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タグ:正岡子規 ( 27 ) タグの人気記事

羯南の遼東半島足跡を辿る(金州②)

 われわれ研究会一行は、初日、金州副都統衙門博物館へ行き、正岡子規の句碑を見学した。金州副都統衙門は清時代の役所があったところで、その跡地が現在、博物館となり、そこに子規の句碑が設置されている。

 この句碑は、昭和15年、当地に住んでいた日本人篤志家によって建てられたものである。設立の経緯については、当ブログ2007年10月30日の高木主筆による「金州の句碑 従軍記者 子規」に詳しく書かれているので、ぜひ一読いただきたい。

 さて、子規の従軍記者としての金州行きは『坂の上の雲』に詳しく描かれている。子規は従軍記者になりたくてどうしようもなかった。彼は思い立ったらそれを達成するまで気が済まないところがあり、陸羯南にことあるごとに願い出たが、羯南は彼の体のことを知っていたから退けていた。だが、ついに羯南も根負けし中国行きを許可する。

 ところがすでに戦争は終わっており、「結局こどものあそびのようなものにおわった」のであった。子規が日本を出発したときには、下関に李鴻章が来て講和談判が始まっていた。
 
 結局、この金州行きは子規にとって、結核を悪化させ死期を早めることになったのであるが、彼はまったく後悔していない。なぜ子規は死を賭してまで従軍したのであろうか。

 ひとつは、上述の『坂の上の雲』にあるように子規の性分によるところもあるだろう。しかし、最大の理由は、俳句の自立という自己の使命の遂行にあった。(これは米田利明氏の説による。)

 子規から河東碧梧桐と高浜虚子への手紙に次のような一文がある。

 「戦争は国民精神を刺戟し、殖産工業から学問美術まで新たになろうとしている。文学もまた然り、それに志すものは、その準備をしなければいけない。自分はたまたま新聞界にいるので記者として従軍することができる。この機会をいたずらに逃すとしたら、愚かだろう。『是(ここ)に於て意を決し軍に従ふ。』」

 子規には、当時、俳句の立つ場所を確立するという使命があった。
「騎兵や海軍が既に社会に場所を与えられているのとちがって、俳句の立つ場所を作ることが必要だった。藩=国から疎外されたところにこそ文筆の道があり、そこにしか自己の生きる場所がないとしたら、役に立たぬと思われているものを、社会に認めさせ、自立をかちとろうとする志が生じていたと思われる。」

 国文学者で歌人でもあった米田氏は「子規の従軍」(『文学』1973年3月号)に以上のように述べている。ちなみに、これはネットの日本ペンクラブ電子文藝館から読むことができる。

 子規は俳句にかける情熱だけで生きてきたのではないだろうか。いやだからこそ年若く死の病を患ったにもかかわらず多少の生を得て、俳句の自立を目指し業績を積むことができた。しかも後輩にもその情熱が伝染し、彼らが子規の後を引き継ぎ、その使命を果たすことになったのである。

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                                       子規の句碑

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-08-29 10:18 | その他 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(金州①)

 高木主筆を始めとする“羯南の遼東半島足跡を辿る”旅の一行六人は、初日、大連空港に到着するとマイクロバスに乗り高速道路で、金州へ向かった。

 金州は日清・日露の両戦争で戦場となったところである。

 また、正岡子規が新聞「日本」の従軍記者として滞在した地であり、彼の句碑が建てられている。
(つづく)

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-07-21 09:50 | 紀行 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(48) 私立大学評判記(その37)

 今回は「(十三)慶応義塾の沿革(上)」の後半となる。
 ここでは慶応義塾の開学から数年までの学生の様子と教育の風景が描かれている。

 古島一雄は、次の福沢諭吉の文章を引用する。

 「諸藩の壮年士族が戦場より帰りて、直に学に就き、其心事挙動の淡泊にして、活発なるは真に愛す可しと雖も、奮時の殺気なお未だ去らず。動もすれば粗暴に走りて学塾の教場或は一小戦場たる可きの恐れ少なからず」

