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<羯南と古島一雄>(57) 私立大学評判記(その46)

 今回から「(十七)慶応義塾大学部(二)門野氏対鎌田氏の争い」である。前回が明治36年11月18日で(十五)となっているが、今回の11月19日は、(十七)となっており、第16回が抜け一つ飛んでしまったことになる。こういうことがあったとは、あんがい当時はいいかげんだ。

 さて本題に戻ろう。古島一雄は、門野幾之進と鎌田栄吉の人格を比較し以下のようにまとめている。

 「天は二物を与えず門野氏の学問には異常の大才を付与しながら、其局量には又非常の偏狭を以てしたり。故に学問ある偏狭者の通有性は門野氏も亦之を免る能はず。善き意味よりしては一種の傲骨漢と称せられ、悪しき意味よりしては一種の偏狭者と罵らる」

 そして、門野が排斥された原因を次のように紹介する。

 「傲骨の人動もすれば人を凌ぐ。人を容るる能はずして人を凌ぐ。是れ氏が福沢の一問に憚られたると同時に同輩の人望を博する能はざりし所以なり」

 一方、鎌田については次のように述べられている。

 「之に反して鎌田栄吉氏の人と為り茫々乎として平々然たり。其何でもウンウンと引受くる所頗る大量なるが如く。其何事にも無頓着なる処太た寛容なるが如く。休日に気付かずして学校へ出で、其人なきを見てストライキと誤るが如き、馬鹿気たる愛嬌もあれば、高等教育会議に出でては大風呂敷を広げて、列席の人を驚かす一人前の法螺もあり」

 さらに、鎌田の説明にニュアンスが損なわれないよう、少し長くなるが原文を引用しよう。

 「筆を把らば時事新報の記者たるに足るべく、口を開けば一人前の演説家たるに足るべく、殊に其風采の鷹揚として迫まらざる処、精悍の気を見るに足るものなしと雖も何となく長者の風あり。故に或者は見て以て凡物となし、或者は評して以て無気力と誹るものあれども、要するに是れ、悪気もなく、邪気もなく、気取りもせざれば気障りもなく『小幡さん』の只だ『小幡さん』なる如く『鎌田君』も亦た只の『鎌田君』たるに過ぎず。『小幡さん』は水を飲むが如く、可もなく不可もなく、鎌田君は時事新報の所謂る買薬を飲むが如く、毒にもあらざらんかなれども去りとて又た薬にもならず、従って人に憚られもせざれば嫌われもせず先生は見て以って『ヨイ男』となし、生徒は見て以て『ヨイ人』となし、友人は見て以て『アレ丈けの男』と為す」

 そして、古島は鎌田の評価を次のようにまとめる。

 「是れ鎌田氏が其の後輩たるにも拘はらず、其学力の劣れるにも拘はらずして塾長に挙げられたる所以なり。福沢氏が其晩年参考の為め新着の書を講せしむるや、学力ある門野氏にあらずして、常に鎌田氏に頼りたるを見れば、又た以て両者の福沢氏の於ける関係を推知すべし」

 このように門野は学問の才はあったが、偏屈者で人望がなかった。一方、鎌田は学問には劣るが、人格者として評価され人望を集めていたのである。
 さらにこの門野・鎌田騒動の顛末は続く。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2012-08-31 08:42 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(56) 私立大学評判記(その45)

 「(十五)慶応義塾大学部(一)」の後半に入る。

 古島一雄は前回に紹介した門野幾之進の教育改革の失敗について、「吾人此に至りて遺憾ながら鎌田門野の衝突と云える事実を暴露せざるを得ず」と指摘する。
 さらに、門野について次のような事実を語る。

 「門野氏は新銭座時代の出身者にして鎌田氏等の先輩たるのみならず其の学問の該博深遠なる塾中第一と称せらる。往時、藤田茂吉、波多野承五郎、犬養毅、尾崎行雄が学生時代に於いて最も流行したりし教師に対するストライキは常に一人の門野氏に依って治せられたるを見るも、如何に氏が学問の上に尊敬を受けたるやを知るべく当時剛情者の犬養をして学問は門野に叶わぬと叫ばしめたるを見るも、氏が如何に学問を以って学生を圧迫したりしやを見るべきなり」
 

