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タグ:古島一雄 ( 101 ) タグの人気記事

<羯南と古島一雄>(46) 私立大学評判記(その35)

 今回は、「(十三)慶応義塾の沿革(上)」である。
 古島一雄はこれを取り上げるのであれば、幕末・明治維新の歴史や福沢諭吉の生涯を詳しく紹介するべきであるが、限りある紙面なので簡潔に述べることにするとし、次のようにまとめている。

 「安政五年福澤氏が帷を鉄砲州の奥平藩邸に下して蘭書を講じ、慶応の末年芝新銭座に移りて塾舎を新築し初めて慶応義塾と名づけしと云うの一事を以て其上古史の大綱を終らざる可らず。」

 ここではもう少しその詳細を『慶応義塾百年史』から紹介しよう。
安政5年は、1858年である。奥平藩とは中津藩(現在の大分県中津市)のことであり、福沢は藩命によって、江戸の築地鉄砲州にあった藩の屋敷内で蘭学の家塾を開設した。当時、世間からは福沢塾と呼ばれ、これが慶応義塾の起源である。

 ちなみに、「家塾」とは、藩幕に仕えている学者が、藩幕の意をうけて、自宅に設けた塾のことである。当時の「私塾」は、現在の私立学校に、「藩校」は、公立学校に当たる。

 なお、当時、福沢は数え年25歳。鉄砲州は、現在の住所であれば、東京都中央区明石町の聖路加病院のあたりである。

 当初、福沢塾はしばらく転々とする。文久元年(1860年)に鉄砲州から芝新銭座にうつり、再び同3年(1863年)に鉄砲州にもどる。そしてこの年、芝新銭座の有馬家の屋敷を入手、翌4年(1864年)再び移転する。この年に校舎が完成すると、時の年号をとって塾名を「慶応義塾」とした。

 また、組織も西洋の共立学校の制度にしたがい、志を同じくするものが共同で協力して経営するしくみを導入し、藩の庇護による家塾から脱して近代私学として独立し、発足することになった。
 さらに、教育内容も蘭学から英学が中心になっていた。

 当時、学生数は、記録に残っているものから引用すると以下の通りであった。
文久3年(1863年)9名、元治元年(1864年)44名、慶応元年(1865年)101名、慶応2年(1866年)169名、慶応3年(1867年)255名。

 塾の移転を繰り返し、学校としては、不十分な体制や施設であったが、学生数が年々増加しており、評価が高まって行ったことがよくわかる。

 さらに古島は以下のような有名な出来事を紹介する。

 「福沢先生が砲煙弾雨の間に立ちてウェーランドの経済書を講せし」

 戊辰戦争の真最中でも福沢は講義を怠らなかった。彼は上野と新銭座は二里も離れているから鉄砲玉は飛んで来るわけはないといい、学生も面白がって梯子に昇って屋根の上から見物していたという。

 福沢は官軍、幕軍のどちらが勝とうが、次の時代に何が来るかをしっかり見据え、その準備を抜かりなく行っていた、ということだろう。彼は当時すでに、アメリカとヨーロッパに計三度もの訪問経験があり、欧米の書物だけでなく、現地で直接、体得したことから、必ずや日本は西洋化されると確信したのだろう。

 古島は福澤を認め、慶応義塾に大いに期待を寄せていたのであった。
 ちなみに、彼は後に犬養毅の片腕として活躍するのであるが、犬養は慶応の卒業生であった。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-09-28 08:57 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(45) 私立大学評判記(その34)

 今回から明治36年(1903年)11月15日の「(十三)慶応義塾の沿革(上)」に入る。今後しばらく慶応が取り上げられ、その実態が詳細に紹介されていく。日本で最初の私立大学である慶応が分析されることで、明治という激動の時代をどう生き抜いてきたかが浮かび上がることになるだろう。

 その前に、今回は歴史の教訓について考えてみたい。これまで古島一雄によって、慶応や早稲田大学をはじめとする私大や東京帝国大学の“評判”が取り上げられ、当時の様子が生き生きと伝えられてきた。

