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タグ:長清会 ( 10 ) タグの人気記事

池辺三山日記

 お正月でもあり三山の日記を読み返してみる。

 三山の資料の多くは、長男の池辺一郎氏によって、駒場にある近代文学館に寄託されている。その目録も発行されている。中には、国民同盟会を組織していく過程のメモなども残っている。組織化するために例えば誰がどの地域を担当するかなどの記述もあり、まだまだこれから調べる余地がある。

 三山が折にふれ書いていた手帳、日記の類は、日本近代文学館資料叢書の中の「文学者の日記」として三巻本となって公刊されている。

 日記は第三巻に年代にわけて掲載されている。
第一日記は明治35年である。日英同盟が締結された年、三山は、朝日新聞の重鎮として忙しく立ち働く姿が見えてくる。

 ただ忙中閑ありのようで、時々、国分青崖が訪ねてきたりして、囲碁をしたりしているのは微笑ましい。囲碁をうちながら、論説の考などを語り、練りなどしていたのだろう。

 読み進むうちに、あっと思った記述がある。

「六月一日湯島麟祥院ニテ長清会三浦将軍陸羯南等九名集ル
 本庄子爵モ来ル湖村青崖鬼塚等来ル  勝負傍観入興」

(日本近代文学館資料叢書「文学者の日記」3 池辺三山(三))

 羯南を中心とした囲碁の会である、長清会は、折にふれ開かれていたようだが、場所は上野、寛永寺の分院・元光院と記述されている資料ばかりであった。

 この湯島の麟祥院は初見の場所である。

また会のメンバーでも

  本庄子爵

  鬼塚

の二名の名前も初見である。

たかぎ 
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by kuga-katsunan | 2012-01-02 06:36 | トピックス | Comments(0)

特別寄稿 松永彦右衛門伝

 長清会のメンバーの一人、松永彦右衛門のご子孫のうちださんから、その生涯についての御寄稿を頂いたので、ご紹介させて頂きます。


「千葉県佐倉市立美術館では、先月末から

「佐倉 房総ゆかりの作家たち―新収蔵作品を中心として」
 
と題した展示が行われている。

その中に浅井忠が描いた「松永彦右衛門父母像」がある。


松永彦右衛門は浅井と共に羯南の催していた囲碁の会、長清会のメンバーでもある。


松永彦右衛門は、本名は久邦、号は聴剣で、慶應3年9月10日但馬国(兵庫県)城崎郡豊岡生まれである。

彦右衛門は通称で代々名乗っており、久邦の父も彦右衛門を名乗っている。


松永家については、記録に「松永家其先弾正久秀公ニ出ヅ」とあり、松永久秀の流れであると書かれているが真偽は不明。

丹後國田邉にて京極氏に仕え、京極氏転封と共に豊岡に移り、その後帰農した。


しかし、家業の醤油醸造で財をなし、藩に軍資を献上することにより苗字帯刀を許され、再び松永を名乗ることとなったようである。

さらに、松永は豊岡特産の柳行李に出資をし、その販路拡大に務めた。

豊岡市史にも出資者の一人として松永彦右衛門の名前がある。

豊岡には鳥居や灯籠を建てるなどしており、地元では裕福な家であったようだ。」

うちだ
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by kuga-katsunan | 2010-05-05 00:14 | 研究 | Comments(0)