 このように門野は「学問の上には多大の尊敬」を受けた。しかし卒業後、生徒が他の教師に対しては、「先生」と呼ぶのであるが、門野氏には、「オイ門野」と呼び捨てしたというのである。

 ここで古島は、「氏が人格の上に於いて如何に待遇せられたりしを想見すべきなり」と述べ当回を終わる。そして、その詳細は次号「慶応義塾大学部(二)門野氏鎌田氏の争い」へ続くことになる。

 当連載は一面のしかも一番最初にしばらくの間、掲載されている。それだけ世間の注目を集めたと思われる。古島の方も綿密な取材を行っていたことがわかる。
 

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2012-07-28 16:41 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(55) 私立大学評判記(その44)

 今回は引き続き「(十五)慶応義塾大学部(一)」である。

 古島一雄は、慶応義塾大学が明治23年(1890年)に大学部を開設して以来、この時期までの歴史を三つに区分する。それが創立時代、門野時代、新帰朝時代である。門野時代とは教頭の門野幾之進が全権を握っていた時代であり、新帰朝時代とは義塾出身の留学生が新たに帰朝して講師の中心となって活躍する、まさにこの当時のことであるとしている。 

 実は門野時代から新帰朝時代への変遷には門野と塾長の鎌田栄吉の争いがあった。これについては『慶応義塾百年史』にも詳細は載っていない。

 次に古島は門野時代の教育改革を紹介している。門野は創立時代からの専門の学部ごとに科目を設定した分科制を廃止し、さらに必須科目を最小限にとどめ、選択科目を多くした。具体的に門野時代のカリキュラムについて、第三学年は以下のようであった。

            一週の時間           
 必修科
  経済原理(西洋人)   四      
  経済史(西洋人)    四
  統計学         二      
  帝国憲法        三
 選択科
  外交史         二      
  貨幣論(一期)     三
  銀行論(二、三期)   三      
  民法 総則       三                   
  民法 物権       二
  刑法総論        二      
  英米法         二
  独逸語或は仏語     二
  (是は何れか必修)   
  英商用文例       一
  (今は英語なる時間中にあり) 

 必修科目が4、選択科目は9であった。経済原理と経済史の教師は外国人であったことがわかる。また、現在の小中高のように一週間に同じ科目が何度もある。

 ちなみにそれ以前は理財学部、法律学部、政治学部、文学部の各学部ごとにカリキュラムが設定され、必須科目がほとんどであった。以下に明治31年(1898年)の理財学部第三学年の内容を紹介し、上と比較してみよう。
 
            一週の時間           
  経済学原論       五      
  近世経済史       五
  帝国憲法        二      
  貨幣論         二
  民法要論        四 
  仏語独逸語(其一を選ばしむ)二
  英文演習        一

 門野時代のカリキュラムと比べ、受講できる科目が少なく、経済学原論や近世経済史は毎日、授業があったことがわかる。

 古島の当記事には門野の教育改革についての目的が不明であるので、そこを『慶応義塾百年史』で探ってみた。それは欧米の大学のように学生が科目を自由に選択できるようにしたいということであったが、その根底には以下のような門野の“思い”があった。

 「大学部を出た上は自由の独立の人間になるんでありますから、幾らか独立な働き、自由の意志というものを働かしてよいはずと思う。無理に何時までも子供のように強いるということは、適当な教育法ではあるまいと思う」(『慶応義塾学報』第20号、明治32年10月刊)

 現代では当然のように思われるが、1年でまた元に戻ってしまった。その様子が次回に続く。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2012-06-28 10:39 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(54) 私立大学評判記(その43)

 今回は「(十五)慶応義塾大学部(一)」である。ここではまず、慶応義塾大学と早稲田大学の学生数が比較される。古島一雄は「最近の調査によれば」ということで、以下のように学生数の詳細を紹介している。

 慶応義塾大学
  大学部本科 267人
   内訳 理財科 198人
       法律科  35人
       政治科  34人
  予科 421人
   小計(大学部本科+予科) 688人
  普通部 951人
  商業学校 494人
  幼稚舎 224人。
   総合計 2,357人