 東京帝大は官吏養成機関として誕生し、その地位を守るべく私大を差別し、法的に専門学校と位置づけ、劣った地位におとしめていた。しかし、私大も高文官試験や就職で実績を出していき、明治も中期となり進学希望者が増加すると、彼らの受け入れ先として注目されるようになった。徴兵猶予の特権も有利に働いた。

 また、各私大は開設の背景から教育内容に至るまで、おのおの特徴を持っていた。それは、時代の変化に対応する必要から創意工夫を重ねて行った結果でもある。

 ところで、現在の日本は、未曾有の東日本大震災から半年がたとうとしている。政治の混乱の影響で復興が思うように進んでいないようだ。周知のように原発事故が大きく絡んでいる。その最大の原因が“想定外”という発想であった。歴史を顧みず10メートル超える津波は起こり得ないと思い込んだ。政治家、官僚、学者、企業ばかりでなく、マスコミまでが一体となって原発を擁護したのである。実はこの考え方は現代に限ったことではない。

 作家の半藤一利によれば、第二次世界大戦の敗戦の原因も同様であったという。昭和の海軍は日露戦争による成功体験によって、大艦巨砲主義、艦隊決戦主義にとらわれた。時代は既に航空機による空中戦に移っていたというのに、この変化を“想定“しなかった。日本人は安定の時代を迎えると、この発想に取りつかれてしまうようだ。歴史の教訓が生かされず、知らず知らずのうちに繰り返してしまうのである。

 現在、大学の置かれている環境が厳しい。4年制大学の4割が定員割れである。今こそ歴史から学ぶことが多いのではないだろうか。大学関係者が想定外としてきたことはなかっただろうか。その意味で、この古島の「私立大学評判記」は現在へ大きなヒントを与えてくれるだろう。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-08-30 18:48 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(44) 私立大学評判記(その33)

 さらに古島の慶応義塾大学と早稲田大学の比較論が続く。

 「之れを以て一は自家の出身教師を中心として、外来の教師に待つ事少なく、一は天下の学者を羅致して、其後れざらんことを是れ力む。」

 ここでは両校の教員の調達に対する特色が出ている。慶応は自前で教員を育て、海外留学に出すなど彼らを中心に、常勤として教育に専念した。一方、早稲田は他大学や官僚から招いた非常勤の教員が中心であった。
 そして、古島はそのことが以下のような問題につながると批判する。          

 「慶応義塾は、塾風を重んじて時代と推移するを知らず、故に其弊や固陋に陥り易く、早稲田大学は、時代に順応して学風を作らんとす。故に其弊や散漫に失するを免れず。」

 慶応は自らの教育風土の中で教員を養成し、かつ日常生活も施設のなかで自己完結しているので、時代の流れに疎くなりがちであり、教育がひとりよがりになる恐れがある。一方、早稲田は時代の潮流に敏感すぎるため、教育の芯が定まらず、学問の本質が伝わらない危険性につながる。このように古島は言うのである。
また、両校それぞれに以下のような学生層の特色がある。

 「少数を以て維持せんと欲するものは、慶応義塾の学校経済策なり、故に勉めて富豪の子弟を招く。多数を以て維持せんと欲するものは、早稲田の経営策なり、故に貧富の差を問はず。」

 これは現代にも通じる特色である。2010年5月1日現在、それぞれの学部生全体の学生数は、慶応28,931人、早稲田44,066人である。早稲田が1.5倍である。慶応は3万人近い学生数であるが、今も少人数教育に重点を置いているし、裕福な階層が多いことも継続している。他方、早稲田は戦後、「マスプロ教育」という言葉を生み、大教室に多くの学生を詰め込んで教育してきた。また、慶応に比べれば学生の親の年収幅が大きい。(橘木俊詔『早稲田と慶応』講談社2008年)

 最後に古島の新聞人としての姿勢が出ている。

 「若し夫の一長一短、仔細に其得失を吟味するに至っては、先ず其各個の内容に就いて事実を観察せざるを得ず。読者諸君、見る所あらば幸に垂示を吝む勿れ。吾人は勉めて諸君と共に之を研究し、公平に之が判断を下さんことを期す。」

 古島は読者に対し一緒に事実を観察し、研究しようと呼びかける。現在の新聞の居丈高な論調とは異なる。実に謙虚である。現代のジャーナリズムにもこういう姿勢があってもいいのではないか。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-07-31 15:39 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(43) 私立大学評判記(その32)

