

(中略)

  なによりもまず、新聞・新聞人に時代を切りひらく気概を持ってほしいと思う。」
(平成2年5月12日付)

(「見る 読む 叱る  私のメディア評論」 青木彰  東京新聞出版局  平成6年4月発行)         
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by kuga-katsunan | 2009-11-22 08:05 | トピックス | Comments(0)

青木先生の長谷川如是閑  3

 「  「年頭小言」はいう。

  「涙に頬をぬらしながら逃げていく私を、往来の人は何と思ったことだろう。

   私は立ち止まって頬を拭いながら頭のなかで叫んだ。

   「日本は亡びない」・・・・・・

   万人のために万人に踏まれながら生きている街頭の砂利のような

   人たちのうちにこのような「人間」をたった一人見出して・・・・・

   上層の日本はどうあろうとも、その下層の街頭の砂利が、

   人間というコンクリートで堅固に舗装されていたら、

   その上を行く日本は断じて引っくりかえることはない」

   この新聞が出て数日後、鎌倉の如是閑邸に

   「御茶の水の靴磨きです」

   と名乗る青年が訪れた。」

(つづく)

  たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-11-15 21:45 | トピックス | Comments(0)

青木先生の長谷川如是閑  2

  「ところが青年は

   「持っている靴墨の質が悪いのでいい靴墨を持っている人にやらせてくれ」

  と磨くのを断った。

   「いいからそれでやりなさい」

  と何度いっても、彼は

   「靴磨きが人の靴を台無しにしては申し訳がない」

  と聞きいれない。

  仕方なく小さな紙幣を渡して行こうとしたが、彼はそれも受け取らない。

  ついに如是閑は紙幣を投げだして、その場から駆け去った。」

つづく

  たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-11-14 22:48 | トピックス | Comments(0)

青木先生の長谷川如是閑

  青木先生の七回忌が近付いてきたので、いろいろと整理しながら、久しぶりに先生の著書<見る 読む 叱る  私のメディア評論>(東京新聞出版局、平成6年4月)を開いてみた。

  この本は先生の形見分けのときに頂いた先生ご自身が持っていらっしゃった本である。ところどころに赤が入っており、ここを次回は直そうと思っていらっしゃったことがわかる。

 巻頭に<長谷川如是閑の「クツみがき」>と題するエッセイが載っている。少し長いがご紹介させて頂く。

 「古いが、ちょっといい話である。
ジャーナリストの大先達として知られる長谷川如是閑に「クツみがき」という小文がある。

「週刊朝日」の昭和26年5月6日号に掲載された。

 これは、東京新聞のこの年の元旦付に載った「日本断じて滅びずの根拠」という「年頭小言」の後日談である。

 戦後の混乱がまだ続いているころ、如是閑はお茶の水橋のたもとで、若い靴磨きに靴を磨かせようとした。」

(続く)

たかぎ



 
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by kuga-katsunan | 2009-11-08 20:41 | トピックス | Comments(0)

陸羯南会設立記念シンポジューム20090124

 07年は羯南、生誕150年、没後100年という節目の年。
 その翌年10月、地元弘前で「陸羯南会」が発足しました。「羯南の真の心を研究する活動、併せて羯南人脈の人々を究明する活動をしていきたい」というのが趣旨。明けて09年1月24日、その設立記念シンポジュームが開かれることは、たかぎ主筆のアナウンスがあったとおり。
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 そのシンポジュームの主賓はたかぎ主筆だったのです。メインテーマの講師として招かれ、講演、およびパネルディスカッションに参加することになりました。わたくしもたかぎさんの講演の記録者として参加しました。
 講演のテーマは、「陸羯南と『日本画報』」ではありましたが、司馬遼太郎から青木彰に託され、そして我々青木塾の面々が羯南研究に参加することになった経緯から始まり、司馬さんの追悼番組に出演された青木先生のビデオをまず上映。そして1時間にわたって、羯南の新聞人としてのユニークな活動の一端である、グラフ誌「日本画報」について説明しました。
 後半のディスカッションでは、地元弘前の羯南研究者のお三方に混じって、たかぎさんは羯南の足跡、受け継がれた遺志を弘前出身者からの観点で光を当てることの意義を強調しました。
 会場は弘前市立図書館の視聴覚室でしたが、約80人の参加者が詰めかけ、補助いすを出すほどの盛況でした。東奥日報、毎日新聞、青森放送など、メディアの取材も入り、地元弘前での熱気を肌で感じてきました。