 早稲田大学
  本科  694人
  予科 1348人
  専門部 765人
  高等師範科 324人
  文学部 151人 
   小計(本科+予科+専門部+高等師範科+文学部) 3,282人
  早稲田中学 1,013人
  早稲田実学校 356人
   総合計 4,599人

 本科等の高等教育及びそれに類する学生数では、早稲田の3,282人に対し、慶応が688人であり、早稲田が圧倒している。

 一方、『日本帝国文部省年報』の明治36年度版では、他の私立大学の学生数は次のとおりである。
 和仏法律学校(現・法政大学) 1,124人
 明治法律学校(現・明治大学) 1,784人
 東京法学院(現・中央大学)   1,260人
 日本法律学校(現・日本大学) 1,533人
 関西法律学校(現・関西大学)   684人

 各大学とも高等教育及びそれに類する学生数であるが、慶応はここでも学生数が他大学に比べ少ないことがわかる。しかし、慶応の方が社会の評価は高かく、入学試験も他大学より難しかった。

 ちなみに明治31年(1989年)の試験科目は、日本地理、万国地理、日本歴史、万国歴史、博物学、物理学及化学、数学、英文和訳、和文英訳、英語会話及書取、日本作文、図画となっている。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2012-05-27 14:41 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(53) 私立大学評判記(その42)

 今回は「(十五)慶応義塾の沿革(下)」の後半に入る。ここには明治4年(1871年)から明治36年(1903年)までの在学者数が掲載されている。
 各年の在籍者数については下記のとおりである。

 明治4年(1871年)  319人 明治5年(1872年)  311人 
 明治6年(1873年)  316人 明治7年(1874年)  314人
 明治8年(1875年)  373人 明治9年(1876年)  340人
 明治10年(1877年) 282人 明治11年(1878年) 233人
 

 明治12年(1879年) 293人 明治13年(1880年) 334人
 明治14年(1881年) 476人 明治15年(1882年) 578人
 明治16年(1883年) 649人 明治17年(1884年) 570人
 明治18年(1885年) 514人 明治19年(1886年) 697人

 
 明治20年(1887年) 954人 明治21年(1888年)1094人
 明治22年(1889年)1341人 明治23年(1890年)1507人
 明治24年(1891年)1555人 明治25年(1892年)1405人
 明治26年(1893年)1219人 明治27年(1894年)1039人

 
 明治28年(1895年) 944人 明治29年(1896年) 908人
 明治30年(1897年) 985人 明治31年(1898年)1180人
 明治32年(1899年) 984人 明治33年(1900年)1215人
 明治34年(1901年)1439人 明治35年(1902年)1667人 
 明治36年(1903年)4月まで 1771人 

 ここからでも明治10年からの経営危機がわかる。明治23年になると大学部を設けたが、すぐに軌道に乗るわけではなく、一旦、落ち込み定着するまでに10年ほどかかっている。社会に評価されるまでには、やはりこれだけの期間がかかるのだ。

 「福沢氏一生の大目的は封建思想を打破して社会の急先鋒たるにありしかば著書に新聞に其主義を鼓吹して一日も怠るはなし」と、古島一雄は、福沢を高く評価する。そして、次のように疑問を呈する。

「故に福沢氏の事業よりすれば慶応義塾の如き福沢宗伝播の一機関たるに過ぎざるのみ、従て其開山上人の死が此沿革史の大段落を為さざる可らざるは自然の順序なり」

 福沢は明治34年に没した。慶応は福沢を教祖とする宗教のようなものであり、その教祖の死により没落するのは世の常である。古島は、「知らず先生死後の義塾たるもの果たして之に優るものありや否や。吾人更らに編を改めて之を叙せんと欲す」と述べ、次回からさらに慶応の経営の内実を掘り下げていくことになる。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2012-04-29 15:27 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(52) 私立大学評判記(その41)

 現在の慶応義塾大学は、私立大学の雄として君臨し、学生数、約34,000名(2011年5月)を誇る。しかし安政5年(1858年)の創立から40年間はたびたび経営危機に見舞われたのであった。

 今回から「(十五)慶応義塾の沿革(下)」に入る。そこには文久3年(1863年)から明治36年(1903年)までの入学者数と在学者数が掲載されている。
 まず、各年の入学者数については下記のとおりである。