 前回は明治36年当時の慶応義塾の校舎や施設を紹介した。一方、早稲田大学はどうだったのか。古島一雄は次のように述べている。

 「一たび去って早稲田に見ん乎。山を崩して講堂を築き、地を拓いて図書館を建つ。宿舎もなく、倶楽部もなしと雖も、其図書館の巨桷、長く空に横はり、講堂の高甍、矗として天に聳ゆるが如き、堂々たる偉観、又た何ぞ大隈伯の豪華を喜ぶに似たるものあるや。」

 当時の風景が早稲田大学のホームページに掲載されている。秋の刈田が広がり、稲木に刈り取った稲を天日干した背景の中、木立に囲まれ講堂や図書館が顔を覗かせる。実にのどかな田園風景の中に立つ校舎に違和感がある。ちなみに、校舎は大隈の別荘の隣であったという。

 そして、古島は慶応と早稲田を以下のように比較する。

 「故に其外観よりすれば、慶応義塾は芝の公園の如く、早稲田大学は日比谷公園の如し。彼は旧形に依って公園を成せしのみ。規模としては一の見るべきものなしと雖も、多少の歴史は以って懐古の料に充つるを得べく、此は新式に依って新たに工事を起す。公園の規模としては偉観を極むるも、閑雅の態に乏し。彼は馬車鉄道の如く、此は電気鉄道の如し。」

 さらにもう少し古島の比較論に耳を傾けよう。

 「彼はノートルダムの寺院の如く、一たび堂に上れば、先ず三田風なる。一種の咸に打たるべく、此は巴里のオペラの如く、未だ構内に入らざるに先ず神気の快活を覚る。彼は秋郊の晩煙籬落の菊花を尋ぬるが如く、幽情饒しと雖も淒凉の気を免れず。此は春風三月楼台の桜花を見るが如く、駘蕩の象多しと雖も幽寂の致を欠く。」

 「一は飽迄家塾的なり、故にジミなる所あり。一は稍々官府的なり、故に多少の派手を存す。彼は老成の人の如し、着実の質を存すと雖も活気に乏しく、此は少壮の人の如し、活気余りあれども軽躁の譏を免れず。彼は飽くまで塾風を維持せんとす。故に重きを宿舎に置き、此は飽くまで日新の知識を得んと欲す、故に重きを講堂に置く。」

 当時、すでに伝統の重みを感じさせる慶応に対し、早稲田は新進気鋭の溌剌とした姿が描き出されている。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-06-27 11:28 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(42) 私立大学評判記(その31)

 今回も「(十二)慶応義塾と早稲田大学」である。このなかで古島一雄は当時の慶応義塾の校舎や施設、それに生活の様子がどのようになっていたのかについて紹介している。それを以下に詳しく見てみよう。

 「慶応義塾なる構内には、啻に其講堂を中心として、右には福沢氏の邸あり、僅に背後の運動場を隔つれば、小幡氏の宅あり、塾長の家あり、外国講師の家あり。」

 学校内の敷地に学校幹部の家があり、外国人も住んでいた。運動場もあり、体育を重視していたことがわかる。

 次に、「日本最初の演説堂は、依然として当年の名残を留め、四百余人を容るべき大宿舎は、新たに講堂の右側に建てらる」とある。

 現在、日本で初めて演説をしたのが福沢諭吉とされているが、当時すでに演説堂は、日本初という認識であったことがわかる。また、学生の宿舎は、400人以上も収容できる大きな建築物であった。

 そして、「其他、大弓場あり、柔術場あり、倶楽部あり、湯屋あり、理髪所あり、姉さん以てパンを売り、三助以て背を流す」と続く。

 弓道場もあり、柔道場もあった。西洋の学問を中心に教えていたが、武道にも力を入れていた。さらに風呂屋もあり、床屋もあり、しかもパンも売っていたということで、学内で生活ができる状況であったことがわかる。

 さらに、「坂を下れば幼稚舎あり、寄宿舎又た之に伴う。ダダを捏ねて、保母にお伽噺をネダル日本の子供もあれば、先生の音頭に声張り上げて、余念もなげに唱歌を謡う西洋の小児もあり」とする。

