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タグ:長谷川如是閑 ( 8 ) タグの人気記事

新聞日本 運動記者 安倍能成

 以前、中野目先生のお弟子さんから、安倍能成が若き時代に新聞日本の記者をしていた、と聞いて何か資料はないかと探していた。

 安倍は、松山出身の哲学者で一高校長、学習院院長を務め、一高時代の同級生で後の岩波書店の創業者岩波茂雄との交友は一生続いた、という。

 その安倍が岩波から出した「我が生ひ立ち」という自伝(1966年11月)の中に<運動記者>という項があった。

 「三十七年の七月に落第して、私は月々に十一円を、貧しい郷里の父から送つてもらふのをすまなく思った。」(同書)

 日露戦争の戦中である、安倍は一高を落第、改めて故郷の父を思ったようである。
友人の友人の紹介で、新聞日本で運動記者を求めているとの話があった。安倍は、運動に興味がないと一度断るが背に腹はかえられず、面接に赴く。

 「とうとう小川町に近い神田雉子町の、煉瓦二階造りの日本新聞社へゆくと、出てきたのは河東碧梧桐と長谷川如是閑の二人で、結局私は採用されることになった。」(同署}

 まったくの余談だが、先日のテレビドラマの「坂の上の雲」では日本新聞社は平屋の日本家屋になっており、キャプションで入った所在場所も違ったところとなっていた。

  閑話休題、河東は安倍と同郷、長谷川も前年に日本に入ったばかりの新人記者、若手の気安さでじゃあ、まあ、君、書いたものを拝見、ということになったようだ。

たかぎ 
 
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by kuga-katsunan | 2011-12-24 05:52 | トピックス | Comments(0)

青木先生の長谷川如是閑  4

 「 彼は実は早大生で、そのときは新宿駅前で十人近い男女と並んで靴磨きのアルバイトを続けていた。

  彼以外はみな本職である。彼は「年頭小言」の載っている新聞を同業の人の数だけ買い、みんなに読ませた。そしてこういった。

  「われわれはこの往来の砂利となって人々にふまれながら、日本の行く道を固める人間になろうじゃないか」

  みんな汚れた手で新聞を握りしめながら泣いたという。


  如是閑が「クツみがき」を書いた戦後期と今日とでは、社会相も価値観も違い、私自身、靴磨きを”下層の街頭の砂利”とは毛頭思わない。

  ただ如是閑の心のたかぶりには共感する。

  同時に当時の新聞と読者・国民との濃密な結びつき、とりわけ新聞の重みとでもいったものに心を打たれるのである。

  もちろん、テレビの発達などマスメディアの多様化が進んだ今日、新聞のウェートが相対的に低下したのは理解できる。

  だが、それにしても、いまの新聞は軽すぎはしまいか。

  新聞人に気の緩みというか、時代をリードする気概の欠如が感じられてならない。

(中略)

  なによりもまず、新聞・新聞人に時代を切りひらく気概を持ってほしいと思う。」
(平成2年5月12日付)

(「見る 読む 叱る  私のメディア評論」 青木彰  東京新聞出版局  平成6年4月発行)         
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by kuga-katsunan | 2009-11-22 08:05 | トピックス | Comments(0)

青木先生の長谷川如是閑  3

 「  「年頭小言」はいう。

  「涙に頬をぬらしながら逃げていく私を、往来の人は何と思ったことだろう。

   私は立ち止まって頬を拭いながら頭のなかで叫んだ。

   「日本は亡びない」・・・・・・

   万人のために万人に踏まれながら生きている街頭の砂利のような

   人たちのうちにこのような「人間」をたった一人見出して・・・・・

   上層の日本はどうあろうとも、その下層の街頭の砂利が、

   人間というコンクリートで堅固に舗装されていたら、

   その上を行く日本は断じて引っくりかえることはない」

   この新聞が出て数日後、鎌倉の如是閑邸に

   「御茶の水の靴磨きです」

   と名乗る青年が訪れた。」

(つづく)

  たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-11-15 21:45 | トピックス | Comments(0)

青木先生の長谷川如是閑  2

  「ところが青年は

   「持っている靴墨の質が悪いのでいい靴墨を持っている人にやらせてくれ」

  と磨くのを断った。

   「いいからそれでやりなさい」

  と何度いっても、彼は

   「靴磨きが人の靴を台無しにしては申し訳がない」

  と聞きいれない。

  仕方なく小さな紙幣を渡して行こうとしたが、彼はそれも受け取らない。

  ついに如是閑は紙幣を投げだして、その場から駆け去った。」

つづく

  たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-11-14 22:48 | トピックス | Comments(0)

青木先生の長谷川如是閑

  青木先生の七回忌が近付いてきたので、いろいろと整理しながら、久しぶりに先生の著書<見る 読む 叱る  私のメディア評論>(東京新聞出版局、平成6年4月)を開いてみた。

  この本は先生の形見分けのときに頂いた先生ご自身が持っていらっしゃった本である。ところどころに赤が入っており、ここを次回は直そうと思っていらっしゃったことがわかる。

 巻頭に<長谷川如是閑の「クツみがき」>と題するエッセイが載っている。少し長いがご紹介させて頂く。

 「古いが、ちょっといい話である。
ジャーナリストの大先達として知られる長谷川如是閑に「クツみがき」という小文がある。

「週刊朝日」の昭和26年5月6日号に掲載された。

 これは、東京新聞のこの年の元旦付に載った「日本断じて滅びずの根拠」という「年頭小言」の後日談である。

 戦後の混乱がまだ続いているころ、如是閑はお茶の水橋のたもとで、若い靴磨きに靴を磨かせようとした。」

(続く)

たかぎ



 
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by kuga-katsunan | 2009-11-08 20:41 | トピックス | Comments(0)

如是閑さんと父と私  丸山真男

  てらだ君が東京に帰ってきた。

 かねて懸案であった、丸山幹治のことをもっと調べよう、という話になっている。
息子の丸山真男が父親のことを書いた文章が、もっとないかという話もあり、関係の資料をあたっていったところ、標記の聞き語りが出てきた。

 岩波書店の丸山真男集の16巻に所収されてたが、その解題によれば、昭和59年12月1日に新宿京王プラザホテルで行われたインタビューである。
 もともとの所収は、「長谷川如是閑ー人・時代・思想と著作目録」(中央大学、1985年)であり、インタビューのメンバーは、長谷川如是閑著作目録編集委員会の方々であった。

 丸山には、前にも紹介させて頂いたようにいくつか父、幹治についての発言があったが、これだけまとまって語っている資料は珍しい。

 しかもその内容は

「新聞日本と政教社の人びと」

という章も含んでいる。

「それで、おやじとの関係から、どうしても私の知らない、つまり、私の生まれる前の関係から始めなければならないのですけれども、私が成人してから後になって、ああ、あの人は如是閑とそういう関係だったのか、とはじめて知った人がたくさんいます。」

(丸山真男集  16巻  岩波書店  1996年12月)

以下、丸山真男がどのように、新聞日本の人々を紹介しているか、読んでいきたい。

たかぎ  
 
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by kuga-katsunan | 2009-04-05 06:47 | 研究 | Comments(0)

井上劍花坊(3)

 引き続き、坂本幸四郎「井上劍花坊・鶴彬-川柳革新の旗手たち」(1990)を中心に引用を進める。

 井上劍花坊は、1934年9月11日64歳で逝去しているが、その追悼号「川柳人」(1934年11月号、No264、pp3-4)に長谷川如是閑*が「『秋劍』を想う」と題して、日本新聞社時代**のことを記している。

 * 1875-1969年、大ジャーナリストで民主主義思想の指導者
 **日本新聞社入社までは井上は「秋劍」の名前しか使っていない。

 井上君と私とは三十年余年前に、同じ「日本」新聞の編集室に机をならべた同僚だったが、その頃は、われわれは君を秋劍と呼んでいた。あの響き渡るような音声と、華かな談話ぶりとは編集局の名物だった。