 当時の時代背景もあって乱暴者が多く、沈黙をもって暗に諭すことも、理論の深遠をもって直接諭すことも無理であった。教員側が旧来の行儀作法を重んじることなく気さくに生徒に交わり、そのうえで「理を説き道を示して」、ようやく学生らしく誘導することができたという。また、もっとも困ったのは、維新以後3、4年とのことである。 

 次に教育の風景について、福沢は以下のように記している。

 「創立の初めに当ては、学問の規則とて特に定めたるものなく、唯英文を読んで其義を解することを勉め、所用の書籍も僅かに一、二冊の会話編又は文典書あるのみ」

 開学当初は、教材すら乏しかったことがわかる。さらにその後の様子が綴られている。

 「万延元年に至て米国開版の原書数部とウエブストルの辞書一冊を得たり。之を本塾蔵書の初として其他に当時藩幕政府の筋より私に数部の英書を借用し、又一年を隔て文久二年英国開版の物理書地理書学術韻府等の書に併せて経済書一冊を得たり。即ちチャンブル氏教育読本中経済の一小冊子にして当時は日本国中稀有の珍書なりき」

 開学後4年たって初めて経済学の原書が手に入ったのであった。そして、学生は以下のごとく熱心に勉学に励んだようである。

 「右の如く書籍に乏しくして生徒の書を読まんとする者は手から原書を謄写して課業の用に供する程の有様なれば個より塾中に教則を立てんとするも其方便ある可らず」

 「五年を経て慶応三年の冬、英国の原書数百部を得たり。之を本塾一新の機とす。此時には地理物理学の書は無論、従前稀に見たる経済書歴史の如きも各其種類に従って数十冊づつを備へ生徒各科を分けて書を講ずること甚だ易く、塾中復た原書を謄写するが如き迂遠の談を聞かず」

 開学9年してようやく原書が個々の学生にわたるようになった。しかし、人はこうした苦労を経験した方がいいようだ。
 古島は、次のように分析している。

 「方今の世、教師備わり、教科書成り、博物館あり、図書館あり、知見を博くせんと欲すれば其求むるに従うべく、書を読まんと欲すれば其見るに任すべし、殊に今の慶応義塾の如き其設備の完全なる私立学校中多く其此を見ず」

 明治中期ともなると慶応義塾の教育は充実していた。しかし、卒業する学生の質はどうか。

 「慶応義塾が人材を出せしは却って此の不完全不備の時代に多くして、整頓時代に少なきを見るは何ぞや。嗚呼々々社会の秩序漸く成りたるが為めなりと云う乎。嗚呼々々風雲際会の機、少なきが為めなりと云う乎」

 時代が混乱し教育が不完全の方が、優秀な人材を輩出と古島には映ったようである。生死に直面し修羅場をくぐる経験がもっとも人を成長させるということだろう。幕末の坂本竜馬しかり、戦国の織田信長しかり。

 とりわけ古島自身の実感があったのだろう。彼自身が乱暴者であり、いくつかの学校に入ったが退学を余儀なくされた。大学にも行っていない。彼の同志の多くも同様であった。陸羯南も司法省法学校(現・東京大学法学部)を中退しているし、正岡子規も帝国大学(現・東京大学)を途中で辞めて、新聞「日本」へ入社したのであった。彼は学校教育を信用していないように思える。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-11-30 08:43 | その他 | Comments(0)

