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タグ:谷干城 ( 28 ) タグの人気記事

閔妃暗殺を読んで②

 閔妃暗殺の首謀者で駐韓公使の三浦梧楼と陸羯南の関係についてみてみたい。

 三浦梧楼(1847-1926年)は、長州出身ながら藩閥政治に反対の立場をとった政治家である(西南戦争で城山を陥落させた元軍人、最終階級は陸軍中将、学習院院長、枢密院顧問官等を歴任)。

 有山輝雄(2007)「陸羯南」吉川弘文館,pp.92-95によれば、陸羯南は、『東京電報』(新聞『日本』の前身)入社の経緯について、(領事裁判権を残すような)条約改正交渉への反対運動などで「浪人仲間に入らんとの念」を抱いたという。

 浪人仲間とは「不平将軍」と呼ばれていた陸軍フランス派の谷干城、三浦梧楼らのグループと若手知識人の杉浦重剛、高橋健三、宮崎道正ら乾坤社同盟のことである。

 乾坤社、不平将軍、実業者は『東京電報』のパトロン(資金提供者)であり、一方彼等は自分達の機関紙を求めていたという。

 また、春原昭彦(2001)「陸羯南」『日本の新聞人⑩』日本新聞博物館,11号によれば、「この新聞には条約改正問題をめぐり、政府の欧化政策に反対する三宅雪嶺、志賀重昴、杉浦重剛、三浦梧楼、谷干城らの支援があったが、その立場は単なる西洋排撃ではなく、日本の主体性を保持しつつ欧州の文明を取り入れるべきだとするもので、陸は"国民旨義”と言っている」とある。

経営学的にいえば、経営者(陸羯南)と株主(三浦梧楼、谷干城ら)の関係といえよう。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-13 03:13 | その他 | Comments(0)

「柴四朗という生き方  その五

 谷干城は、新聞「日本」のパトロンとして、長きにわたり、その資金的援助を行い、活動を支えたが、主筆の羯南とは、やがて少しずつ溝が生まれ始めている。谷は、新聞「日本」を自分の理念を実現するための言論機関と捉えていた節があり、たとえ資金難になろうとも簡単に自説を曲げない羯南とは必然的に袂を分かっていった。
 その後の極めて政治的な行動をみると、四郎自身も、羯南のこだわった言論の世界よりは、谷に近いところにいたのかもしれない。とはいえ、生き方のスタイルが異なりながらも、軟弱な欧化主義に走る政府に異を唱え、国民主義を謳うところからスタートした彼らは、思想的には近いところにはいたはずだ。本稿は、柴四郎の生き方を通して、新聞「日本」の存在や羯南を、別の側面から理解できないか、というのが狙いである。
 柴四郎の「国民主義」ということでいえば、純度の高い武士道を全うした会津藩士としての彼の目に、征服者たちの立居振舞いをはじめ、維新の表舞台に立つ人々が、どのように写ったかを推し量ることが必要だろう。また、「国民主義」という言葉は、列強の侵略に対する、恐怖と危機意識を前提に理解しないといけないが、この思想形成に至る上で、四郎の場合には、会津という、いわば被侵略者の辛酸の体験が大きく寄与しているであろう。さらに、被征服者でもあり病身でもあった四郎の生き方が、本来は「敗者」という視線を持って、世界の被抑圧民族と精神的な連帯感を持っていたはずなのに、最後は「閔妃暗殺」という、列強の侵略と同じともいえる行動に至った理由は何であろうか。

 こうした問題意識を持ちつつ四郎の生き方を辿ることが、羯南をより鮮明に理解する一助となればと思う。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2008-05-25 21:19 | 研究 | Comments(0)

「柴四朗という生き方  その四

 また、谷干城との縁は、彼と同郷の土佐藩出身の豊川良平との出会いにつながる。
豊川は三菱創設の岩崎弥太郎の従弟で、彼を通して、四郎は岩崎家に出入りし、三菱関係の人々と縁故関係をつくることができた。
明治12年、四郎は、三菱岩崎家の資金援助により、アメリカに留学することとなる。
このときの体験も踏まえて執筆されたのが政治小説「佳人之奇遇」で、四郎は一躍、小説家・東海散士として名声を勝ち得る。