聴剣松永彦右衛門 著<樺太及勘察加>

 来週27日から、佐倉市立美術館で始まる新発見の

  浅井忠の絵画展

    <松永彦右衛門父母像>

http://www.city.sakura.lg.jp/museum/

でも改めて紹介される、羯南の囲碁の会・長清会のメンバーの一人、豊岡出身の松永彦右衛門。

 彼の号は聴剣。

 著作として

    <樺太及勘察加>

が残されている。

 明治38年11月、日露戦争後の出版である。 

 国会図書館の近代デジタルライブラリーで読むことができる。

http://kindai.ndl.go.jp/BIBibDetail.php

 目次を採録してみよう。


前編 樺太
第一章 概要
第二章 樺太なる名称
第三章 前世紀の樺太
第四章 樺太土人と大陸との交通
第五章 樺太に対する幕府時代の経営
第六章 海防論者の樺太観
第七章 樺太の探険家
第八章 魯国の東方経営に於ける樺太
第九章 国境談判委員の派遣
第十章 千島樺太の交換
第十一章 樺太の回復
第十二章 樺太の地勢(港湾、山脈、平地、河、湖、島)
第十三章 樺太の気象(風位、潮流、温度、結氷、気歴)
第十四章 樺太の人種(日本人、自由民、流刑人、異種人)
第十五章 樺太の市邑(都市、村落)
第十六章 樺太の産業
第十七章 樺太観風集
後編 勘察加
第一章 概要
第二章 東海岸
第三章 西海岸
第四章 黒竜会員鈴木重治探見記事
第五章 国際的漁業に関する意見
第六章 カマンドルスキー島
第七章 オコツク海沿岸
第八章 勘察加オコツク補遺(上)
第九章 勘察加オコツク補遺(下)


たかぎ
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by kuga-katsunan | 2010-04-25 07:08 | 研究 | Comments(0)

千葉県佐倉市立美術館浅井忠<松永彦右衛門父母像>

 羯南が主催していた囲碁の会<長清会>のメンバーには多彩な人々がいた。

画家の浅井忠も有名だが、実業家松永彦右衛門もその有力メンバーの一人であった。

松永の御子孫から、浅井忠の出身地である佐倉の美術館にその作品が寄贈されたことを記念して、修復が完成した作品の展示が開催される。


  <佐倉・房総ゆかりの作家たち―新収蔵作品を中心として

    会 期 平成22 年3月28 日(日)~平成22 年5月23 日(日)

    午前10 時00 分~午後6時00 分(入館は5時30 分まで)

    休 館 日 月曜日

    (但し、5月3日(月)は開館し、5月6日(水)は休館)

    展示期間 平成22 年4 月27 日(火)~5 月23 日(日)

  ■浅井忠≪松永彦右衛門父母像≫

  この作品は、浅井忠の囲碁仲間であった松永彦右衛門の両親を描いたもので、

  浅井としては珍しく日本画仕立に肖像画を描いています。是非、ご高覧ください。>

(佐倉市立美術館の案内より)

http://www.city.sakura.lg.jp/museum/


  これを機会に松永、そして長清会の新たな事実が見出されることを期待している。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2010-04-03 07:37 | トピックス | Comments(0)

寒川鼠骨の<陸翁の長清会> 2

寒川鼠骨の<陸翁の長清会>に登場してくるのは、

  浅井忠、三浦梧楼、陸実、三輪信太郎、磯野徳三郎、平坂閎

  松永彦右衛門、桂五十郎、池辺吉太郎、三宅雄二郎、国分高胤

という絵巻物のメンバーのほかに

  犬養毅
  山田喜之助
  濱村蔵六
  平坂恭介
  中村不折
  釈清潭
  稲葉君山
  鈴木豹軒

という人物である。

 平坂恭介は、動物学者で、台北帝国大学教授(1887~1965)、前に出てきた 平坂閎
とは親子であろうか

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2010-01-27 23:50 | 研究 | Comments(2)

酔生夢死亦妙ナラズ乎:三輪信太郎 長清会の人々 

 先日書いた長清会メンバーの中で、不明な3人は

      三輪信太郎
      平坂閎
      松永彦右衛門

だった。

 このうちの三輪信太郎については、同一人物かどうか今の段階では不明だが、国会図書館には同名の人物の著書が所蔵されている。

  1. 小児科学. 上,下巻 / 三輪信太郎. -- 南山堂書店, 大正2

2. 小児科学. 上,下巻 / 三輪信太郎. -- 3版. -- 南山堂書店, 大正4-5

3. 小児科学. 上巻 / 三輪信太郎. -- 増訂7版. -- 南山堂書店, 大正14

4. 小児科学. 上,下巻 / 三輪信太郎. -- 4版. -- 南山堂書店, 大正7

5. 小児科学. 上,下巻 / 三輪信太郎. -- 訂8版. -- 南山堂書店, 昭和5

6. 小児科纂録 / 三輪信太郎. -- 南江堂, 明43.10. -- (近世医学叢書 ; 第30編)