 小学校の子供たちの姿も学内にあった。また、西洋の子供たちも一緒に暮らしていた。

 まさに、慶応義塾について、「人は先ず其組織の整然として家庭的なるに驚くべし」だった。

 そして、次のような状況を生み出していた。

 「幼稚園より小学校、小学校よりして中学、中学よりして大学、彼等の父兄にして若し之を願はば、彼等は五六歳の幼年時代より、二十四五歳の壮年時代に至るまで、門外一歩を出でずして、能く此構内に其学生生活を遂ぐるを得べきなり。」

 したがって、「是れ慶応義塾が唯一の特色にして三田学風なる一種の空気が能く保持せらるる所以なり」なのである。

 こうした状況が、慶応独特の学風を醸成するのに貢献した。さながら独立国のようであっただろう。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-05-28 11:01 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(41) 私立大学評判記(その30)

 今回から「(十二)慶応義塾と早稲田大学」の前半に入る。
 
 古島一雄は、まず、「二人者の学校に於ける関係は、甚だ其趣を異にするものあり。」と述べる。前回、「(十一)三田の福沢と早稲田の大隈」で紹介したように福沢と大隈の性格が似ているにもかかわらず、自ら設立した学校との係わりが大きく違うと指摘するのである。

 大隈については、以下のようにまとめている。

 「大隈伯は、固より学校の創立者たるに相違なしと雖も、彼は曾て自ら学校を管理したる事なく、曾て自ら子弟を教へたる事なく、曾て学校を見舞たる事なく、其卒業式に臨みたるも実は数年以来の事にして、彼は直接に学校其物に関係したる事なく、或時に於ては寧ろ故らに其関係なきを装ひし事あり。」

 まったく意外に思われるが、これも前回、解説したように、当時、「明治十四年の政変」で下野した大隈が、政府から危険視されていたという状況が大きく影響したと思われる。

 一方、福沢は、次のように述べられている。

 「福沢氏の慶応義塾は之に反し、自ら之を創立し、自ら之が教鞭を執り、自ら之を管理し、自ら之を経営せり。」

 現在でいえば、福沢は理事長兼学長であった。

 その結果、以下のような状況が生まれることになる。

 「三田の学生にして福沢を知らざる者なかりしに反し、早稲田の学生中には、時として大隈伯其人の顔をだも知らざるものあり。」

 大隈は、実質的な設立者であるにもかかわらず、このような状況にあった。しかし、当時、日本における最大有力者でもあった大隈抜きで、よくも慶応と肩を並べ、私立大学の両雄と称される位置に昇り詰めることができたものである。

 古島は、後段でその分析をしているので、次回、紹介しよう。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-04-30 09:08 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(40) 私立大学評判記(その29)

 今回は、「(十一)三田の福沢と早稲田の大隈」の後半である。
 
 前回、古島一雄は、福沢諭吉と大隈重信の類似性を批判的に取り上げた。そして、新聞『日本』の同僚とでもいっていい三宅雪嶺が、以前そのことを指摘しているとして以下のように紹介する。

 「骨格の逞ましく、相応の腕力ある所相似たり。理会早き所相似たり。貨殖に巧みなる所相似たり。徒らに金銭を貯蓄せず、能く事業に活用する所相似たり。進んで時勢に順応し、順応すると雖も屈従に甘んぜざる所相似たり。活社会に処し、活社会を動かす所相似たり。」

 さらに次のように続く。

 「学校を設立し、子弟を教育する所相似たり。新聞を使用し、意見を発表する所相似たり。多く部下を有し、其部下が不平を抱きつつ服従する所相似たり。部下の弊短よりして誤解を被る所相似たり。事に当たりて屈せず撓まず、痩我慢を分とし、痩我慢を得る処相似たり。」

 以上のように、三宅も福沢と大隈の類似性を否定的に解説する。しかし、最後に古島は、一転、彼らを評価する。

 「殊に二人者の意地強き、悪く言へば片意地なるものあり。」と始め、まず大隈について以下のように述べる。

 「(明治)二十二年、大隈伯が時の外務大臣として条約改正を断行せんとするや、国論鼎沸、内外敵を受く。烈士の一弾、霞関に爆発し事、中道にして敗れたりと雖も、其能く毅然として大勢に抗したりしは、当時吾人は、敵ながらも其意気地の壮なるに感じたりき。」