 こうして世に出て行くきっかけを得た四郎は、明治21年には、陸羯南が社長兼主筆を務める「東京電報」の社友となるのだが、この実現にも谷干城の存在は大きかっただろう。
 四郎は、翌年2月に創刊される新聞「日本」の創刊にも東海散士の名で社友として名を連ねている。
 やがて、四郎は新聞「日本」からは距離を置き、政治活動、特に、対外的な政治工作などにも力を入れ、「閔妃暗殺」事件では、駐韓公使三浦梧楼の顧問として朝鮮に同行赴任しており、広島裁判では被告として裁かれている。
 
 ここでも、三浦に四郎を推奨した人物として、谷干城が登場してくる。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2008-04-17 21:21 | トピックス | Comments(0)

「柴四朗という生き方  その三

熊本城の重囲が解け、山川率いる部隊が喇叭を吹いて入城してくるとき、城内には歓声が上がったというが、このとき、頭に、致命傷となるのを五分の差で避けたという擦過傷を受けていた谷は、まさしく、手塩にかけた山川に救われることとなった。このあたりの情景は司馬遼太郎の「翔ぶが如く」に生き生きと描かれている。(「翔ぶが如く」九巻)

柴四郎は、こうした二人の関係があった上で、谷干城と出会った。もっとも、正確に言うと、四郎は白虎隊として参戦するはずだった戊辰戦争において、官軍に投降した際にも谷を見てはいた。後に四郎は次のような述懐を書いている。

  自分が初めて、谷子爵の顔を見たるは、子爵が官軍の一武将として会津征伐に来られたときで、真逆東西も弁ぜぬ、少年を斬りもすまいから、進み出て救命を哀訴せよと、年長長たる人々より、勧められ、オズオズ官軍の宿営を尋ねて、彷徨し足る末、日暮方、漸く土佐藩の陣営を見つけて、投陣した時、子爵も居られた。其後、西南戦争の時、新聞記者として従軍し、熊本鎮台に於て、再び子爵の顔を見た。(「谷干城遺稿」より)

西南戦争において、四郎は、得意の文章力を活かし、この戦況を報じる書簡をしたため「東京日日新聞」「東京曙新聞」に寄稿し、記事となる。それまでにも、学資をかせぐために「東京日日新聞」に投稿などはしてはいたものの、この出征が四郎に生業としての文章家の道を大きく切り開いたといえる。戦後すぐに、文筆に長けているということで、四郎は「戦史編纂御用掛」を命じられる。
やまだ
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by kuga-katsunan | 2008-03-20 21:41 | 研究 | Comments(0)

「柴四朗という生き方  その二

 それまでの四朗は、多くの会津藩士と同様に「賊軍」として、社会からは虐待され、抹殺されていく中からいかに抜け出すか、もがき続けていた。彼は西南戦争に出征することで、復讐を遂げるという、暗い欲望を満たすということも含めて、文字通り「敗者」という境遇から抜け出す機会を得る。
ひとつは、彼のその後の、新聞「日本」での記者活動も含めた文筆家へと、つながる道筋ができたこと。
もうひとつは、貪欲に勉学の道を求め続けていた彼に、「留学」と言う、願ってもいない機会が切り開かれたこと。これによって、彼の思想形成には、決定的な影響が与えられることとなる。
 この転機のいちばん決定的な動因となったのは、このときの熊本鎮台司令長官であった谷干城との出会いである。
ただ、この機会が有効に活かされるには、ともに出征した縁ということ以上に上司である山川浩の果たした役割が大きい。
山川浩と谷干城の出会いは戊辰戦争にまで遡る。
このとき西軍だった谷は、戊辰戦争の日光口における戦闘で、会津藩の山川浩の勇躍たる指揮ぶりをみて、その名を記憶に止めた。のみならず、余程感銘を受けたのか、会津藩士が賊軍として、戦後もなお、まるごと血祭りに挙げられている中で、山川を陸軍裁判大主理として採用する。高官とはいえなかったが、会津藩士に手を差し伸べるものなど誰もいないという最中であった。山川は、虐待され続ける会津藩士達に、官途につく道を切り開いてくために、敢えてこの低い身分の職を受けるところからスタートを切る。ことほど左様に、薩長出身者たちの官に対する執着と既得意識は強く、私物化されていた。
戊辰戦争では最後は鶴ヶ城に籠城した山川は、このたびは別働隊を率いて、立場変わって熊本城で籠城戦を強いられていた谷救援の一番乗りを果たすこととなる。実を言えば、ここに至る前に籠城という作戦が決まった折にも、谷は山川にアドバイスを求めていたという経緯もあった。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2008-02-28 22:04 | 研究 | Comments(0)

