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タグ:菊池九郎 ( 7 ) タグの人気記事

菊池九郎(5)~政界活動~

 秋永芳郎著「東奥の炬火 菊池九郎伝」によれば、以下の通りである。
 菊池は明治15年(1882年)の県会議員に本多とともに立候補二人とも当選している。何故彼らが政界に進出したかは不明だが、弘前事件の影響や周囲からの押し上げがあったようだ。以下菊池九郎の政界活動をみてみる。

 明治22年(1889年)5月、菊池九郎は、市町村制実施*後初の弘前市長に当選している。

*このとき新しく誕生した31市は、東京、京都、大阪の3都を除いて港町か城下町であった。中藩(5万石~15万石)で市になったのは、弘前、山形、富山、高岡だけであったという。津軽氏の城下町ではあったが、明治に入って人口が激減3万に程度になっていた。人口が増加するのは、明治30年の第八師団が設置されてからである。

 明治23年(1890年)7月、我が国初の衆議院議員選挙が実施され、周りに者に説得されるかたちで、衆議院議員選に出馬、大差を付けて当選した(爾来連続9回連続当選)。

 明治31年(1898年)菊池九郎は憲政党内閣の際農商務省農務局長となったが、このときの上司(農商務次官)が、一時期東奥義塾で学んでいた柴四郎であった。 

 明治37年(1904年)、衆議院全院委員長になるが、これに対し、当時人物評論家の第一人者と称されていた鳥谷部春汀は次のように述べている。

 「・・・・菊池はかつて東奥の西郷と称せられ人望頗る郷党に高く、此点に於て故工藤行幹といえども、遠く彼に及ばざりしを見る。大隈伯かつて彼を評して曰く。菊池九郎は名士なり、彼は特絶したる長所をゆうせざれども、その人品の高きは滔々たる群代議士に超越すと。・・・」
 
 明治37年(1904年)からの日露戦争中の運動は不明だが、「愛国者の菊池なので、『さまざまな愛国運動に奔走していたことだろうと想像される。』とある。

 そして、陸羯南がなくなった翌年(明治41年(1908年))、62歳で政界を引退している。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2008-04-10 00:15 | Comments(0)

菊池九郎(4)~東奥日報の創刊~

 秋永芳郎著「東奥の炬火 菊池九郎伝」から東奥日報創刊のくだりを拾い読みしてみる。

 明治21年(1888年)11月22日、弘前、青森、八戸その他主要な地に「東奥日報発兌広告」のチラシがばらまかれた。そこには、12月6日に「第一号を刊行せんとす。・・・初号は無代価にて進呈・・・」とあり、末尾は

 「青森県東津軽郡青森柳町十二番戸
    東奥日報社
      発行人 菊池 九郎
      編輯人 源    晟(あきら)
      印刷人 小笠原宇八」
  となっている。

 東奥日報の体裁は「・・・タブロイド版よりひとまわり大きな紙面で、一面は大きく東奥日報と題字があり、五号活字の五段組であった。」先に出していた「『青森新聞』の経験を生かしたものと思われる」とある。

 当時の青森では、「北斗」「青森新聞」「青森日報」が、弾圧あるいは経営難で廃刊となっており、「陸奥新報」だけしかなかった。そして、「自由民権思想が鼓舞され大同団結運動が、燎原の火の如く燃え広がっていた時期」でもあり、「世間は拍手を送り大いなる期待を持って(東奥日報を)歓迎したのである。」とある。

 しかし、12月6日第一号の後、第2号は12月28日であり、その後また休刊。実質的には、明治22年から安定発行となったようだ。また、菊池は最初、株式会社組織にしようとしたが、思ったように資金が集まらないため、自分と榊原洋芽(弁護士のち代議士)と蒲田広(のち弘前市議長、県会副議長)の三人での結社として発足した。

 その後発行は順調であったが、資金繰りは相変わらず厳しく、菊池九郎も有志の間を飛び回っていた。この点も新聞「日本」に良く似ている。

 明治22年2月11日の帝国憲法発布の日(新聞「日本」創刊日でもある。)に起きた「森有礼文部大臣刺殺」事件は、東奥日報のスクープとなった(同12日に森有礼大臣が死去しており、東京紙の13日付新聞は発行停止処分中。東奥日報が、青森県初の報道となった。仮に東京の新聞が青森に届くとしても当時は船便で4~五日はかかった。             しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2008-03-21 00:37 | その他 | Comments(0)

菊池九郎(3)~青森新聞と国会開設建白書運動~

 有山輝雄著「陸羯南」によれば、1879年(明治12年)2月に、羯南は、原敬らとともに司法省学校を退校になっている。そして新聞記者を志望して奔走するが果たせず、この年の夏頃帰郷、9月8日に中田姓を改め、「絶家陸家」を再興ということで陸姓を名乗るようになる。この経緯については諸説あるという*。