                                  すずき
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by kuga-katsunan | 2009-01-25 22:09 | Comments(0)

「日本画報を復刻」

5月28日付のN紙文化欄(44ページ)に、主筆ならびに本研究会のことが掲載されておりますので、お知らせします。By konaka.
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by kuga-katsunan | 2008-05-28 06:44 | ニュース | Comments(0)

新聞日本と囲碁⑥ 長清会

囲碁に関する記述の最後に長清会について。

雑誌「日本及び日本人」大正12年9月号に寄稿した元新聞日本社員で詩人の寒川鼠骨によれば、長清会は陸羯南が作った囲碁サロンであり、上野寛永寺の子院三十六坊の一つを会場としていた。
三十六坊は江戸時代、大名が幕府に寄進した寺の数々で、戊辰戦争でかなり壊されたもののいくつかが当時も残存していた。会場となった坊は一人の僧侶が守っていたらしいのだが、羯南に貸したまま、嵯峨天龍寺にいってしまったと書かれている。

この会の性格については「単純な清談会(談話サロン)であり直接行動を評定するようなアジトではなかった」としているが「顔ぶれが時の政界にとってかなり物騒な連中だったので、飲んだり論じたり碁を打ったりだけでなく、(天下国家について)憤慨して激論が交わされた。だから娯楽の場というだけでなく同士結束の場になった」と評している。

要は血の気の多い面々が、碁を打つだけにとどまらず、天下国家について議論を交わす場であったようだ。

ここではだいたい午後に三々五々集い、食い物が並べられ、飲み食いしながらパチパチとやったり、本を読んだり語ったり。きわめて自由な集まりであったとのこと。

メンバーは陸羯南や正岡子規に加え、陸軍反主流派の三浦観樹(梧楼)、当時大隈内閣の閣僚だった犬飼木堂(毅)、国分青厓、三宅雪嶺、桂湖村ら漢学者、詩人など。先に書いた陸羯南の囲碁の「下手の横好き」はここで真価を発揮したということである。

当時の新聞(報知以外)を比較してみたことがあるが、囲碁欄を設けていたのは新聞日本だけであり、長清会での手合いの日々が高じて同欄に結びついていったことが想像できる。

一方「羯南居士17周忌に会して」に寄稿した羯南の盟友・稲葉君山は、「陸翁の提唱でできた長清会には、根岸時代の名士が網羅されていた。(中略)長清会を中心としての陸翁は、いつも私をしてありし翁の面影をしのばせる題材を成すのです。」と思い出を語っており、いかに陸羯南の生きざまにおいてこの会の存在が大きかったかがわかる。

(明治32年11月には、浅井忠が西洋に旅立つ送別会を大宮氷川公園で行い、その模様を陸羯南と浅井忠が「長清会大宮遊図巻」と題した絵巻物にまとめており、これは陸羯南全集第10巻の巻頭写真として掲載されている)

逆に見ると、長清会を通じて、陸羯南のもつ求心力に気づかされる。

そのような意味では、自らの志をもって「青木塾」や「土曜サロン」などをつくり、数多くの塾生や同士の求心力となった青木彰師の在りし日の姿は陸羯南に投影できるのではないだろうか。

また余談ではあるが、塾生で唯一、師と手合いした当方の見立てでは、囲碁の才能については羯南も青木彰師も五十歩百歩であり、「下手の横好き度」でも共通点が見出せそうである。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-12-10 00:04 | 研究 | Comments(0)

青木先生からの電話  ブログ開設一周年

 御蔭様でこのブログも開設から一年になり、ここで一度初心に戻って、私事にわたる部分もありますが、このブログの入口に立ち返ってみたい。

今考えてみると、やはりあの青木先生からの電話が始まりだったように思う。

 香港支店の5年の勤務から帰ってきて、国内の勤務にもだいぶ慣れたころ、中学生以来、長年の愛読作家の一人であった司馬遼太郎が亡くなった。
 たしか日曜の夜にテレビを見ていると速報のテロップが流れた。

