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<羯南と古島一雄>(93) 私立大学評判記(その82)

 前回(2015年12月)から4か月も経ってしまい失礼しました。その前回「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」の最終回で、伊藤欽亮に触れた。われわれにとって彼は、陸羯南から新聞「日本」を譲り受け社長となったにもかかわらず、三宅雪嶺以下、ほとんどの社員を追い出し、その後、新聞「日本」を葬った張本人としか映らない。

 しかし一方で、彼は当記事に登場するように、世間では高く評価される人物であった。彼はいったいどのような人間であったのだろう。少し詳しく調べてみたい。

 明治42年(1909年)に、実業之世界社から発行された『慶応義塾出身名流列伝』(以下『名流列伝』と記載)という本があり、そこでは当時、慶應義塾を出て、実業界はじめ各界で活躍する480名が登場している。ここに伊藤は日本新聞社長として、顔写真入りで2ページにわたって紹介されているのである。この『名流列伝』と、慶応義塾大学准教授の都倉武之氏がWeb版に書かれた「伊藤欽亮の時代」(『時事新報史』)を参考に、以下、伊藤の人物をまとめてみよう。

 まず伊藤の経歴について『名流列伝』では、次のように述べられている。

 「安政4年8月山口県阿武郡萩町に生る。郷里の小学校を卒業するや法律研究の目的を以って東上せり。是れ明治8年にして爾後其研鑚に身を委ね、其後慶応義塾に入る。」

 生年は陸羯南と同じである。上記では、小学校卒業後、明治8年(1875年)に法律研究の目的で上京と簡単にしか記述されていない。しかし、都倉氏によると、まずは海軍士官を夢見て上京し、近藤真琴の攻玉社に学んだとある。近藤は日本の航海術の基礎を築いた人物であり、彼を慕って彼が創設した中等学校である攻玉社へ入学したようである。

 しかし、理由は不明であるが、海軍の夢をあきらめ、明治10年(1877年)6月に慶応義塾へ転じたのである。ちなみに、明治10年6月といえば、西南戦争のまっただ中である。伊藤は当時19歳であった。
 
 慶応義塾では同級生に犬養毅がいた。また、伊藤は在学中、数学の成績が抜群で、毎回満点をとっていたという。もともと論理思考、科学的思考に強かったことがわかる。経営者としては適性があったようだ。

 また、犬養らと「猶興社」という団体を結成し、条約改正問題を盛んに議論し、演説会を行ったとのことである。政治問題に関心が高く、主導的にも行動していたようである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2016-04-30 10:04 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(92) 私立大学評判記(その81)

 「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」も今回で最後となる。
 古島一雄は最終に向けて、このように語る。

 「再び下りて犬養、伊藤、高島、村井時代を見よ。福澤氏は万来舎を塾中に設けて生徒と共に其長広舌を揮うて藩閥政府を攻撃し、犬養等は猶興社を塾中に建てて政治を談論し、尾崎等は幼年寮に在て新聞を発行す。内には演説会堂を設けて公然政治を論議し、外には交詢社を建てて大政党の基礎を作る。」

 犬養とは解説するまでもなく、犬養毅のことであり、ジャーナリストから政治家となり、総理大臣にまで上り詰めるも、五・一五事件で凶弾に倒れた。伊藤は伊藤欽亮のことであり、陸羯南研究にとっては因縁ともいえる人物である。彼は時事新報編集長を経て、日本銀行へ行き、その後、周知のように羯南を継いで、新聞「日本」の社長となった。しかし三宅雪嶺等の有力者が離反し、倒産に至らしめることになる。

 高島は高島小金治のこと。大倉喜八郎のもとで、実業家として活躍した。村井は村井保固のことであり、福澤諭吉の推薦で森村組へ入社した。後に森村市左衛門らと日本陶器(現在ノリタケカンパニーリミテド)の創設にかかわるなど、実業家として活躍、社会事業にも尽くした。

 その当時、慶応義塾では政治活動が最高潮に達していたのである。また、ここから万来舎、猶興社、演説会堂、交詢社の由来がわかる。
そして最後に、古島は次のようにまとめている。

 「慶應義塾は此に至りて全く薩長藩閥に対する政治学校の面目を備え、福澤も亦た一面在野の後藤伯と結び、一面私かに大隈、伊藤、井上に謀り以って其大野心を試みんと欲せしなり。此時に方て彼の教育主義豈に独り常識のみならんや。況んや町人主義をや。況んや又た拝金の思想をや。彼は富に覇気満々たる政治上の大山師たりしなり。」

 後藤は後藤象二郎のことであり、大隈、伊藤、井上はそれぞれ大隈重信、伊藤博文、井上馨であり、説明の必要はないであろう。

 慶応義塾はこの時期、実質的に政治学校であり、福澤も政治への思い入れが強かった。古島はこの事実を見れば、慶応義塾が世間の言っているような常識主義、町人主義、拝金主義にはあたらないというのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-12-26 10:15 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(91) 私立大学評判記(その80)

 今回で「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」も3回目となる。
 前回から時代が下り、町人主義批判への反論を、古島一雄は次のように加える。

 「更に下って牛場時代となり、鎌田、谷井時代となり、豊川時代となり、柏田時代となるや。塾規は漸く整頓し、福澤氏亦矢野等の官途に就くを許すに至り。人生官吏となるの必ずしも罪悪にあらざるを知りと雖も、民間政論の勃興と共に藩閥の官吏たるは隆参の意味に於いて解せられ。」