 *余談となるが、1878年(明治11年)5月14日大久保利通暗殺事件の首謀者6名向けに、斬奸状を執筆した者に「陸義猶」(除族のうえ禁獄終身)という人物がいる。この「陸義猶」は金沢藩士だが、羯南の「陸」家とは関係ないのだろうか?(参照 秋永芳郎著『東奥の炬火 菊池九郎伝』P175~176)

 そして、羯南は、1879年(明治12年)9月頃、青森新聞社(同年3月6日創刊)に入社、編輯長となっている。そして、必ずしも羯南の筆ではないにも拘らず、2~3件の筆禍事件に巻き込まれ、編輯長として讒謗律による処罰を受けている。その苦痛もあって、1880年(明治13年)8月頃青森新聞社を退社、北海道へ渡ることとなる。

 この青森時代は、前述の「秋永芳郎著『東奥の炬火 菊池九郎伝』」によれば、西南の役から戻った菊池九郎は、1878年(明治11年)に、教え子である伴野雄七郎の運動に共鳴、地方政治思想啓発のため共同会を組織、自由民権運動を起こしている。
 ただ、東奥義塾に影響を及ぼさないようするべく別個の組織とした(世間ではこれを東奥義塾党と称していた)。このメンバーの中に本多庸一らと共に陸羯南の名前もみられる。

 そして、県内各地区での啓蒙活動を終え、1880年(明治13年)3月27日、
「・・・県内各郡有志は青森の蓮花寺に会合、国会開設建白について協議した。出席した委員は、菊池九郎、本多庸一、笹森要蔵、今宗蔵、伴野雄七郎、陸實等21名で、協議の上今宗蔵が建白書の草案を作った。」とある。
 
 この国会開設建白書は、かなりの部分を羯南が草稿したとする説もある。
4月17日、本多庸一と中市稲太郎がこの建白書をもって上京、元老院に提出している。

 そののち、陸羯南の新聞「日本」の創刊(1889年2月11日)の2ヶ月前、1888年(明治21年)12月に、菊池九郎も東奥日報社を創設、初代社長となっている。                      しぶさわ 
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by kuga-katsunan | 2008-02-15 23:20 | Comments(0)

二つの創刊120周年

 新聞日本は、よく知られているように、今日から119年前の、明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布の日に創刊されている。

 前年に、株式新聞であった東京商業電報を買い取って<東京電報>として再スタートした新聞日本は、東京電報の創刊がスタートと考えると、その創刊日明治21年4月9日がもう一つの創刊日ということになり、今年の4月9日が創刊120周年ということになる。

 羯南が若き日に故郷青森で編集長を務めていたのが青森新聞である。

青森の東奥日報のホームページの<本社小史>には、その歴史が語られている。

<明治10年(1877) 3月   「北斗新聞」発刊(翌年8月100号で廃刊)>

 この北斗新聞の創刊者は、斗南藩即ち会津藩の小川渉である。小川渉の件は、やまだ君にお願いするとして、その後継として

<明治12年 3月 6日 「青森新聞」発刊>

 羯南は、明治12年の明確な日月は不明だが、後半には同社に入社し、編集長を務めた。翌年6月25日には、彼の名前が青森新聞の編集長欄から消えている。青森新聞自身もその年には廃刊となった。

<明治17年 9月 1日 「秋田青森函館新聞」発刊。翌年10月廃刊>

これらの新聞は、皆短命に終わっている。

そして
<明治21年 11月22日青森寺町61番戸に資本金6,000円で株式会社東奥日報社を設立。12月6日「東奥日報」発刊。社長兼発行人菊池九郎(弘前)印刷人小笠原宇八(青森)編集人関春茂(八戸)>
 社長、印刷人、編集人が、それぞれ弘前、青森、八戸の出身者、ということは、奇妙な符号なのであろうか。

 今年は、奇しくも、羯南の関わった新聞、東京電報と東奥日報が、創刊120周年を迎える。

 青森と東京、羯南の故地と揺籃・活躍の場の二ケ所で、創刊120年を迎える新聞のことを思う時、新聞を発刊し続けることの意義が再び迫ってくる。

たかぎ

 
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by kuga-katsunan | 2008-02-11 08:24 | トピックス | Comments(0)

菊池九郎(2)~東奥義塾~

 陸羯南が1873年(明治6年)、17歳で入学した東奥義塾は、1872年(明治5年)11月23日に設立された。その設立の中心人物が、菊池九郎である。

 秋永芳郎著「東奥の炬火 菊池九郎伝」によれば、概略は以下の通りである。

 菊池九郎は、1847年、弘前に生まれ、1858年、12歳で、東奥義塾の前身である弘前学問所・稽古館(1796年開校)に入学している。

 1869年(明治2年)、菊池九郎は、公費留学生として慶応義塾に入学。慶應義塾で学んだのは1年未満だったが、「福沢諭吉の影響が、少なからざる精神形成の一つの糧となったことであろう。」と秋永氏はいう。