成田与作のこと 2

 成田与作のてがかりを探しているうちに、弘前の稲葉先生に、成田の息子さんが書いた自伝があったはず、と教えて頂いた。

 わざわざご一緒に図書館までおいでいただき、検索をしたり、書棚を探したりしているうちに、書庫にあることがわかった。

 著者の名前の登録が間違っていたのだ。

 著者は、
成田乾一、である。

 普通に読めば、かんいち、登録もそうなっていた。

 稲葉先生は、正確に覚えていらして、

「成田けんいち、の本はないですか」

 と尋ねられた。

 後で、電車の中で、この本のコピーを読み始めて、あっと思った。

 乾一、この名前は、羯南の長男と同じ名前、ということに気がついた。

 羯南には七人の娘たちがいる。

 娘が五人生れたあとに、長男の乾一が生まれた。

 その喜びはひとしおであっただろう。

 子規は喜ぶ羯南に

    五女ありて後の男や初幟

 の句を送った。

 残念なことに、乾一は、一歳の誕生日をむかえずに亡くなった。

 成田は、師と仰ぐ羯南の、亡き子の名前にちなんだのだと思う。

 成田乾一の自伝は

  「動乱を驢馬に乗って  大陸十五年の回想」

 という。

たかぎ 
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by kuga-katsunan | 2010-10-24 06:18 | トピックス | Comments(0)

阪井久良伎

 井上劍花坊のことについて何回か触れた。もう一人、今日の川柳の基礎を築き、劍花坊と並んで、「川柳中興の祖」よばれた阪井久良伎(さかいくらき)について、曾孫さんのHPおよび川柳学会第2回研究会資料(2005.9.19)・竹内豊氏「久良伎資料の解釈と保存」から引用してご紹介したい。

久良伎は、本名「坂井辨(わかち)」(1869~1945)といい、1869年生まれ。1884年、藤堂男爵家において五世川柳編「絵本柳多留」を読んで川柳を志向する。

1897年、「日本新聞」入社、正岡子規と歌論で衝突したが、却って親交を深め、子規の感化を受け川柳の本格的な研究を決心。

1903年、「川柳梗概」を発行し、川柳中興の第一声となり、翌1904年、我が国初の川柳会「川柳久良岐社」創設、1905年「五月鯉」発行。

1925年ラジオで本邦初の川柳講義を放送し、1929年久良岐を久良伎に改め、1945年逝去、

とある。

「川柳=狂句」「川柳=猥雑なもの」という当時の社会風潮に異を唱え、川柳の本道を世に広めるべく尽力した、という。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2010-04-11 07:10 | Comments(0)

陸羯南の掛け軸と消息文

陸羯南の掛け軸と消息文がオークションに。

「第14回菜の花忌」(2010年2月13日(土) 会場:東京・日比谷公会堂)の
お手伝いに行った際、関係者の方から、
「今、京都の思文閣で、陸羯南の掛け軸と消息文がオークションに出ている」との情報をいただきました。

直ちに、たかぎ主筆が調べ、カタログ等を取り寄せました。

そして、「とりあえず、現物を京都まで行って見てきてほしい」との指令が出ました。

このため、2月20日に京都の思文閣を訪ね、掛け軸と消息文を見せていただきました。

掛け軸は、「楡関」七絶二行 で、これまで直筆を見てきた書家としての立場から見ても、
落款も含めて、筆圧も捌きも直筆で間違いないと思えました。

消息文は、本田種竹宛ての書簡で、すでに軸装されてあり、
闊達な筆走から、これも間違いなく直筆であると思います。

これまで、昭和62年10月27日から11月23日まで、
松山市立子規記念博物館にて開催された、
「拓川と羯南」展にのみに出展されたことがあるとのことです。

(現在、いづれも、個人の所有となっているため、写真を撮ることが出来ず、
今回の報告では、作品をアップ出来ません)

さっそく、たかぎ主筆に連絡したところ、
「せっかく京都に行ってくれたのだから、入札しておいてよ」
との事で、面食らいながらも、現在の入札状況等を探ったりしました。

オークションのスタート金額は、30,000円でしたが、すでに数件の
入札があるらしく、悩むところです。

実は、今回のオークションは、「坂の上の雲」ブームにのったもので、
正岡子規の句稿や秋山好古の掛け軸なども出品されていて、
セットで入札している人(団体)もいそうです。