7. 実践薬物学. 上巻 / 久木田七郎[他]. -- 金原医籍, 明36.8

8. 三輪氏族譜. 〔第1〕,2 / 三輪信太郎. -- 三輪信太郎, 昭和8

9. 三輪氏族譜. 第3編 / 三輪信太郎. -- 三輪信太郎, 昭和12

 7の実践薬物学は校閲をしている作品で、自著ということになると、大正2年の小児科学が最も古いものになる。

 標題の言葉は、この本の自序にある言葉だが、医学書とは思えない、自らの生涯への感慨、志を述べている。

  この医学者が、羯南のサークルにいたのであろうか。

たかぎ


 
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by kuga-katsunan | 2009-08-23 10:52 | 研究 | Comments(0)

寒川鼠骨の<陸翁の長清会>

  寒川鼠骨といえば、子規山脈に連なる俳人で新聞日本でも働き、子規没後も子規庵をまもった人物である。

  その鼠骨が、羯南の十七回忌にあたって<日本及日本人>(第869号、大正13年)がくんだ特集<陸羯南を憶ふ>の中で、<陸翁の長清会>と題する文章を残している。

  「神田の書生町から八丁堀の江戸っ子町に移って、下町気分にひたつて獨り喜んでゐたのはよいが、私の健康は兎角に勝れず缺勤がちに愚圖々々するやうになつた。『上野に移つてはどうだね、下町は空気が悪いからいけないよj』と陸翁は私を上野に誘はれた。」
  (日本及日本人  第869号、大正13年)

  と、ここに羯南の<声>が出てくる。

 自分の社員をいたわる社長羯南の雰囲気が伝わってくる。

  鼠骨は、このアドバイスを受けて、上野の元光院へ移り住んだ。

 この元光院が、長清会の会場であった

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-06-27 07:02 | 研究 | Comments(0)

長清会の人々

  囲碁好きの羯南が友人たちと催していた囲碁の会<長清会>については、つかもと君が以前に紹介してくれている。

  その会員の一人画家の浅井忠がフランスへ行くことになって、会員が集まり大宮で送別会を催した様子が絵巻物になって残っている。(長清会大宮遊図巻)

  絵は、浅井忠、本人が描き、文章は羯南が書いている。

総勢11名の一行の顔ぶれは以下の通りである。

  浅井忠、三浦梧楼、陸実、三輪信太郎、磯野徳三郎、平坂閎

  松永彦右衛門、桂五十郎、池辺吉太郎、三宅雄二郎、国分高胤

 このメンバー、多くの人々は既にこのブログでも紹介させて頂いた面々であるが、3名が初めてのお目見えとなる。

  三輪信太郎
  平坂閎
  松永彦右衛門

 の3人である。

 羯南の関係の文書によく出てくる、という名前ではないが、この会は羯南が最も心を許した人々の会の一つでもあり、今わかる範囲で順番に紹介させて頂きたい。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-06-20 05:32 | 研究 | Comments(0)

新聞日本と囲碁⑥ 長清会

囲碁に関する記述の最後に長清会について。

雑誌「日本及び日本人」大正12年9月号に寄稿した元新聞日本社員で詩人の寒川鼠骨によれば、長清会は陸羯南が作った囲碁サロンであり、上野寛永寺の子院三十六坊の一つを会場としていた。
三十六坊は江戸時代、大名が幕府に寄進した寺の数々で、戊辰戦争でかなり壊されたもののいくつかが当時も残存していた。会場となった坊は一人の僧侶が守っていたらしいのだが、羯南に貸したまま、嵯峨天龍寺にいってしまったと書かれている。

この会の性格については「単純な清談会(談話サロン)であり直接行動を評定するようなアジトではなかった」としているが「顔ぶれが時の政界にとってかなり物騒な連中だったので、飲んだり論じたり碁を打ったりだけでなく、(天下国家について)憤慨して激論が交わされた。だから娯楽の場というだけでなく同士結束の場になった」と評している。

要は血の気の多い面々が、碁を打つだけにとどまらず、天下国家について議論を交わす場であったようだ。

ここではだいたい午後に三々五々集い、食い物が並べられ、飲み食いしながらパチパチとやったり、本を読んだり語ったり。きわめて自由な集まりであったとのこと。

メンバーは陸羯南や正岡子規に加え、陸軍反主流派の三浦観樹(梧楼)、当時大隈内閣の閣僚だった犬飼木堂(毅)、国分青厓、三宅雪嶺、桂湖村ら漢学者、詩人など。先に書いた陸羯南の囲碁の「下手の横好き」はここで真価を発揮したということである。

