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長清会の人々

  囲碁好きの羯南が友人たちと催していた囲碁の会<長清会>については、つかもと君が以前に紹介してくれている。

  その会員の一人画家の浅井忠がフランスへ行くことになって、会員が集まり大宮で送別会を催した様子が絵巻物になって残っている。(長清会大宮遊図巻)

  絵は、浅井忠、本人が描き、文章は羯南が書いている。

総勢11名の一行の顔ぶれは以下の通りである。

  浅井忠、三浦梧楼、陸実、三輪信太郎、磯野徳三郎、平坂閎

  松永彦右衛門、桂五十郎、池辺吉太郎、三宅雄二郎、国分高胤

 このメンバー、多くの人々は既にこのブログでも紹介させて頂いた面々であるが、3名が初めてのお目見えとなる。

  三輪信太郎
  平坂閎
  松永彦右衛門

 の3人である。

 羯南の関係の文書によく出てくる、という名前ではないが、この会は羯南が最も心を許した人々の会の一つでもあり、今わかる範囲で順番に紹介させて頂きたい。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-06-20 05:32 | 研究 | Comments(0)

新聞日本と囲碁⑥ 長清会

囲碁に関する記述の最後に長清会について。

雑誌「日本及び日本人」大正12年9月号に寄稿した元新聞日本社員で詩人の寒川鼠骨によれば、長清会は陸羯南が作った囲碁サロンであり、上野寛永寺の子院三十六坊の一つを会場としていた。
三十六坊は江戸時代、大名が幕府に寄進した寺の数々で、戊辰戦争でかなり壊されたもののいくつかが当時も残存していた。会場となった坊は一人の僧侶が守っていたらしいのだが、羯南に貸したまま、嵯峨天龍寺にいってしまったと書かれている。

この会の性格については「単純な清談会(談話サロン)であり直接行動を評定するようなアジトではなかった」としているが「顔ぶれが時の政界にとってかなり物騒な連中だったので、飲んだり論じたり碁を打ったりだけでなく、(天下国家について)憤慨して激論が交わされた。だから娯楽の場というだけでなく同士結束の場になった」と評している。

要は血の気の多い面々が、碁を打つだけにとどまらず、天下国家について議論を交わす場であったようだ。

ここではだいたい午後に三々五々集い、食い物が並べられ、飲み食いしながらパチパチとやったり、本を読んだり語ったり。きわめて自由な集まりであったとのこと。

メンバーは陸羯南や正岡子規に加え、陸軍反主流派の三浦観樹(梧楼)、当時大隈内閣の閣僚だった犬飼木堂(毅)、国分青厓、三宅雪嶺、桂湖村ら漢学者、詩人など。先に書いた陸羯南の囲碁の「下手の横好き」はここで真価を発揮したということである。

当時の新聞(報知以外)を比較してみたことがあるが、囲碁欄を設けていたのは新聞日本だけであり、長清会での手合いの日々が高じて同欄に結びついていったことが想像できる。

一方「羯南居士17周忌に会して」に寄稿した羯南の盟友・稲葉君山は、「陸翁の提唱でできた長清会には、根岸時代の名士が網羅されていた。(中略)長清会を中心としての陸翁は、いつも私をしてありし翁の面影をしのばせる題材を成すのです。」と思い出を語っており、いかに陸羯南の生きざまにおいてこの会の存在が大きかったかがわかる。

(明治32年11月には、浅井忠が西洋に旅立つ送別会を大宮氷川公園で行い、その模様を陸羯南と浅井忠が「長清会大宮遊図巻」と題した絵巻物にまとめており、これは陸羯南全集第10巻の巻頭写真として掲載されている)

逆に見ると、長清会を通じて、陸羯南のもつ求心力に気づかされる。

そのような意味では、自らの志をもって「青木塾」や「土曜サロン」などをつくり、数多くの塾生や同士の求心力となった青木彰師の在りし日の姿は陸羯南に投影できるのではないだろうか。

また余談ではあるが、塾生で唯一、師と手合いした当方の見立てでは、囲碁の才能については羯南も青木彰師も五十歩百歩であり、「下手の横好き度」でも共通点が見出せそうである。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-12-10 00:04 | 研究 | Comments(0)