 1870年(明治3年)、藩命により鹿児島に留学。鹿児島藩の英学校で学び、兵学校(砲術、兵制など)を研究した。帰郷中の西郷隆盛にも会い、薩摩の人々と同様、崇拝の念を抱くようになっていったようである。
 
 そして、鹿児島の留学から帰した直後の1871年(明治4年)に漢英学校の幹事(校長)に就任した。しかし、新しい学制が敷かれたため、この漢英学校の補助金も打ち切られ、廃校に追い込まれそうになる。

 そこで新しい私塾を興すべく、菊池九郎が東奔西走(鹿児島人脈も活用)、慶應義塾出身の吉川泰次郎、成田五十穂に働きかけ(彼らも猛運動を展開)、短期間で設立に漕ぎ付けた。

 藩主承昭から5千円を調達、奥州で初めて外国人教師(C・H・ウオルフやアルサス・コリンズ・マックレー)を招いた。有山輝雄著「陸羯南」では、この2人に羯南も「学んだであろう」とある。

 そして、東奥義塾の名声は日増しに高まり、県内外から俊英が集まったが、異色なのは旧斗南藩の柴四郎、藤田重俊、江南哲夫などである。

 そして、陸羯南が東奥義塾を去った後も、菊池は、青山学院の基礎を築いた本多庸一を塾長に据え(1874年、明治7年)、 翌1875年(明治8年)には、「旧藩藩札償却免除運動」の成功(ここでも鹿児島人脈を活用)を通じて、東奥義塾の経営を支えた(毎年3千円の補助金が藩主承昭からでる)。

 一方、本多を通じ、西洋林檎を初めて紹介したジョン・イング師を英語教師として採用している。

                                  しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2008-02-03 21:34 | その他 | Comments(0)

菊池九郎(1)

 有山輝雄著「陸羯南」によれば、羯南は、1873年(明治6年)、前年に再興されたばかりの私立東奥義塾に入学している(翌年、退学し宮城師範学校へ入学)。
この東奥義塾再興の中心人物が、菊池九郎である。

 その後、羯南は、司法省学校を経て、1879年(明治12年)秋、青森新聞社に入社している(翌年8月頃退社)。
このとき、羯南と共に国会開設運動を展開し、後に青森新聞を譲り受け、1888年(明治21年)に東奥日報社を設立した人物もまた、菊池九郎である。

菊池九郎とはどのような人物であったのであろうか。

秋永芳郎著「東奥の炬火 菊池九郎伝」によれば、菊池九郎は、1847年弘前に生まれ、1926年迄の生涯80年間に、

1)教育:東奥義塾の創設(1872年)

2)マスコミ:東奥日報社初代社長(1888年)

3)政治:青森県議会議員連続3回(1882年)、初代弘前市長(1889年、1911年にも市長)、衆議院議員国会開設以来連続9回(1890年)、、山形県知事(1897年)

4)地域産業振興:殊に林檎栽培の普及に尽力

等数々の偉業を達成した「東奥の炬火」に相応しい人物であったようだ。

以降、羯南との関係を中心に少々詳しくみてゆきたい。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2008-01-27 13:01 | その他 | Comments(1)

山田兄弟と羯南

 弘前に一時期まで台湾の国民党の代表が日本へ赴任すると必ず訪れていたいう寺があるという。新寺町の貞昌寺である。

 そこには山田良政、純三郎の兄弟の碑がある。その碑は孫文が文章をつくり、犬養毅が書を書いている。山田良政は辛亥革命の端緒となった1900年の恵州起義で亡くなり、一連の辛亥革命に至る義挙に参加した日本人の中で最初の犠牲者であった。弟の純三郎は兄の遺志を継いで、中国にわたり孫文の片腕の一人として活躍、以降1947年に上海居留民とともに日本へ帰るまで、常に日中関係の好転のために腐心した。彼らの生家は、弘前の在府町、まさに羯南の生家の向いであった。

 良政は、叔父の菊池九郎の経営する東奥義塾に学び、さらに青森師範に学んだ。しかしこの学校で1888年賄征伐の騒動がおこり、彼は友人をかばい退学処分となってしまう。このくだりは、羯南の司法省法学校退校の様子と酷似している。当時各地の学校で大なり小なり似たような事件がおこり、同様のめにあった前途有為の青年たちが少なからずいた、ということだろうか。学校を追われた良政は幼い時から親しんだ羯南を頼って上京した、と言われている。

たかぎ 
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by kuga-katsunan | 2007-09-17 21:12 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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