新聞日本の資金繰り 谷干城と近衛篤磨

 羯南は人との出会いを大事にした人なのだと思う。

 郷土の友人たち、司法省法学校の級友、北海道の紋別製糖所にいっても山田寅吉、その上司の品川弥次郎、結局この二人のバックアップもあって東京に戻ってきている。

  官報の仕事を中心とした政府関係の仕事のときにも、井上毅、青木貞三、高橋健三との関係は、官を辞して東京電報に行く大きな入口となったし、その上司たちのもっていた杉浦重剛などの人脈が、その活動を支えた。その中の一人の福富孝季が谷干城に紹介したのだという。

  東京電報から新聞日本へ転換するタイミングも、その谷を始めとするスポンサーたちの後押しもあり、引き続き社長として、これまでと違った新しいタイプの新聞を目指すことができたのだった。

  谷についての文章を考えるのに、しぶさわ君と合宿した時に、<谷干城の見た明治>という高知市立自由民権記念館の図録を見せてもらったがその最後に谷の年譜が出ていた。

 前回のしぶさわ君の紹介にもあったように谷は明治21年に東京電報(ここは、今、きしだ君が読んでくれているが)にも資金援助を始めてから、近衛篤磨が羯南の新聞に参加してくる明治35年にいたるまで延々15年にわたって援助を続けたのである。
 近衛篤磨の援助は、日露戦争直前の彼の死(明治37年1月)まで継続した。
この二人が羯南の援助者の双壁であるのは確かだが、この援助期間の差を考えると、新聞日本の資金繰りを支えたのは、やはり谷が中心であった、といえよう。

 その間の資金繰りには、当時の民間銀行に始まり、島津家、岩崎家、近衛の紹介による地方の実業家、外務省機密費、後藤新平、そして最後には<椿山荘の老人>、即ち山県有朋の名前もあがってくる。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-11-11 21:13 | トピックス | Comments(0)

一金五百圓也

 有山輝雄先生の「陸羯南」の中に、「明治21年5月30日付の谷干城からの資金500円の受領書には『東京電報社主 陸實』とある。」と書かれている。

 高知市立自由民権記念館「特別展 谷干城の見た明治展 図録」中に、
「『東京電報』社主の領収書と送付状(立教大学蔵)  明治21年5月30日・6月2日 送付状は古荘より谷干城宛」として、現物が写真として掲載されている。

「     證
 一金五百圓也
 右之金員御渡之相成り正ニ受取候也
 明治廿一年五月丗日 東京電報社主 陸實」

「 東京電報社主
  ヨリ之証券差
  上申候同新聞紙
  も近日ハ配達大ニ
  早ク相成り今日之社
  説其他も大分宜
  敷相見へ申候近日ハ又
  少々定購續之数
  も相増候様ニ御座候
  先ツハ右迄 匆々頓首
  六月二日 古庄(荘)
  谷公   貴下」

とあり、有山先生はこれを「彼(=陸羯南)は資金提供者(パトロン=谷干城)から実務を委託された立場である」とコメントしておられる。ともあれ、陸羯南は、33歳で東京電報の主筆兼社長になった。

(参考)浪岡鼕山のホームページによれば、古荘嘉門(ふるしょうかもん)とは、「1840~1915年、熊本生れ。名は惟正。嘉門は通称。佐賀の乱後、司法省判事となり、国粋主義を唱え紫溟会を組織。一高の校長、国権党の総裁、衆議院議員、台湾総督府内務部長、群馬県知事、三重県知事等を歴任し貴族院議員に勅撰。」とある。                   しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-11-10 06:10 | Comments(0)

最上巴さんの福富孝季に関するコメント

 松井勲(講談社 子規全集編集者)遺稿集の中に、「新聞『日本』の人々 未定稿」があり、その中に、最上巴(陸羯南・四女)さんのコメントが紹介されている。

「・・・明治25年3月28日に日本新聞社から『臨淵(福富孝季)言行録』が刊行されているが、その叙言に陸羯南はつぎのように書いている。

《・・・『日本』は爾が誠意に出てたる功業の一紀念ならずや吾れ願くは爾の為に永くこれを護らん虚名虚功は久しからすして滅すへきのみ、爾が誠意の紀念は日本と共に泯ひじ》