  <作家司馬遼太郎氏 逝去>

 そのテロップを見て、不謹慎にも、私はあわてて近くの古本屋に駆け込み、未読の司馬作品を何冊か買い込んだ覚えがる。恥ずかしながらその時点では、青木先生と司馬さんとの縁がこんなにも深いものとは知らなかった。

 しばらくは、私も未読の司馬作品を読んだり、初期の作品をすずき君に頼んで探してもらったりと、司馬さんへの追想にひたっていた。
 そんなある日の午後、職場に青木先生から電話がかかってきた。何事かと思ってでた私に先生がいつもの調子で

 「たかぎ君、子規全集を探してくれないかな。
  すずき君に聞いたんだが、もうない、というんだ。」

 どうも、それが羯南への道の入口だったようだ。

 のちのち先生から直接お伺いしたり、<司馬遼太郎からの手紙>(朝日新聞社、この青木先生への取材も同窓のひのさんが手がけていた、というのは後から知った。)を読んだりすると、どうも先生が新聞社から大学の先生になるにあたって、新聞の先輩である司馬さんは、羯南の研究を勧めていたようだ。(このあたりの経緯は、先生の直系の愛弟子である、かざま君やいぬい君は、もっと詳しいと思うが)

 <司馬遼太郎からの手紙>には、司馬さんから青木先生への手紙がいくつか掲載されているが

 <たれか、講師をよんできて、
     <陸羯南と新聞日本の研究>
というのをやりませんか。
数人が、講師(臨時の)をやって、共同研究式にやって(多分に啓蒙的でも可)、大学の出版局から、軽装の本を出したらどうでしょう。
<陸羯南と新聞日本の人々>
でもいいです。
もしおやりになるなら、小生、学問的なことは申せませんが、子規を中心とした<日本>の人格群について、大風に灰をまいたような話をしてもいいです。露はらいの役です。>
(1986年12月28日 司馬遼太郎から青木彰への手紙)

と言われている。

 この手紙を読んで、青木先生も研究を始める気になり、知り合いの研究者の皆さんや、
はらだ君たち新聞の現場にいる人たちにも声をかけて準備されていた、という。

が、先生が一時期病気になられたり、協力する出版社などをめぐって頓挫してしまったようだ。

 そこへ、司馬さんの訃報である。

青木先生は改めて、<司馬さんからの宿題>、陸羯南の研究を準備され、その入口として、司馬さんが編集された<子規全集>から入ろうとされたのである。

 青木先生からの電話で、神保町、早稲田を歩いて、子規全集を探した。当時は今のようにネット古書店が発達していなかったので、居ながらにして日本中の古書店の商品の比較ができるようなことはなかったので、足で探すしかなかった。

 それから、次は、<日本の名著>の附録にあった読書案内の書籍を探し、そして明治文学全集の資料へと順番に広がっていった。

 とにかく、最終的には

<羯南文録>

<羯南文集>

が見つからなくて往生した覚えがある。

 司馬さんが青木先生に、青木先生が私たちに、羯南とともに、伝えたかったことは何だったのか、それを更に追及しよう、と、つかもと君は言う。

 時どき、はまぐち君に貰った青木先生の留守電のMDを聞いてみる。上海から電話をしたときにも聞いた、御馴染の留守電である。

 <はい、青木です
  只今留守にしております。
  恐れ入りますがピーと鳴りましたら
  お名前と御用件をお話ください
  有難うございました>

  ああ、青木先生は留守なのだと思う。

  今日も留守なのだ。

 でも、私は、今でも、突然、青木先生から、電話がかかってくるような気がしてならない。

 このブログは、皆、今は不在の青木先生に向けての手紙のつもりである。

今度お会いする時には、少しは、司馬さんと青木先生の羯南についての会話についていけるであろうか。


たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-11-24 07:50 | トピックス | Comments(0)

在りし日の青木先生

十数年前の話をここに書かせていただくことをお許しください。

当時、日本新聞協会のコンピュータ関係の仕事をしていた私のところに青木先生がおいでになるのは、ちゃんと仕事をしているかを監視にこられる時ばかりではありませんでした。時折、ご自分が進めている、もしくは進めたい研究やいろんなミーティングの前に、参加される皆さんに配るレジュメのメモを作られては「おかぽん、清書してくれ」とお持ちになられたものででした。そんなにしょっちゅうではありませんでしたが。いろんなメモをコンピュータで清書しましたが、先生の字の書き方によってボールドをかけたり、斜体にしてみたり、サイズを変えたりなどをして。出来上がったものを先生にお戻しするとしばらく眺めてから、「ここのところ、もう少し大きい字にして」とかちょっと注文が出されるのが常でした。

