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タグ:杉浦重剛 ( 9 ) タグの人気記事

<羯南と古島一雄>(32) 私立大学評判記(その21)

 今回は、「(六)官立大学の今昔」の後半に入ろう。

 まず古島一雄は、東大生の服装について取り上げる。明治も30年代半ばともなると彼らの服装は、角帽をかぶり金ボタンに詰め襟の黒色の学生服(明治19年に制服として制定)であり、当時としては、一つの権威として憧憬を抱かせるものであった。

 しかし、明治初めは、「短褐弊袴(丈の短い粗末な上着に古び破れた袴)、太きステッキに高下駄」であり、実に粗野なものであった。例えば、杉浦重剛はいつも擦り切れたチョッキを着ていたし、磯部徳三郎は上着が破れ、また、西松二郎は借り物の古袴をずらしてはいていたという。

 次に、明治12年に行われた東大の第2回卒業式での出来事である。福富孝季は卒業証書をふんぞり返って天に掲げ、仙石貢は証書を見ずに場外へ去り、「さすがの西郷従道氏をして微笑を禁ずる能はざらしめたり」と紹介している。

 そして、その状況を見た東京日日新聞の記者が礼儀がなっていないとして記事にした。だが、学生たちはこれに怒って当新聞社に殴り込みをかけ、謝罪を勝ち取ったのであった。

 古島は、これらに賛意を示し、彼らの自由闊達さと素朴さを大いに認めている。

 また、古島は、政治活動について次のように語る。

 「吾人が特に記すべきは、主権論当時に於ける大学学生、若くは卒業者が、如何に言論の自由を有し、如何に政治的思想に富みたりしやの一事なり。」

 東京日日新聞には、東大関係者は、関直彦らが在籍し、明治日報には、三崎亀之助ら、東洋新報には、平沼淑郎(第3代早稲田大学学長、平沼騏一郎の兄)ら、改進党には、高田早苗(早大創立メンバーで後に総長)らがいた。また、協和会、戌寅社、晩成会、鴎渡会を設立し、「盛んに政治を談論せり」。実に、東大の在学生も卒業生も政治問題に対し言論活動が活発であった。

 それに対し、当時文部省は、学生の政治活動を非難した。しかし、「教授フェノロサ氏をして、口を極めて政治運動を非難せしめしが、又一人の耳を傾くる者なかりしなり」だったのである。

 それが、明治30年代半ばには、東大七博士の国家問題に関する所見発表を政府が掣肘すると、博士側も黙ってしまった。

 こうした状況は、古島にとって、実にはがゆくさびしい限りであった。

 ひるがえって現在と比較すると、東大をはじめ他大学にも政治にまったく無関心な学生が増加した。大学の指導に従順でまじめに授業に出席する学生が増えた。現代の学生は、飼いならされた犬のように、大人しくなってしまったようだ。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2010-07-30 17:09 | その他 | Comments(0)

井上劍花坊(4)

引き続き、坂本幸四郎「井上劍花坊・鶴彬-川柳革新の旗手たち」(1990)を中心に引用を進める。

新聞「日本」と陸羯南、古島一雄のコメント部分を抜書きする(pp53-55)。

 『日本』新聞が創刊されたのは、大日本帝国憲法が公布された、明治22年(1889)2月である。社長は陸羯南。青森県の生まれ、本名田中実。太政官書記局に勤めていたが、条約改正反対の世論がたかまったころ官をやめ、新聞『東京電報』の社長となった。

同紙廃刊後、『日本』新聞をおこし社長となり、社説・評論に健筆をふるった。徳富蘇峰とともに言論界の代表的存在だった。軽薄な欧化主義をいましめ、外に対しては民族の独立を強調して政府の軟弱外交を非難し、内には国民の統一を主張した。

陸のいう国民とは、民族的な自覚にもとづいた民主主義を基調にしており、藩閥政府による、軍人・官吏・富豪の利益を保護する国家主義に反対し、堅実な中等民族-中産階級-ミドルクラスが政治、経済のにない手になるような社会を作ることをモットーとした。・・・