 文久3年(1863年) 10人  元治元年(1864年) 36人 
 慶応元年(1865年) 58人 慶応2年(1866年) 77人 
 慶応3年(1867年) 84人  明治元年(1868年)103人
 明治2年(1869年) 256人 明治3年(1870年)326人 
 明治4年(1871年)377人  明治5年(1872年) 317人 
 明治6年(1873年)240人  明治7年(1874年)254人

 明治8年(1875年)273人  明治9年(1876年)189人
 明治10年(1877年)105人 明治11年(1878年)130人
 明治12年(1879年)186人 明治13年(1880年)204人
 明治14年(1881年)344人 明治15年(1882年)396人
 明治16年(1883年)331人 明治17年(1884年)223人
 明治18年(1885年)271人 明治19年(1886年)435人

 明治20年(1887年)514人 明治21年(1888年)571人
 明治22年(1889年)653人 明治23年(1890年)675人
 明治24年(1891年)505人 明治25年(1892年)380人
 明治26年(1893年)310人 明治27年(1894年)236人
 明治28年(1895年)543人 明治29年(1896年)399人
 明治30年(1897年)547人 明治31年(1898年)436人

 明治32年(1899年)351人 明治33年(1900年)420人
 明治34年(1901年)436人 明治35年(1902年)743人 
 明治36年(1903年)4月まで409人 
 合計13,353人

 一覧からわかるように明治6、10、17、27年と4度の学生数の急減を経験しているが、最大の経営危機を招いたのが明治10年であった。福沢諭吉は一時、廃校まで決意したという。その原因は西南戦争により武士階級出身が疲弊し、その進学者が大幅に減少したことによるものであった。

 困窮した福沢は文部大臣宛てに「私塾維持の為、資本拝借之願」という政府への借金の依頼書を提出したが、それは受け入れられなかった。結局、「慶応義塾維持法案」という寄付金募集の基準を定め、同志や卒業生約130名から寄付金を募って、ようやく危機を脱することができた。

 しかし復興の最大の要因は、なにより幸運なことに当時、学生層が士族出身から平民へ拡大していたことにある。明治5年の学制頒布以来、平民の就学率が次第に増し、ちょうど明治13年ごろには急上昇に転じていた。また、士族も学歴を得ることで立身出世の道を目指すようになっていた。まさに時代の潮流に救われたのであった。
 
 さて、現在の新聞には私学を取り上げここまで詳細な分析を行うことはない。時に大学シリーズとして特集を組むことはあるが、表面をなぞるだけにすぎない。本質を追究する気迫が欠けているように思えてならない。

いしがみ
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by kuga-katsunan | 2012-03-27 14:57 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(51) 私立大学評判記(その40)

 前回に引き続き「(十四)慶応義塾の沿革(中)」である。
 古島一雄は、福沢諭吉が“演説”を教育する施設として演説館を建設したことについて、彼の文章を引用し、次のように紹介している。

 「明治八年春本塾邸内に始て演説館なるものを新築して演説討論演習の用に供したり。但し其趣意は演説を以て直に聴衆を益するの目的に非ず。唯此所に公衆を集め又は内の生徒を会して公然所思を演ぶるの法に慣れ以て他日の用に供せんとする者にして演説討論を稽古する場所なり」

 自由民権運動が高揚する前に、演説館が建築されていたのであった。
 そして、福沢のこの姿勢に対して、古島は以下のように高く評価する。

 「今よりして之を見れば其建築は粗末なる一個の木造にして外観の見るべきものなしと雖も福沢氏が慧眼早く之に着目し直に之を実行したりしに至ては君が如何に文明開化主義の伝播に全力を灌ぎたるやを見るべく又以て君が勇往邁進其所信を貫かんとする意気の量を見るべきなり」

 当初の演説館は“粗末”なものだったようだ。しかし、ここから犬養木堂(毅)の「匕首直に敵の咽喉に迫まらんとする痛快なる弁舌」、尾崎学堂(行雄)の「論理透徹、法度森厳なる雄弁」、井角(井上角五郎)の「長広舌」が生まれたのだという。
 演説は、自由民権運動の、また「立憲制度の機関」の手段として必需品であった。