新聞日本と囲碁⑤ 懸賞手合いの連載と突然の休刊

新聞日本末期の明治39年5月には、前述した「奨励会」若手棋士による「5人勝ち越し懸賞手合い」の連載を開始した。

対局は“女将軍”都筑米子二段と方円社の若手ホープ木村廣造初段。

講評は中川千治。このとき六段のプロ棋士。翌年田村保寿(七段、のちの二一世本因坊秀哉)との10番碁が雑誌「日本及び日本人」に掲載されてる。

1局の連載に2週間程度をかけるこれまでにない力の入れようであり、最後の5月20日にはほぼした2段をぶち抜きで、棋譜と中川六段の解説に費やしている。

たぶん(としか言いようがないが)、自社懸賞による手合いなので回収の必要上、派手にあつかったのであろう。

結果は中盤まで優位に進めていた黒番の木村初段が最後に自らの悪手で投了となるのだが、解説は極めて丁寧で今の新聞囲碁欄に比べてもそん色がない。そして本編の記事にはふり仮名をふらないので有名な新聞日本にあって、この囲碁欄にはすべてにカナがふってあるなど、相当力が入っていたのがわかる。

ちなみに解説の後には「次回、勝者と挑戦者(伊藤キノ子初段)の女流対決を次号よりの紙上に見よ」と、かなり思わせぶりに締めている。

その女流対決は10日後の5月30日に始まり6月3日までの連載となった。結果は持碁(引き分け)となり、解説の最後には「あくまで決着をつけるべく再対局することになったが、方円社にも自社懸賞対局があるのでそちらを明日から連載する」としている。

この方円社披露会での懸賞碁はなお豪華で、四段同士の一戦を方円社社長が解説するというものであった。実はこれも持碁となったため、新聞日本側が再戦を促し、読者に「かつ目して之を待てよ」と結んでいる。

しかし6月20日、先の女流再対決を掲載し始めたところで新聞日本自体が廃刊。方円社披露会での再戦は幻の一戦となってしまった。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-09-23 12:48 | 研究 | Comments(0)

新聞日本と囲碁④ 江戸打碁集の紹介

翌明治38年3月26日からは「歴代棋鑑石立集」として江戸時代の棋譜の連載を開始。
編集は定石解説に続いて井上保申。
直前の「囲碁定石解」が手抜きだったのは、こちらの準備で忙しかったためか。

掲載スペースはほぼ広告で埋め尽くされた最終6面の一番下。

第一回目の棋譜は正保元年(1644年)のもの。「於東城」とあるから江戸城でのお城碁である。
正保年間は三代将軍家光の時代であり、この頃になると前述の通り、4つの家元が幕府の庇護の下に城内にて競い合う構図が出来上がっていた。

対戦は2代目本因坊算悦(八段)と初代安井算知(当時七段)で、結果は安井が先番で9目勝ち。

序盤の布石を見ると、小目へのケイマ掛りに1間もしくは2間バサミすると、手を抜いて他に廻っているが、これについて井上は「配石の意味に至っては手事(局地戦の急を要すること)を後にしもっぱら石割(全体の布石)を主とせしがごとし」と解説している。

紙面の関係からか130手までで終わり、これは1回で終わり。
翌日は5年後の慶安2年のやはり算悦と算知の対局を紹介している。

この「歴代棋鑑石立集」。途中で「歴代名家打碁集」と題名を変え、途中あったりなかったりを繰り返しながら翌年明治39年4月24日、連載191回まで続く。

しかし題名が変わってからは井上の解説もなくなり、単なる棋譜の紹介に終わっている。やはり井上の解説(特に序盤のせめぎあい)がないと読者としてはつまらない。

この後の囲碁欄で井上の名前はなく、新聞日本としての江戸打碁紹介はこれが最後となった。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-09-17 15:52 | 研究 | Comments(0)

新聞日本と囲碁③ 囲碁欄の登場

さて新聞日本における囲碁欄である。

最初に登場したのは明治37年8月15日。
それまで6ページ刷りだったのを8ページに増刷。別に囲碁のためではなく、旅順付近の地図を添付したためだと1面アタマで告知している。
当時の紙面は既に戦争一色。冒頭の記事は「我が艦隊の雄風」とある

囲碁欄は付録がなければ最後に当たる6ページの下段。「囲碁定石解」として、井上保申が連載を開始。
井上は明治期のプロ棋士で、「囲碁定石模範」「置碁必勝石立集」「大日本囲碁解釈」「明治新式相先石立俗解集」などの著書がある。ネットを検索する限りでは五段までいったらしい。プロと言ってもトーナメントより、解説や著書で有名な棋士は何人も居るが、井上は当時から筆の立つ棋士だったと見られる。

「囲碁定石解」初回で井上は自らを「愚老」と言い、「古来より名人上手が苦労して積み上げてきた碁について自分が説明するなどとは失敬なことだ」としながらも「その人たちが作ってきた定石を詳細に研究したい」と連載の動機を語っている。