 主筆の古島一雄は兵庫県豊岡生まれ。杉浦重剛に師事して日本主義の教育を受け、『日本』新聞記者となる。犬養毅の懐刀と言われ、政治行動をともにする。

戦前貴族院議員。戦後、自由党鳩山総裁が追放になったとき、後任に推されたが、受けず、吉田茂を推し、吉田内閣を成立させた。政治生活50年を在野の一政客として一貫した人間であった。

                                   しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2009-03-07 17:44 | ニュース | Comments(0)

天台道士の<亡友追想録>

 雑誌<日本及び日本人>には、天台道士による<亡友追想録>という連載がある。天台道士とは、即ち杉浦重剛の、ペンネームである。いくつか連載が続いたあとに、<福富孝季君>という項が出てくる。

 <君曾て余が寓居に来る。偶ま余不在なり。
即ち和歌両三首を紙片に書して去る、其他余は曾て君の和歌等を見たることなし、今其一を記憶し、左に録す。

   君が住む宿のあたりを尋ぬれば
              そことも分かす梅が香ぞする>

(日本及日本人  明治40年4月号)

 のどかな平安の世のようなエピソードだが、福富の豊かな感性を感じさせる。

<君明治24年4月9日暴に没す>

松井氏の<新聞日本の人々>によれば

<一夜に七升の日本酒と二十四本のビールを飲みほしたというエピソードをもつ酒豪であった。>

という。

また
<惜しいことに、明治24年4月9日、大酒した挙句、日本刀で喉をかききり謎の自殺をとぐ>

ともある。

好漢、惜しむべし、である。

杉浦はまた

<往々日本主義及び貧乏主義を主張せり、
その寓意の存する所、頗る味ふべきものありき。>

福富が、日本主義と貧乏主義を重ねていたのかは、今となって不明だが、所謂<大日本帝国>のような夜郎自大的な発想でなかったのは、若くして英国留学をし、日本を外からの視線で見ることのできた経験の産物なのであろう。

最後に

<余會て某年一月三日、君を訪ふ、
君泥酔卒然として曰く

用事は御免、酒ならばいくらでも御相手と。>

感情と理性の器量が、とほうもなく大きな<漢>(おとこ)だったのだろうと思う。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-11-16 08:22 | トピックス | Comments(0)

福富臨淵(孝季)のこと

 「一老政治家の回想」(古島一雄著、中央公論社、1951年)の第2章「新聞日本の思い出」の中に、福富臨淵(孝季=たかすえ)のことがでている。該当部分を抜き書きしてみる。

「・・・福富は三十三で死んだが、谷と陸を結びつけた人で、福富と陸を結びつけたのは杉浦だ。将軍として日本新聞に出資したのは谷で、それを捉えて来たのが福富だ。

福富は六尺豊かの大男、白髪赭顔、大酒飲み、ヨーロッパから帰って学校の教授をしていたが、教場で酒を飲んでいるという変った男で、しかも非常な熱情漢であった。

そのくせ謹厳な杉浦とは仲が好い。杉浦はカンカチで芝居を見たことがない。福富は芝居好きなものだから、『君に一つ団十郎の忠臣蔵を見せてやろう、とにかく来てくれ』といって自分は一足先に出懸け、茶屋にいいつけて置いた。

杉浦は例の流儀で茶屋に行って福富に会いたいと面会を申込むと、茶屋では杉浦の様子から見て芝居を見に来たと思わない。『今幕が開いておりますから暫くお待ち下さい』ということだった。

杉浦は幕が開いているから待っていろというのが何のことかわからないが、いわれるままに待っていた。福富の方はせっかく約束しておいたのにどうして来ないと不思議に思いながら、幕が終わったから茶屋に来て見ると、杉浦が四角張って座っておる。

『君どうしたのか』『俺はさっきから待っている』『それはとんでもない行き違いだ、君に見せたい幕はもう済んでしまった』。

忠臣蔵の判官切腹の場だったか大石の城明け渡しの場だったか忘れたが、その一幕を杉浦に見せたかったらしいのだが、杉浦がかしこまって茶屋で待っている間に幕は閉じてしまった。