 今、福沢のような「勇往邁進其所信を貫かんとする意気の量」をもった教育者はいるのだろうか。

 現在の日本には、教育ばかりでなく政治にも経済にも閉塞感が漂う。加えて昨年3月11日には東日本大震災にも見舞われた。まったく“この国のかたち”の先が見えず、はがゆいような焦燥感を感じているのは私だけではないだろう。

 しかし、先日の2月18日に東京の日比谷公会堂で「3.11後の『この国のかたち』」と題した第16回菜の花忌シンポジウムを聞いて目の前の霧が晴れるようになった。シンポジストとして、ノンフィクション作家の佐野眞一氏、学習院大学教授の赤坂憲雄氏、作家の高橋克彦氏、玄侑宗久氏が登場された。

 各人、震災の実体験を踏まえ、その復興活動をされてきた発言が聴衆の心を震わせた。「この国のかたち」の新たな提言がちりばめられ、現在が時代の転換期にあることを感じさせるものであった。
ちなみにこのシンポジウムの様子は、3月31日にNHKのEテレで放送される予定である。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2012-02-28 10:21 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(50) 私立大学評判記(その39)

 「演説」という言葉は現代ではだれでも知っている。これは、英語のspeech(スピーチ)の翻訳であるが、実はそれを最初に行った人物が福沢諭吉であった。
          
 しかも慶応義塾に日本で初めての演説館を建てた。翻訳もさることながら、実際に演説を学習する施設も造ったのである。それが現在も慶応大学三田キャンパスの中に重要文化財として残っている。

 先日(2012年1月8日)、NHKのEテレで『日本人は何を考えてきたのか 第1回日本はどこへゆくのか~福沢諭吉と中江兆民~』にこの演説館が登場していた。外観から内部に至るまで詳細に放映された。外観は洋風なのでおしゃれな感じを与えるが、一歩中に入ると威風堂々といった雰囲気を感じる。演壇が1メートルほどと高く、そこから眼下に200近くの椅子席を一望することができる。壇上に立てばさぞ緊張するだろう。

 さて、前回から「(十四)慶応義塾の沿革(中)」に入っている。前回テーマの授業料から、今回は“演説”を取り上げる。当時の日本にとって、自由民権運動から国会開設に至る時期でもあり、演説は重要なものとなっていた。
 古島一雄は次のように述べる。

 「慶応義塾に到るものは赤煉瓦の講堂と大寄宿舎との間に立てる最古の建築あるを見ん、是ぞ世に名高き三田の演説会堂にして日本に於ける演説会堂の元祖なり」

 当時でも演説会施設の意義は認識されていた。さらに福沢の文章を引用しているので、たどってみよう。

 「明治七年夏の頃塾の教員相会し学術進歩の事を議して謂らく、西洋諸国には『スピーチュ』の法あり(即ち今日の演説なり)。学塾教場の教のみにては未だ以て足れりとす可らず。『スピーチュ』『デベート』の如き学術中最も大切なる部分なれば此法を我国に行はれしめては如何との相談にて衆皆之に同意し何事にても世に普通ならしめんとするには吾より之を始むるに若かず」

 福沢の熱意がひしひしと伝わってくる。  

 「然らば此原語を何と訳して妥当ならん談論、講談、弁説、問答等様々に文字を案じて遂に『スピーチュ』を演説、『デベート』を討論と訳して其方法の大概を一小冊子に綴り社中窮に之を演習したるは明治七年五月より凡半年の間なり」

 いろいろな翻訳の候補が考案されていたことがわかる。ここから演説会堂の開設につながってゆくのであるが、それは次回にゆずることにしよう。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2012-01-28 19:39 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(49) 私立大学評判記(その38)

 今回から「(十四)慶応義塾の沿革(中)」に入る。時は明治26年11月16日、次年の2月8日には日露戦争が始まるわけで、日本とロシアとの緊張が高まっているころでもある。ここでは慶応義塾の「月謝制度の創定と演説会の創始」が紹介されている。今回は、月謝制度を取り上げよう。