最後は、もちろん、たかぎ主筆の一声で、入札価格を決め、
札を入れてきました。

入札の締め切りは、きょうの夕方で、結果は、明日判明するとのことです。

入札の結果によりますが、今後、主筆から執筆陣に新たな連絡があるかもしれません。

今は、実際の掛け軸と消息文を手にして、
解説を書ける日が来ることを楽しみにして祈る事にします。

ささはら
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by kuga-katsunan | 2010-02-21 22:27 | トピックス | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(20) 私立大学評判記(その13)

 今回で「(四)私立大学の勃興」も最後となる。

 いつの時代にも世故に長けた人間がいる。日本法律学校(現・日本大学)は、法学院(現・中央大学)、明治法律(現・明治大学)、和仏(現・法政大学)の3法律学校の大学昇格活動を尻目に、学生募集に成功し学生数を大幅に増加させたのであった。古島一雄は、以下のように記述している。

 「当時、日本法律の役員にして、文部省の官僚たる某なるものあり、三校が倉皇として大学組織の出願を為すと見るや、私かに、日本法律の理事たる戸水氏に語るに文部省深意の存する所を以てし、且つ大学の認可と専門学校令とは自ら別あるを説き、

 従つて大学設備の必ずしも急を要せざるのみならず、寧ろ専門学校令実施期限に至る一年間は、現状を維持するの却つて生徒収容に利なるを示せしより、戸水氏も亦た之れを便とし、旧制を存せしかば、他の三大学に容れられざりし学生は、翕然として日本法律の門に入り、同校は為に意外の学生を収容したり、

 而して松岡校長、戸水理事、人に語げて曰く、我校近来学生の俄かに増加を来たせしは、我校の実力漸く世間に認識せられたるに因るならん、と。世人称して戸水氏の敏腕と云う。」

 大学となると入学資格が高度に限定され、入学できない学生が増加することになり、そういう学生を大学に昇格しない日本法律学校が吸収してしまったのである。当時は、高等教育機関への進学希望者が大幅に増加した時期であり、ここから高等教育機関の発展が始まった。

 古島は、ジャーナリストとして現実主義の目で、当時の生き生きとした動きを伝えてくれている。そういえば、現在も当時と同様に大学より学生募集のうまい専門学校が存在している。

 さて、当記事が掲載された日は、明治36(1903)年11月6日であった。当時、古島は、38歳であり、編集長としてまさにあぶらの乗った時期であった。一方、陸羯南は、45歳、その年の6月から欧米へ旅行中であり、当日はパリにいた。ちなみに、正岡子規は、前年の9月19日に死去し、35歳の短い生涯を終えていた。

 さらに付け加えると、翌年2月10日に、日露戦争が勃発。また、高木主筆が発見した日本画報は、その6月6日に第1号が発行されている。まさに「坂の上の雲」の時代であった。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2009-10-31 06:46 | その他 | Comments(0)

小日本の発行停止通知

 日本が、度重なる発行停止に悩まされたことは、よく知られた事実である。

 日本本紙が発行停止になった時の、代替紙として<大日本>が準備され、発行された、というのが通説になっているが、大日本そのものも、そのすべてが発見されているわけではない。


 日本が発行停止になった時に、読者あてに発行停止を告知するビラ、はがきは、何種類か残っており、そのうちのいくつかを見たことがある。

 「       発行停止

 櫻花落盡し杜鵡血に叫はんとし『日本』は先つ発行停止に遇ふ

 停止の達に曰く

                        日本発行人  青柳力蔵

 本日発行日本第千七百十七號ハ治安ヲ妨害スルモノト認ムル
 ヲ以テ自今其発行ヲ停止シ且同號未配ノ分發賣頒布ヲ禁止ノ
 旨内務大臣ヨリ達アリタルニ付此旨通達スヘシ
   但各發賣所併發賣人へモ此旨通達スヘシ