 次に福沢について、以下のエピソードを取り上げる。

 「福沢氏の嘗て演説に臨み、其プログラムに、大臣には閣下と書し、福沢氏には只だ『君』と書したるを見、学者の面目に関すると為し、憤然として其会を辞したりしが如き、稍児戯に類するの観ありと雖も、又た其意気地の愛すべきものを存するにあらずや。」

 そして、古島は両者を次のように評してまとめる。

 「而して此の意気地と、彼等の傲慢心とは、福沢氏をして慶応義塾を興して封建の思想と闘はしめ、大隈伯をして専門学校を興して官学に抗せしめたり。大隈伯が学問の独立を唱へ、福沢氏が独立自尊を叫びたるも、皆此の意気地と傲慢心の色彩せられたるものにして、二大学の今日あるは又た此の意気地の賜たるを知らば、二人者の傲慢癖と意気地の功も亦た偉ならずや。」

 意気地と傲慢心を逆手にとって、ほめあげるのは古島の芸当である。また、一方的でないものの見方も彼の面目躍如たるところである。

 ちなみに、実際この二人は盟友であった。大隈は尾崎行雄や犬養毅等の慶応の卒業生を、まだ海のものとも山のものともわからなかったが、当時、自分が監督していた政府機関に登用した。

 また、福沢は大隈が東京専門学校(早稲田大学の前身)を設立するとき、慶応の人材を送り込み、その開校式に出席し祝辞を読んだ。当時、明治十四年の政変で下野した大隈は、藩閥政府から西郷隆盛の私学校のようになることを恐れられ出席することを阻まれたのであった。

 両者は互いの家を訪問しあう仲でもあったという。両雄並び立たずといわれるが、強烈な個性の持ち主である二人が親友とは意外であった。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-03-26 11:17 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(39) 私立大学評判記(その28)

 今回のタイトルは「(十一)三田の福沢と早稲田の大隈」である。
 
 現在も慶応義塾大学と早稲田大学は、私立大学における二大巨頭であるが、明治36年ごろでもすでに他の私大に比較し特別な存在であった。当時の両大学の学生数は、古島一雄の本連載の第1回目緒言には、慶応が約2,400名、早稲田は約4,500名とある。

 当時も入学試験を実施していたもののほぼ全入であった。大学運営をすべて学生の納付金にたよっていたからである。

 ちなみに現在(2010年5月1日)の学生数と比べると、慶応約43,000名、早稲田約54,000名である。なお、現在、私大の最大規模を誇る日本大学で、約82,000名であり、東大は約29,000名である。

 さて、今回、古島は、慶応の創設者である福沢諭吉と早稲田のそれである大隈重信とを彼一流の目で比較し、次のように語る。

 「吾人は今、慶応義塾と早稲田大学とを比較せんと欲するに及びて、大隈伯の却って福沢と幾多の類似点を有せるを見る。」

 そしてまず、大隈について、次のように語る。

 「世人は、大隈伯を目して大名的なりと云う。其邸宅を壮にし、其庭園を大にして、一代の豪華を尽くし、居常鷹揚として黒紋付を着流せる処、普通華族も遠く及ばざるの観あれども、是れ実は、彼の傲慢癖を装飾せんとする一の痴心に過ぎず、其思想は寧ろ英国流の平民なり。」

 司馬遼太郎の小説でも大隈は長広舌で、大風呂敷な人物として描かれているが、古島もうまく彼の全体像をとらえている。

 一方、福沢については、以下のように語っている。

 「世人は、福沢氏を目して素町人なりと云う。其勲爵を辞し、其黄金を重んじ、縞の羽織に角帯を締め、ベランメー口調に平語俗説する処、如何にも町人の観あれども、是れも亦其傲慢心を維持せんと欲する一の覇気に過ぎずして、其人格は寧ろ親方的、若くは長脇差的なり。」

 これもまた的を得たとらえ方ではないか。今は両者とも立志伝中の人物であり、その成功談しか伝わってこないが、古島にあうとひとたまりもない。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-02-27 19:11 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(38) 私立大学評判記(その27)