陸羯南研究のレジュメを清書したのもそのころです。いつものように「ちゃんとやっとるか」とあらわれて、「おかぽん、これを清書してくれ」と「陸羯南研究」と題されたメモを渡されました。いつもに比べるとちょっと楽しげな口調だったような記憶があります。

いつものとおり、清書して、お渡しして。ちょっと注文をつけられて、手直しをして。いつもどおり進んだそのときをいまでも覚えているのは、そのあとがいつもとちょっと違っていたからでした。
それは「おかぽん、これからは陸羯南だぞ」と力強く、ニコニコしながらおっしゃられたことです。これからの言論界のために、日本の社会のために陸羯南のようなジャーナリストのことを研究することが大事だとおっしゃられてお帰りになられました。いつもより眼力が強く、研究に対する強い気持ちが感じられたことや、いつになく楽しそうに「お前も少しは陸羯南を勉強せい」とおっしゃられたことが今も記憶の中に残っています。本当に先生がその研究をやりたいんだな、そのお手伝いができる機会があればうれしいなと、そのときは思いました。

私はその後いろいろあって、先生に不義理をしながら生きてきましたが、陸羯南のことは忘れたことはありませんでした。先生がお亡くなりなったとき、陸羯南研究はどうなったのだろうと思いながらも、その数年間の不義理が恥ずかしくて、なかなかそのことを周りの方々に尋ねることができませんでした。昨年の青木塾で皆さんに久しぶりにお会いして、高木さんをはじめとするグループの皆さんが先生の遺志をついで、いまも活動されていることをお聞きして、きっと先生もよろこんでいるだろうなと、自分もうれしく思いました。

たぶんいまのような言論界の状況や社会情勢を見越していた先生が早くから目をつけて、陸羯南研究を進めようとしていのだと自分は思っています。先生は強い気持ちを持って、この研究に取組まれていたと思います。自分がちょっと触れさせていただいた先生の思いを皆さんにお伝えしたくて、ブログを書かせていただきました。

自分も皆さんのお手伝いができれば、皆さんと一緒に活動できるくらい力がつけば、と思っています。よろしくお願いします。

ご静読、ありがとうございました。

オカポン
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by kuga-katsunan | 2007-05-12 22:15 | その他 | Comments(0)

空母 赤城艦長 青木泰二郎大佐 その一 

 空母赤城の艦長であった青木大佐は、このブログのスタートとなった青木先生の父君にあたられる。司馬さんは、<街道をゆく>の三浦半島記の中で、青木先生を父君青木大佐と対比しながら紹介しているが、その章は<ミッドウェー海戦>という題である。

  <この(ミッドウェーへの)航海中に、海軍記念日(5月27日)をむかえたので、赤城の艦長の青木泰二郎大佐は、後甲板に全乗員を集め、37年前の日露戦争勝利のあとの「連合艦隊解散の辞」を朗読した。・・・・その結句の「勝って兜の緒を締めよ」という文言を引用して、青木艦長が、将士のおごりをいましめた、という。>

  (司馬遼太郎 街道をゆく  三浦半島記  朝日新聞社)

 青木大佐は、海軍兵学校41期、大正2年12月19日の卒業、赤城へは、ミッドウェー作戦が始動する前月4月に着任したばかりであった。前任地は、土浦航空隊司令であった。

 青木先生に、東京の新聞社から、茨城の田舎の大学に来られて抵抗はないか、とお伺いしたことがある。

  <それは、給料は半分以下になるし、家族とは離れるし、君たちのような学生さんの相手はしなければならないし、とギャップは多いが、考えてみると親父も同じくらいの年で土浦に来たのだから、このあたりは青木家にとっては故地なんだな。>

 その頃は、青木先生が筑波に来られて2ケ月ほどであったので、父君のことも存じあげなかった。戦前に東京から土浦に仕事で来られるとは、どんな職業の方だったのだろう、と思ったのを覚えている。

 ちなみに、連合艦隊解散の辞は、秋山真之の作とされている。

たかぎ  
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by kuga-katsunan | 2007-03-24 08:50 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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