当時の新聞(報知以外)を比較してみたことがあるが、囲碁欄を設けていたのは新聞日本だけであり、長清会での手合いの日々が高じて同欄に結びついていったことが想像できる。

一方「羯南居士17周忌に会して」に寄稿した羯南の盟友・稲葉君山は、「陸翁の提唱でできた長清会には、根岸時代の名士が網羅されていた。(中略)長清会を中心としての陸翁は、いつも私をしてありし翁の面影をしのばせる題材を成すのです。」と思い出を語っており、いかに陸羯南の生きざまにおいてこの会の存在が大きかったかがわかる。

(明治32年11月には、浅井忠が西洋に旅立つ送別会を大宮氷川公園で行い、その模様を陸羯南と浅井忠が「長清会大宮遊図巻」と題した絵巻物にまとめており、これは陸羯南全集第10巻の巻頭写真として掲載されている)

逆に見ると、長清会を通じて、陸羯南のもつ求心力に気づかされる。

そのような意味では、自らの志をもって「青木塾」や「土曜サロン」などをつくり、数多くの塾生や同士の求心力となった青木彰師の在りし日の姿は陸羯南に投影できるのではないだろうか。

また余談ではあるが、塾生で唯一、師と手合いした当方の見立てでは、囲碁の才能については羯南も青木彰師も五十歩百歩であり、「下手の横好き度」でも共通点が見出せそうである。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-12-10 00:04 | 研究 | Comments(0)

日本画報の表紙  鹿子木 孟郎のこと

日本画報は、新聞日本の附録として始まった写真雑誌だが、初期の表紙は主として日露戦争の戦争画で飾られている。アルファベットのサインを読むとKANOKOGIとある。
これは鹿子木孟郎、かのこぎ たけしろう、と読む、のことだ。

倉敷市立美術館の画家列伝には次のように紹介されている。

「洋画家。岡山市に生まれる。1888年、松原三五郎の天彩学舎に入学。1890年、岡山中学予備校図画教員をつとめるかたわら、自宅で洋画研究所を開く。1892年、上京して、小山正太郎の不同舎に入る。1901年、満谷国四郎らとともにフランスに渡り、アカデミー・ジュリアンに通う。1904年、帰国して、京都に居を定める。1905年、浅井忠、田村宗立らとともに関西美術院を創設する。1906年、再び渡仏し、アカデミー・ジュリアンでJ.P.ローランスに師事する。翌年、パリのサロンで「少女」が入選。1908年、帰国し、関西美術院の院長となる。文展・帝展の審査員を歴任するとともに、1918年にはアカデミー鹿子木下鴨塾を開き、多くの後進を指導した。1932年、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を贈られる。堅実なデッサンと巧みな明暗の処理など、伝統的でアカデミックな作風で人物画や風景画を制作した。」
(倉敷市立美術館 アーティストリスト)

この紹介によれば、明治期の洋画家の典型的なコースを辿ったと思うが、この日本画報が明治37年6月から発刊されていたことを考えると、最初のフランス留学から帰ったばかりのタイミングでこの仕事をしたことになる。しかし京都に居をかまえる、とすると画稿は誰が仲立ちしたのだろうか。
この翌年、浅井忠らと関西美術院を創設した、とあるが、浅井が羯南の囲碁友達でもあり、小日本の挿絵画家にと、子規に中村不折を紹介したのも浅井であった。
 明治32年11月に浅井が渡仏する送別の碁会を大宮で(長清会大宮遊図巻がその時の様子を今に伝えている。文章は羯南、絵は浅井。長清会については、つかもと君が囲碁の話として伝えてくれると思いますが)三山、雪嶺らとともに催すなどと本当に因縁浅からぬ関係であることを考えると、そこにも浅井の仲立ちがあったのかもしれない。
 浅井もやはりパリに明治35年までいたことも合わせると、パリ留学先で重なる時期もあり、フランス留学時代の知人なのかもしれない。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-11-05 23:57 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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