それっきり杉浦は一生涯芝居を見ずにしまった。杉浦と福富は開成学校時代から一緒だったのだ。

 福富は自殺したが、何の原因かわからない。当時福富は高等師範の教授であったが、造士館(鹿児島)の校長になって行くという一週間前に自殺した。

懇望されたのだろうと思うが、行くのが嫌であったのか、自殺の理由はわからない。非常な熱情漢で酒を飲んでは慷慨してワーワー泣くことがある。

谷がよくいっていた、『俺を泣かせるのは福富だ』と。『臨淵言行録』にも、陸が、世の中で誠というものを感ぜさせるのは福富だといって、

『嗚呼臨淵は至誠の人なり、才能人に優るものあるにあらず、ただ誠の一時を以て同人会社に推重せらる』 と書いている。」

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-10-21 15:42 | Comments(0)

杉浦重剛の「理想内閣表」

 小村寿太郎は、今となっては日露戦争の講和条約であるポーツマス条約の交渉者としての存在が最も歴史上に残っているが、羯南にとっても近しい存在であった。

  戦前書かれた<小村寿太郎>(黒木勇吉、1941年、図書研究社)という浩瀚な評伝がある。その中で、98章に、<友と門下の人々>という小村にとって最も親しい人々が紹介されている。実は一番最初に登場するのが、かの杉浦重剛である。

 <杉浦重剛は、安政2年生まれ、小村と同年である。明治3年、杉浦16歳、膳所藩貢進生としなって東京に来たり、大学南校に入った。その時杉浦の耳朶に最初に響いたのは、すでに上級に在った「秀才小村」という名であった。>

 大学南校は、後の東京帝国大学のこと、明治の初期、日本全国の俊秀たちが集まってきていた。十代の多感の時期に二人は出会い、その後生涯を通じての<肺腑の友>となったのである。

 前述のブログにも書いたように、新聞日本の母体となった杉浦の創設した集団である<乾坤社>の同人にも小村は名をつらねている。

 この本には杉浦がつくった「理想内閣表」というのが紹介されている。

<明治39年のころである。ある人が「理想内閣表」を作って杉浦に見せると、杉浦は即時左のとおり改めた。>

 として以下杉浦が考えた主要閣僚が並ぶのだが、新聞日本に近しい人を挙げてみると


「 総理         近衛篤磨
  ロシア大使     古荘嘉門
  法相         陸 実
  宮相         佐々木高美
  海相         千頭清臣
  外相         小村寿太郎
  逓相         高橋健三
  農相         長谷川芳之助
  台湾総督      頭山 満    」

などがあげてきている。

 どうしても身贔屓になるのは止む得ない。羯南は新聞人の側面がクローズアップされているが、考えてみれば中退したとはいえ法学校の出身であり、その後の論説も、そこで培ったフランス法を中心とする知識が大きいことを考えると、法務大臣、というシナリオもあながちはずれていなくもないと思える。

 羯南にとって、頼れる先輩格である杉浦の親友、小村に頼み事をするエピソードも残っている。

たかぎ


 
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by kuga-katsunan | 2007-10-21 06:55 | トピックス | Comments(0)

新聞日本の連判状

  古島一雄は、陸羯南とは違った意味で、新聞日本の中心人物であった。

編集長として、政論新聞としての内容のレベル維持と経営のはざまで苦しんだ。
 後に政治家に転進した彼が晩年回想録を出している。
<一老政治家の回想>(古島一雄、中央公論社、1951年)には、<新聞日本の思い出>として一章がさかれている。

 そこには、新聞日本の生い立ちが書かれている。

「日本新聞の発刊は杉浦を中心に、新聞発行を目的とした連判状が二十年の四月に作られた、それが起源だ。」

そこには、前述した杉浦の連判状が語られていた。

「連判状の仲間は杉浦を筆頭に、巌谷立太郎、平賀義美、谷田部梅吉、宮崎道正、長谷川芳之助、小村寿太郎、高橋健三、谷口直貞、中谷源六、福富孝季、河上謹一、伊藤新六郎、西村貞、千頭清臣、国府寺新作、手島精一、高橋茂といういわば杉浦が肝胆相許す同志、いずれも後に名をなした人々で、この十八人が九ヶ月で六千円醵金し、それで印刷機械を買入れようというのが連判状の目的だった。」