 のみならず君の風采も一種特徴があった。そうとう柄のある体骼で、両の肩をいかめしく張って、片方の手でいわゆる片褄をとって、足をバタバタ床を叩くように歩いた。

 ものを書くときには、右の手で拳固を作って、着物の肩を突きあげて、江戸っ児のいわゆるヤツを作っていた。風采、態度が、侠客伝中の人物のようであった。

君が劍花坊と名乗って川柳をやりだしてから、私は君のことを川柳によんで戯れに君に示したことがあった。それはなんでも

 あの音は秋劍きたると覚えたり

というようなものであった。

 君は漢文ばりの文章が上手だったので、それで相撲の記事を書いて好評を博した。日露戦争が勃発すると、殆どすべての記者が従軍して、留守は古島編集長-今日の貴族院議員、古島一雄氏ーと四・五名きりで、秋劍も私たちと共に留守組だったが、何人かの従軍記者から送ってくる文章を、かたはしから秋劍ばりの漢文調に書き直すので、君は昼も夜も大童になっていた。

その漢文張りの従軍記はおかげで、『日本』の売りものになって、さすがに『日本』の記者たちはみな文章家だと賞賛された。

君は全く縁の下の力持ちだったが、それでも愉快にやっていた。

 君はなかなかの精力家で、人のいやがる当直を一人でひきうけて、朝早くから、夜の二時、三時まで、のべつに働いていた。

『日本』には社会面というものがなかったので、社会部記者というものは一人もいなかったが、何か社会面の事件があるとやはり記事がいるので、そういうときには秋劍が一人で働いた。

その間には、劇評もやれば相撲記事も書き、川柳の選などは当直をしながら、合間合間にやっていたが、さすがにときどき投稿を選り分けながら、コクリコクリ居眠りをしては、またつづけるというようなこともあった。・・・・

 古島編集長は、そのころから犬養の懐刀といわれていたが、頗る機知に富んだ人で、文章も上手で、書の如きも、われわれには犬養氏のそれよりもいいと想われるくらいだった。

秋劍君に川柳を始めることをすすめたのは即ち古島一雄氏だったのである。

古島氏は川柳に早くから興味をもっていて、書物なども多少持っていたが、それを秋劍君に提供して、川柳をやるようにすすめたのが、後の、大劍花坊を産むそもそもの発端だったと覚えている。・・・・

                                      しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2009-03-01 23:01 | 研究 | Comments(0)

如是閑と私  千葉亀雄

 前項の続きになる。

<僕が我が思想界の新人長谷川如是閑君を始めて見出したのはこの中である。古島古一念氏が体を乗り出すようにして、手振り身振りを交え乍らのあの巧みな編集室内の座談。
  白哲長身、沈黙でしかし決断に富んで藁村の名で清新で花やかな東露通信を書いていた 井上亀六さん。
  快活な、瀟洒な安藤鉄腸氏
椅子へ斜に構えて、ぱちぱちと光る眼を眼鏡の中から瞬き乍ら一流の断論を吐く清痩な好男子碧梧桐氏などの中に交えて
  鴨居につかえるような長身の洋服姿の長谷川君が、ややとすると額におつかぶさって来る長い髪を、右の掌で後ろの方へ撫でつけるように押しやり乍ら、之も氏一流のきびきびした江戸っ子弁で、思いきった警句を乱発して、まぜつ返したり、冷やかしたりする光景は確かに一場の奇観だった。尤も失礼乍らその警句の中に厳密に分類すると、及第点以下の駄洒落に属する何パアセントかも勿論含んで居たものとご承知ありたい。>

(千葉亀雄  如是閑と私  千葉亀雄著作集第三巻  平成3年  ゆまに書房)

  こうして見ると、本当に各種の才能があふれ、集っていたことがよくわかる。中でもうらやましいのは、その<自由な、快闊な空気>である。
  これがまさに新聞日本の精神なのであろう。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-05-20 09:07 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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