そして置碁における定石と互先における定石をそれぞれ48手紹介するとしている。

翌日、置碁での小ゲイマ掛り大ゲイマ受け、三三入りの定石解説を開始。
一つの定石に変化を加えて、いくつものパターンを紹介し数回にわたって連載をしている。

この連載。好評であったのか、最終面の最終コーナーとして定着し、翌明治38年1月20日の第156回まで続く。
さらに翌日からは「付録囲碁定石解」として同年3月25日まで64回の定石解説が続くのであるが、スペースの都合(人気にかげり?)か本人がやる気をなくしたのか、徐々に解説文が短くなり、最終日はたった2行となっていた。

上記囲碁欄は開始当初4面の雑報やら商品市況欄の下段に位置していたが、後半は科学記事や連載小説など、いわゆる学芸面に写っており、短い期間での試行錯誤がうかがわれる。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-09-16 16:58 | 研究 | Comments(0)

新聞日本と囲碁② 明治の囲碁界と新聞

さて新聞日本における囲碁欄について触れる前にこんどは当時の囲碁界の背景と新聞について。

江戸時代、幕府に守られてきた囲碁界は維新とともに基盤を失い、家元は屋敷を返上。家禄も奉還となった。パトロンあっての家元。宗家の一人本因坊秀和は倉庫暮らししていたこともあったという。
そうした中、明治11年(1878年)郵便報知に初めて棋譜が掲載された。当時どのような棋譜が掲載されたか不明だが、家元制度崩壊の中、多分江戸時代の打碁集あたりから引っ張ってきたのではないか。
翌明治12年、村瀬秀甫が「方円社」を結成。囲碁雑誌を発行したり級位制を取り入れるなど新しい試みで普及を試みた。
これに対抗して本因坊秀栄は明治25年、「囲碁奨励会」を発足。このころになると政財界がようやく囲碁の援助に乗り出した。あらたなパトロンというわけだ。

方円社のパトロンは井上馨、後藤象二郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一。秀栄のパトロンには大久保利通、犬養毅、頭山満らがつき、有形無形の援助を行った。
ちなみに前述の「茶話」によれば犬養は青厓とちょうど同じ力だったそうだ。つまり当時の知識人の趣味として囲碁が定着してきたことがわかる。

これに呼応するように各新聞でも競って囲碁欄が設けられ、やがて新聞碁が囲碁界をリードする時期がやってくる。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-08-28 08:30 | 研究 | Comments(0)

新聞日本と囲碁① 下手の横好き

新聞日本と囲碁について語るにはやはり陸羯南の碁好きに触れておく必要があるだろう。

明治維新後の名士といわれた人々の逸話を集めた「茶話」という本によれば、陸羯南はたいそうな碁好きで司法省法学校時代から打っていたという。ただしょっちゅう打っている割にはまったく上達せず、漢詩人の国分青厓には井目(9子)置いて100目以上負けるそうだ。
これは「相当弱い」を通り越して初心者からまったく抜け出てない状況だ。

自分はアマチュア4段の免状を持っている(今はまったく錆付いてしまったが)。学生免状という裏技で真価は怪しいものだが、それでも学生時代は新宿の碁会所で県代表クラスに3~4子で打っていた。
俗に1子10目と言われる。井目なら90目のハンディだ。そのうえ100目勝つのはたとえ相手が初心者でも大変なことだ。初心者相手では4段も6段も同じ。むしろ強豪といわれる碁打ちのほうが指導碁では筋の悪い手を打たないのでそんな大勝ちすることはない。陸羯南がいかに弱かったかがわかる。

さらに面白いのはその先だ。
同書によると国分青厓は仲間内では同じ漢詩人の桂胡村にはかなわないもののそこそこの打ち手であったらしい。その青厓が胡村を打っていると羯南が頼みもしないのに助言してくるとのこと。
助言というより横から単に口出ししているという感じか。
「岡目八目」は囲碁から出た言葉で、観戦していると8目も得する手も見えてくる。つまり当事者より横にいる人間のほうがいい手が見えるという意味。羯南も横で見ているといい手が見えてくる自分に酔っていたのだろうか。それとも生来の口出し癖であったのか。

海外から帰国した福本日南が羯南と打つと少しも上達していないので「君はもう碁は止めたら」というと、「碁は止めてもいいが、助言は止めぬ」といったとか。
やはり人の所業に一言口出ししたくなるのは羯南の性分であったらしい。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-08-26 21:42 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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