                        警視總監   園田 安賢

 嗚呼此に至りて筆研暫く諸君に負く


                       東京神田區雉子町三十二番地

     明治廿七年四月十六日

                               日本新聞社    」

  発行停止の通達を受けるごとにこの種の通知を発行していたようだが、全貌は現在では未詳である。

  日本、大日本と次次に発行停止を受け、苦慮した日本新聞社は、まったくコンセプトを変えた家庭向けの新聞、小日本の発行を始める。

  編集長は正岡子規であったが、実はこの小日本も、たった半年あまりの発行期間の間に二度の発行停止を受けている。

  先日たまたまこの小日本の発行停止通知を見た。

たかぎ   
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by kuga-katsunan | 2009-07-11 10:45 | トピックス | Comments(0)

井上劍花坊(6)

引き続き、坂本幸四郎「井上劍花坊・鶴彬-川柳革新の旗手たち」(1990)を中心に引用を進める(pp.59-63)。

「『日本』新聞の、川柳欄、「新題柳樽」は好評で、ちょうど1年がたった、明治37(1904)年7月3日には、投句者が300余名に増え、井上秋劍は、選者名を「新題山柳樽寺和尚劍花坊(しんだいさんりゅうそんじおしょうけんかぼう)」と名乗った。

これから後年、この派が、柳樽寺派といわれるようになり、主宰者の劍花坊は、門下生から和尚の愛称で呼ばれるようになる。・・・(ペンネームを坊主にしたのは、)天田愚庵との邂逅からだという。・・・天田愚庵は、1854年平藩主安藤信正の家臣、甘田平太郎の五男として生まれ・・・漢詩のほかに万葉調の和歌を能くし、正岡子規に多くの影響を与えた。

・・・神田のニコライ新学校で・・正院の大主記である小池祥敬に出会い・・・生涯の大恩人、山岡鉄舟を紹介され・・・国学の師、落合直亮を知った・・・1873年、直亮が開塾した中教院で、生涯の友となった、国分高胤と落合直文を知り、国分によって、陸羯南、福本日南ら『日本』新聞をよりどころとする人たちを知る。

・・・1882年春、産寧坂に草庵をかまえ愚庵と称し・・・ここに多数の文人が訪れ、正岡子規、河東碧梧桐、桂湖南、国分青崖らもその仲間であった。・・・1903年5月上京、日本新聞社の特別桟敷で初日から千秋楽までの9日間、角力記者であった井上秋劍と二人ならんで観戦した・・・。

そのひと月後、7月3日、『日本』新聞に、「新題柳樽」の川柳欄を設けた・・・天田愚庵研究家、柳内守一は

秋劍は、愚庵を思慕したものであろう。川柳革新の砦を柳樽寺と名づけ、己を僧にみたて、禅童、劍花坊、秋劍禅侶、大和尚などと呼称した。やがて川柳を中興したといわれる柳樽寺派と、その総帥、井上劍花坊の誕生はここからであった(『川柳人』1987年1・2月号)

といっている。」


しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2009-06-08 00:08 | 研究 | Comments(0)

小日本叢書

  日本に連載されて好評だった特集をまとめて出版したシリーズは、日本叢書の名前で刊行されていったことは以前にも書いた。
  羯南の政論をまとめた作品が多いが、他にも谷干城と田口卯吉との論争、福元日南の国防論、磯野徳三郎の翻訳もの、と多岐にわたった。

  小日本について調べはじめて、気がついたのはこの短命におわった新聞も実に数多くの実験的紙面構成をおこなっていたことである。
  さらに驚いたのは、冊子付録もつけていたことである。

小日本の解説を書かれた浅岡邦雄先生の「小日本と正岡子規」によれば

「冊子付録は、4月1日からの紙面刷新による新企画のひとつとして刊行されたもので、定期購読者に配布されたものと思われる。」

 ・播随院長兵衛(放牛舎桃林)第一編ー第八編  4月1日以降、毎月二回

 ・小日本叢書 俳句二葉集・春の部          5月30日刊行

 この句集は、子規とその弟子たちの初めての句集、という歴史的出版物であり、付録といえども、重要な位置づけにある。

  子規のこの新聞に対する並々ならぬ意気込みを改めて感じる

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-03-28 10:21 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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