 今日では当たり前であるが、学校が授業料を徴収するようになったのは、慶応が初めであった。古島一雄は次の福沢諭吉の文章を引用する。

 「古来日本に於て人に教授する者は所謂(いわゆる)儒者にして此儒者なるものは衣食を其仕(つかまつ)る所の藩主に仰ぐ歟(か)若くは出入の旦那より扶持米を収領し、或は揮毫して潤筆料を取り、或は講筵(こうえん)に出頭して謝物を受ける等極めて曖昧の間に心身を悩まして人の為に道を教へたることなれども今や世界中の時勢は斯る曖昧なるものに非ず教授も亦是れ人の労力なり、労して報酬を取る、何の妨あらんや、断じて奮慣を破て学生より授業料を取るの法を創造す可し」

 江戸時代まで日本の学校では授業料という発想がなかった。近世の教員は上述のようなさまざまな方法や束脩(そくしゅう)という入学金にあたる金品で収入を確保していた。ちなみに「授業料」という言葉は福沢の発明であったという。
 さらに、以下のように続く。

 「束脩の名義甚だ不適当なれば改めて之を入社金と名け其金額を規則に明記して之を納むるに熨斗(のし)水引を要せずとて生徒入社の時には必ず金三円を払はしむることに定めたり。当時世間に例もなきことにして且つ三円の金は甚だ多きに似たれども一は以て軽躁学生の漫(すずろ)に入来するを防ぎ、一は以て塾費に充んとする趣行なりき」

 上記のとおり入学金は3円としたが、授業料は毎月50銭であった。その根拠を次のように決めたと述べている。

 「毎月授業料の高を定むるに当て其標準と為す可きものなし。依て案ずるに当時の教員若干名其一月の食費雑費を概算すれば物価下直の時節一人に凡そ四円にして足る可き金額と塾の諸雑費とを其計して之を学生の数に割付れば一名よも毎月五十銭を収めて過不足なかる可しとて慶応義塾の授業金半円なりと記したるは本塾創立以来明に金を取て人に数ゆるの始めなり」

 毎月の授業料は教員1ヶ月分の食費をもとに計算したことがわかる。年にすると6円となる。明治5年の白米10kgの値段が36銭であったという(『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社)。これを基準に現在の価値に換算すると入学金は約35,000円、授業料は約70,000円となる。

 これは、現代の大学の授業料と比較すると安く感じられる。しかし、当時の学生の中心である士族にとって、藩校は無料であったし、秩禄処分で困窮していたことを考えるとかなりの冒険であっただろう。

 福沢は、このように学費の徴収を始めたため、世間から当初は「不義不徳の商売人」と批判された。しかし、官学も私学も追従し、この時期には定着していた。

 古島は慶応に対し、この授業料を高く設定することで、乱暴な学生を排除できたことは認めるが、金持ちの子弟が行く学校になってしまったと嘆く。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-12-27 14:41 | その他 | Comments(0)

甦る東亜同文会   東亜同文会報告 いよいよ復刻へ

 昨年復刻した東亜同文会の最初の機関誌<東亜時論>の後継雑誌である<東亜同文会報告>がいよいよ復刻の運びとなった。

 http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843337219

 清朝末期の明治33年(1900年)から辛亥革命直前の明治43年(1910年)までの10年強の期間の中国を各地に点在した有名、無名の筆者たちが、生の姿を報告している。

 羯南も、明治34年8月の第21回報告で、東亜同文会での講演が採録されている。(全集未収録)
講演の採録という、いわば羯南の肉声は、新聞日本の愛読者の団体、日本青年会が発行していた雑誌<日本青年>に掲載されている座談を除けば、唯一のものである。

 題して<東亜平和策>ー満洲開放の利ー。

先述したように、この講演の前後、羯南は近衛篤麿と、中国、韓国を視察している。

 日清、日露の両戦争の間、日本は中国の政治的安定の方向性を自らの国家の運命と重ね合わせて考え続けた。今年100年を迎える辛亥革命の裏の立役者の多くは日本人、そして大多数は東亜同文会の会員であった。武漢での革命成功の報を聞いて急遽中国に帰った孫文を、最初に上海で迎えたのは、羯南の盟友、犬養毅であり、古島一雄であった。

 今年も、何とか、12月の青木先生の御命日に間に合った。

たかぎ
 

 
 

  
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by kuga-katsunan | 2011-10-08 21:14 | ニュース | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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