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タグ:小日本 ( 6 ) タグの人気記事

子規博だより  

 今年、8月に松山の子規博物館で、新聞日本と子規が編集長を務めていた小日本についての講演をさせていただきました。

 先週、発行された<子規博だより>に内容が掲載されましたので、是非ご覧頂ければと存じます。

(上)、(下)二回にわけての掲載ですので、後半は、新年の春の号に掲載される予定です。

 来年は、青木先生の十三回忌、記念になるような一年にできれば、思っております。

たかぎ
 
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by kuga-katsunan | 2014-12-30 16:43 | トピックス | Comments(0)

小日本の発行停止通知

 日本が、度重なる発行停止に悩まされたことは、よく知られた事実である。

 日本本紙が発行停止になった時の、代替紙として<大日本>が準備され、発行された、というのが通説になっているが、大日本そのものも、そのすべてが発見されているわけではない。


 日本が発行停止になった時に、読者あてに発行停止を告知するビラ、はがきは、何種類か残っており、そのうちのいくつかを見たことがある。

 「       発行停止

 櫻花落盡し杜鵡血に叫はんとし『日本』は先つ発行停止に遇ふ

 停止の達に曰く

                        日本発行人  青柳力蔵

 本日発行日本第千七百十七號ハ治安ヲ妨害スルモノト認ムル
 ヲ以テ自今其発行ヲ停止シ且同號未配ノ分發賣頒布ヲ禁止ノ
 旨内務大臣ヨリ達アリタルニ付此旨通達スヘシ
   但各發賣所併發賣人へモ此旨通達スヘシ


                        警視總監   園田 安賢

 嗚呼此に至りて筆研暫く諸君に負く


                       東京神田區雉子町三十二番地

     明治廿七年四月十六日

                               日本新聞社    」

  発行停止の通達を受けるごとにこの種の通知を発行していたようだが、全貌は現在では未詳である。

  日本、大日本と次次に発行停止を受け、苦慮した日本新聞社は、まったくコンセプトを変えた家庭向けの新聞、小日本の発行を始める。

  編集長は正岡子規であったが、実はこの小日本も、たった半年あまりの発行期間の間に二度の発行停止を受けている。

  先日たまたまこの小日本の発行停止通知を見た。

たかぎ   
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by kuga-katsunan | 2009-07-11 10:45 | トピックス | Comments(0)

<大日本>のこと

  こんどう君の小日本の記事を読んで<大日本>のことを思いだした。

 <大日本>は、明治24年11月23日に発刊された新聞日本の代替紙である。
新聞日本は、当時新聞紙条例によって発刊以降、毎年数十日単位で発刊停止を受けていた。たび重なる発刊停止は、経営にも甚大な被害を与え、その打開のために代替紙として<大日本>を発行することにした。

  手元に<大日本>の明治25年9月1日の第11号と同じ年の11月30日14号がある。日本が8月31日に10日間発行停止を受けたので、翌日は<大日本>の名前で発刊したのであろう。
  体裁は日本と全く同じで1面にある表題に日本列島の地図をバックに大日本の3文字が書かれている。4面の最終段には発行所として大日本新聞社と記載されている。住所は神田雉子町32番地、これも日本新聞社の住所である。

 <小日本>は新たな読者の獲得を目指して、子規に新しい紙面づくりを委ねた新媒体であったことと比較すると、<大日本>は純粋な代替紙であったようだ。

 しかし、その<小日本>は、新聞紙条例の対象の外にいたのだろうか。

たかぎ 
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by kuga-katsunan | 2007-11-04 13:23 | 研究 | Comments(0)

27歳の子規が遺したもの (その3)


学年末試験に落第したのが、2年前のこと。
日本新聞社に入社して1年ばかりの新米記者ながら、明治27年2月に創刊された新聞「小日本」編集主任には、27歳の正岡子規に白羽の矢が立てられた。

家庭向け新聞の編集長に、である。

愛媛は松山で育ち。二十歳ごろにはベースボールに熱中し。
俳句の革新運動に燃え。病弱で、喀血も経験し。
東京帝国大学国文科を退学した正岡子規が任ぜられた。

今日でいえば。月刊『家庭画報』の編集長を、ハーグの国際司法裁判所に留学し、国際法の研究に燃える色白の法学部卒業生がつとめるような、そんなミスマッチ感がただよう。

就任の理由は、すぐれて優秀だったから、ではなさそうだ。
専門書によれば、人材不足によって、他に適任者がいなかったのが最大の理由といわれている。

ただし。
この点、深く触れるまでに論考はいたっていないのであるが。

病弱で、性格も穏やかで、お故郷ことば丸出しの俳句青年がなぜ編集主任に、という理由は、人材不足だけだったのか?