《吾が『日本』の今日あるを致して吾れの能く前行を失墜せざるは隈山子(谷干城)の保護なりと雖も、臨淵の計画斡旋は与りて最も力あり》

 最上巴さんも羯南のこの文章を裏書する発言をされていた。

『父は【日本】創刊のために、いちばんご厄介になった人として福富さんを大事に考えており、命日には墓参を欠かしませんでした。父没後も母が遺志をひきついで、私たちを墓参につれていきました』・・・」

とある。                                しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-11-04 19:31 | その他 | Comments(0)

福富臨淵(孝季)のこと

 「一老政治家の回想」(古島一雄著、中央公論社、1951年)の第2章「新聞日本の思い出」の中に、福富臨淵(孝季=たかすえ)のことがでている。該当部分を抜き書きしてみる。

「・・・福富は三十三で死んだが、谷と陸を結びつけた人で、福富と陸を結びつけたのは杉浦だ。将軍として日本新聞に出資したのは谷で、それを捉えて来たのが福富だ。

福富は六尺豊かの大男、白髪赭顔、大酒飲み、ヨーロッパから帰って学校の教授をしていたが、教場で酒を飲んでいるという変った男で、しかも非常な熱情漢であった。

そのくせ謹厳な杉浦とは仲が好い。杉浦はカンカチで芝居を見たことがない。福富は芝居好きなものだから、『君に一つ団十郎の忠臣蔵を見せてやろう、とにかく来てくれ』といって自分は一足先に出懸け、茶屋にいいつけて置いた。

杉浦は例の流儀で茶屋に行って福富に会いたいと面会を申込むと、茶屋では杉浦の様子から見て芝居を見に来たと思わない。『今幕が開いておりますから暫くお待ち下さい』ということだった。

杉浦は幕が開いているから待っていろというのが何のことかわからないが、いわれるままに待っていた。福富の方はせっかく約束しておいたのにどうして来ないと不思議に思いながら、幕が終わったから茶屋に来て見ると、杉浦が四角張って座っておる。

『君どうしたのか』『俺はさっきから待っている』『それはとんでもない行き違いだ、君に見せたい幕はもう済んでしまった』。

忠臣蔵の判官切腹の場だったか大石の城明け渡しの場だったか忘れたが、その一幕を杉浦に見せたかったらしいのだが、杉浦がかしこまって茶屋で待っている間に幕は閉じてしまった。

それっきり杉浦は一生涯芝居を見ずにしまった。杉浦と福富は開成学校時代から一緒だったのだ。

 福富は自殺したが、何の原因かわからない。当時福富は高等師範の教授であったが、造士館(鹿児島)の校長になって行くという一週間前に自殺した。

懇望されたのだろうと思うが、行くのが嫌であったのか、自殺の理由はわからない。非常な熱情漢で酒を飲んでは慷慨してワーワー泣くことがある。

谷がよくいっていた、『俺を泣かせるのは福富だ』と。『臨淵言行録』にも、陸が、世の中で誠というものを感ぜさせるのは福富だといって、

『嗚呼臨淵は至誠の人なり、才能人に優るものあるにあらず、ただ誠の一時を以て同人会社に推重せらる』 と書いている。」

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-10-21 15:42 | Comments(0)

谷干城の賢夫人 久満子氏 #2-明治大臣の夫人より-

 岩崎徂堂著「明治大臣の夫人」から「谷干城夫人」部分のエッセンスを紹介したい。

・1844年生で、父は国沢七郎という高知藩士、家庭は厳格で、女子道一切を修めた。
・谷家に嫁したのは19歳、谷が江戸遊学中に縁談が進められた。谷は最初乗り気でなかったため、夫人のアラを探そうとしたが全く見つからなかったという。

・西南戦争の際、久満子夫人は、谷熊本鎮台司令長官とともに籠城。これを聞いた6人の将軍夫人たちも籠城せざるを得なくなった。
・城内での粗食に耐え、皆を励まし、芹やよめ菜を摘んで「お浸し」とし、これを兵卒に配ったり、3000人余分の足袋を縫う、砂袋を作るなど数々の作業をこなした。

・また、戦況が悪化し、谷司令官が敵弾に倒れた際、「城内から脱出したほうが良い。」との勧めを、「夫の軍服姿を見た上でなければ帰れない。」と言って断り、54日間籠城した。
・このほか籠城中の美談は山をなす程あるという。

・また、質素倹約に努め、これを養育院など慈善事業に寄付。とりわけ素晴らしいのが、養蚕事業を手掛け、この収益を令嬢の財産としたという(・・・この資金が新聞「日本」の支援金にも廻った事になる)。
                          しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-10-14 16:14 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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