 今回は「(十)学位と特権」の後半、前回に少しふれた特権問題に移る。
 
 古島一雄が私立大学の発達にとって、最大の障壁と考えていたのは、学位と特権の問題であった。そして、後半部分で文部省に対し、帝国大学が持っている高等文官試験の特権を剥奪せよ、と主張する。

 以前にも述べたが、私大でも高文官試験に合格するものも出ていた。古島は、帝大と私大の学生の機会を均等とし、日本の文化、文明、学問の発展のために、実力の競争にゆだねよと主張するのである。

 そして連載も10回目を迎え、彼は以下のようにまとめている。

 「吾人は今総論を終わるに臨みて、更に文部省に勧むるものは、先ず其公平を持するに在り、先ず其一種の偏見を改むるに在り、少なくとも私立学校を敵視ぜずして、力めて其自然の発達に一任するに在り。」

 文部省は、私大の隆盛に対し、帝大の優位を守るのに汲々として、学位と特権をかたくなに手放さなかった。しかし、当時、大学進学希望者が増加し、それを吸収していたのが私大であり、財源不足で大学をすぐには増加できない政府にとって、文運進歩のためには、私大が必要不可欠な存在になっていたのである。

 文部省の役人は、私大は商売としてやっていると批判する。しかし、古島はそれでも文運進歩のためになるのならいいのではないかと私大を弁護する。当時の状況からすれば、市民の側に立った至極妥当な見解と思われる。

 さて、この連載は、まだまだ続く。彼は最後に、「吾人は明日の紙上より六大私立大学の実情を叙し、更に結論に於いて其所見を述べんと欲す」と締める。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-01-29 14:57 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(37) 私立大学評判記(その26)

 今回から明治36年11月20日の木曜日に掲載された「(十)学位と特権」に入る。これまでと同様に初回から第一面に掲載され、しかも11月9日の「(七)官立大学の今昔」以来、一番最初にもってこられている。
 
 最初に古島一雄は、「私立大学の発達に伴ひて起るべき問題は、学位問題と特権問題なり」と述べる。そして、文部省に対し、私立大学にも学位を与える権限を認め、帝国大学が持っている官吏登用の特権を取り上げろ、と主張する。

 彼は、まず学位問題から始める。博士号が、どれほどの価値があるのか、陸海軍の金鵄勲章と同様ではないかという。すなわち、金鵄勲章は、当初、陸軍省が日清戦争で武功抜群のものだけに対して与えようとしたが、その選定に困難を極め、結局、「平城・旅順の激戦乃至は営口、紅瓦寒等の激戦に臨みたる将士は、其官等に応じて之れを与ふる」とした。海軍も、陸軍との勢力均衡のため、それにならい「黄海の激戦に臨みたる中尉以上の将士」に、大量に与えることになった。

 彼は、このように金鵄勲章は、多くの人に与えすぎて価値が低いものとなってしまったが、博士号の学位も同じではないか、という。文部省は、博士号をもったいぶって最初、各分科大学へ5人に限り与えることにしたが、これは見栄の張りすぎであり、むしろ「学生の虚栄心を長ぜしめたる罪悪」であるとまで論じる。

 結局、早稲田大学博士があってもいい。慶応、明治、法学院(現・中央大)、法政、日本、それぞれの私大の博士があるべきだ、と主張する。

 そして、以下のようにまとめる。

 「世は到底実力の競争なり、此の如くして其の尊きものは益々尊きを加ふべく、其尊かざるものは益々尊かざるに至り、優勝劣敗の天則は、茲に初めて真個の博士を見るを得んなり。其れ文部省が取るべき最良の方針にならずや。」

 現在では、信じられないことであるが、明治30年代では、私大にはまだ学位を与える権利がなかったのである。当時、帝大と私大の学生の学力は拮抗していた。ごくごくまだ一部のエリート層の争いであり(明治38年の帝国大学と専門学校の卒業者数は、合計3,334名。『文部省年報』)、古島は、帝大と私大の学生の機会を均等とし、実力の競争にゆだねよと主張するのである。

 実に、古島ならではの歯切れ良さを感じさせてくれる。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2010-12-30 11:46 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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