むしろ、あの偏屈な夏目漱石と交わり、徹底した天才リアリストの秋山真之・海軍中将と生涯の友と認め合い、高浜虚子・河東碧梧桐を従えるだけの「何か」があったのではないか。

その「何か」を「人間的魅力」といってしまうと、通俗一般論の域を出ない。第一、そんなホンワカしたものだろうか。

旧来の俳句を木っ端微塵に論破する「攻撃性」と、病身ながら遠出にでかけても決して根をあげない「意地っ張り」。
陸羯南は、ここにピンとくるものがあったのではないか。あくまでも、直感に過ぎないが。(この項、続く)

こんどう
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by kuga-katsunan | 2007-11-02 15:20 | トピックス | Comments(0)

27歳の子規が遺したもの(その2)



正岡子規は、慶應3年生まれ。
慶應4年が明治元年にあたるから、明治とともに歳をかさね、35歳で若き命を散らした。
俳諧・新聞・エッセイなど、その業績は多岐にわたるが、巷間、その詳細が省みられていないのが、明治27年から編集主任をつとめた新聞「小日本」(しょうにほん)についてである。

「小日本」が発刊された経緯はといえば。

陸羯南の新聞「日本」は、政府に真っ向から物申す硬派の新聞。だから、たび重なる発禁処分を受け、また読者層も当時のインテリ層に限られていた。
そこで、羯南は一計を案じる。姉妹紙を発刊しよう、と。

そうすれば、「日本」が発禁処分をうけた際、姉妹紙に論説を寄稿することができる。
また姉妹紙が売れ行き順調ならば、経営の基盤も安定する。
読者層は「日本」とは対極にある、若年層や婦人を想定した。
こうして、明治27年の紀元節2月11日に、家庭的な紙面づくりを目指した新聞「小日本」が創刊された。

というのが、専門書で流布されている定説である。
しかし。
ちょっと待った! ひと言だけ、付け加えさせて欲しい。

羯南の一計は、あまりにも虫が良すぎはしないか。そりゃ、姉妹紙が成功すればいい。しかし、今日の市場経済的視点からすれば、楽観的すぎる。
よし売れ行き不振が続けば、経営安定どころか、会社自体の存続をおびやかす火ダネになるかも知れないのである。

家庭的な紙面づくりを目指す、その編集主任には、家庭的な視座を持つ仁が適任であるはずだ。
ところが。
編集主任には、妻子も持たぬ27歳の青年が任ぜられた。
                           (この項、つづく)

こんどう
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by kuga-katsunan | 2007-10-26 14:30 | トピックス | Comments(0)

27歳の子規が遺したもの(その1)


こんな設定のストーリー、3年に一度は、映画やテレビ、コミックスで繰り返されていないだろうか。

主人公は、入社1年目の女性編集者。会社は硬派の老舗出版社として知られており、政府に論陣をはることで一定の人気をはくしていた。しかし新たな読者層を開拓しようと、新雑誌を創刊することになる。
ただし編集長候補は浮かんでは消え、消えてなくなり。社員食堂でたまたま隣に座った初老のおじさんに、「今度の雑誌のコンセプト、ゆるいっすよね」と口を滑らせたから、さあ大変!
「なかなか元気な娘じゃのぉ」とニコニコ顔の正体は、実は泣く子も黙るオーナー会長だった。さっそく午後の役員会で、会長は、こう宣言した。「次の編集長は、彼女で行く!」。


陸羯南について語る際、新聞「日本」がメインストリームならば、サイドストーリーあるいは明治27年の動向のひとつとしてわずかに触れられるのが、新聞「小日本」である。

先に挙げたたとえ話には、いささか曲解したところもある。だが、まずもって、新聞「小日本」が刊行された経緯、正岡子規が編集主任をまさかれた背景は、現代に置きかえればこんな状況であったことを、ざっくりと念頭に入れていただければ幸である。(この項、つづく)

こんどう
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by kuga-katsunan | 2007-10-18 13:28 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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