まずは、印刷機械の購入から始まる、というのがいかにも青春の時代、明治、を感じさせる。

 <古島一雄の青春>、という副題をもつ作品が小島直記にある。
<斬人斬馬剣>という物騒な題名の小説だが、最近読んだという、きしだ君から紹介してもらおう。

たかぎ 
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by kuga-katsunan | 2007-04-24 21:48 | トピックス | Comments(1)

杉浦重剛座談録

 杉浦重剛には、弟子がまとめた<杉浦重剛座談録>がある。
 弟子である猪狩史山、中野刀水が伝記、詩歌集以外で、書き留めていた杉浦の語録を一冊にまとめたものである。内容的には、人物談、回顧談、時評談などがあり、同時代を知るいい資料となっている。

 中に新聞日本についての言及がある。

<三十余年前同志と事を謀りし際の連判帖を示し、語をついで曰く
此の連判帖にある人達と、日本新聞といふものを起したのじやが、一人減り、二人減り、今は生き残っている人も数える程しかなくなってしまった。 当時同盟今四散と歌われる度に真に断腸の思いがある。これから先、此の精神を継ぐ者が出来て来るか来ないかわからん。これを思って諸君は非常な決心のもとに、事にあたってもらはなけりゃならん・・・だがどうじゃ、やってくれるじゃろうね>

 新聞発刊にあたっての連判帖があったようだが、今は失われてしまったのだろうか

  たかぎ  
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by kuga-katsunan | 2007-01-03 00:07 | トピックス | Comments(0)

新聞日本5178号  明治37年1月1日

 年末に図書館で新聞日本の復刻版を借りることができた。
 明治37年の分冊である。
 この年は、ご存知の通り、二月に日露戦争が開戦された年である。

 新聞日本は、前年から開戦論に傾いている。北清事変以降撤兵しないロシアの脅威を睨みながら看過しているとその戦力の増大を招くことからこの時機を逃さず一気に開戦、という流れである。一面の巻頭にある社説<明治甲辰の元旦>も同様の主旨に読める。

 一面の構成は、真ん中に、雅楽楽器の絵を掲げ、上段に社説、下段に漢詩、和歌、俳句の掲載となっている。この時期すでに新聞の正月号はいくつかの分冊に分かれており、日本もこの年は全部で五分冊でできている。

 二分冊は、龍年にちなんでドラゴンの歴史についてのエッセイ、三分冊は、印刷技術の発展についての記事、この記事の後に、天台道士、即ち杉浦重剛が<羯南を憶ふ>という記事をのせている。この時期、羯南は昨年の6月からアメリカ経由でヨーロッパへの外遊に出ていた。約8ケ月にわたる大旅行になってしまい、この疲労が彼の死期を早めたという見方もある。杉浦は新聞発刊以来の盟友であり、<今や国家非常の秋に方り君が帰朝の日将さに遠きにあらざるを聞く、帰来齋すところ果たして如何、今後の紙上実に刮目して見るべきものあらん>としている。たしかにこの日露の緊張をヨーロッパがどう見ているかは大いに気になったところであろう。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-01-01 19:46 | トピックス | Comments(0)

丸山真男と羯南  その二

 丸山真男は、<日本>が<日本人>と一緒になり、<日本及日本人>になってからの思想的傾向については、彼の伯父(丸山の母の兄にあたる)である井上亀六が社主になってから変化していった、としている。

 その井上に思想的影響を与えたのが杉浦重剛、そしてその私塾である称好塾系統の人々ということも指摘している。杉浦は形式的には日本の社長を勤めている。

  ただそこに決定的な影響を与えたのは中野正剛だ、との論者もあり、この部分はいまとなっては、それぞれの著作にあってみるほかはない。

  丸山の父、幹治と井上は、新聞日本で机を並べて働いた間柄、それが義兄弟になっていったわけだが、幹治は、日本について何か書き残しているだろうか

  たかぎ
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by kuga-katsunan | 2006-12-29 04:56 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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