 牛場とは牛場卓蔵のことであり、時事新報の記者、山陽鉄道総支配人となり、実業家、政治家として活躍した。また、鎌田は鎌田栄吉であり、第4代の塾長である。後に政治家となって文部大臣に就任したこともあった。谷井は谷井保のことだと思われる。紀州藩出身で、鎌田と共に慶応義塾に入学したという記述が見られたが、それ以上のことはよくわからなかった。

 豊川とは、豊川良平のことであり、第百十九銀行(現在の三菱東京UFJ銀行の前身)の頭取、三菱合資会社の支配人を歴任し、実業家、後に政治家として大いに活躍した。柏田は柏田盛文であり、東洋自由新聞の創刊にかかわり、後、政治家、さらに第四高等学校校長となった。
 
 この頃には、福澤諭吉も塾生が官吏の道へ進むことを許していた。しかし、自由民権論が活発になるにしたがって、やはり官吏への就職は、「降参」といわれるほど慶応義塾内では嫌われた。
そして、古島は以下のようにつなげる。

 「ミル、スペンサー、ベンザム、ボックル、ギゾーの著書に養われたる彼等は、講堂に出ては民権の大義を説き、稲葉山の老木に攀じては自由の真理を論じ、慶応義塾は純然たる政治学校として其面目を発揮したるにあらずや。」

 もちろんミル、スペンサー、ベンザムは現在でも哲学者としてよく知られている。また、ボックルは『イギリス文明史』の歴史学者、ギゾーは歴史学者、政治家として当時活躍していた。こうした西欧理論を学んだ学生は、それを活かして大いに政論を戦わせていた。さながら慶応義塾は政治学校であったという

 一方、次のような福澤のエピソードもあった。

 「当時美澤某なるものあり入塾して始めて福澤氏に見るや、氏突如として其族籍を問う。某答ふるに農家の産なるを以ってす。氏手を激して曰く休めよ休めよ帰ってドブロクを造るに如かずと。顧みて傍人に言って曰く『百姓の子は学問しても役に立たぬ理』と。当時福澤は米人某氏の遺伝論を信ぜしなり。此時に当たって彼の塾中果たして一人の町人主義ありし乎。」

 この逸話のように福澤には、この当時、遺伝子論の影響で、農民に対して偏見があった。
 したがって、以上のようなことを鑑みると、古島は慶応義塾が町人主義にはあたらないというのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-11-21 09:01 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(90) 私立大学評判記(その79)

 今回も「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」である。
 古島一雄は世間の慶応義塾に対する素町人主義批判への反論に続き、拝金主義批判への疑問を以下のように呈する。 

 「下って矢野文雄時代となり、更に三田に移って藤田茂吉、箕浦勝人、波多野承五郎等がギゾーの文明史を読み得て始めて卒業者となりし時代を見よ。其先輩たる九鬼、渡邊、肥田の諸輩が官途に就くや、意気地なしの骨頂と罵り、留まって義塾の講師となり、其清貧に安んじたる門野等が、如何に名誉あるものとして尊敬せられたるぞ。」

 明治時代中期、慶應義塾では、卒業し官吏となって金と地位を得るより、母校の講師として収入は少なくも、清く正しくあることが理想とされた。

 ちなみに、矢野文雄は慶應義塾の大阪分校の校長、評議員を務め、後に郵便報知新聞社社長、政治家となった。また、藤田茂吉は郵便報知新聞社主筆となり、その後、立憲改正党の政治家として活躍し、箕浦勝人は郵便報知新聞社社長となり、後に政治家へ転向した。波多野承五郎は時事新報主筆を経て、朝野新聞社長に就任し、その後政治家となっている。

 一方、九鬼隆一、肥田昭作は前回にも紹介したように、当時、官吏として活躍していた。ただ渡邊治は官吏となった様子は確認できなかった。
 そして、古島は次のように続けている。

 「当時慶応義塾を卒業したるものは少なくも百円の月給には有付きしなり。然るに塾中の者皆曰く、願わくば学成って三田の講師たらん已むを得ずんば民間の政治家乎。若し夫の官吏たるは一生の恥辱なりと。此時に方て彼等の塾中果たして一人の拝金主義ありし乎。」

 古島は慶応義塾の卒業生にとって、金に目がくらんで官吏になることは、「一生の恥辱なり」というほどであったという理由で、拝金主義を否定する。

 当時、慶応義塾を卒業したら100円の月給が得られたという。当時の1円は現在でいうと2万円に相当する(ただし、さまざまな換算方法がある。)。ということは月収200万円、相当な高給であるが、さらに官吏となれば、それ以上の高額給与が約束されていた。例えば、奉任官6等で150円(現在の300万円)、5等ともなれば200円(400万円)あった。

 一方、慶應義塾の講師の月給は10円(20万円)から50円(100万円)であった。慶応卒業生の多く者は講師を目指したという。そうでなければ政治家へ、決して官吏になろうとはしなかった。したがって、拝金主義ではないと古島はいうのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-10-28 09:41 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(87) 私立大学評判記(その76)

 今回から「私立大学評判記(二十四)慶応義塾の学風(一)」に入る。
 古島一雄は、慶応義塾の大学・高校・中学校・小学校それら全体に漂う学風をテーマに、15回にわたって分析を続けて行く。学風こそ学校・大学の本質である。古島はそのことを理解していた。15回というこれまでにない回数を重ね慶応義塾の学風が掘り下げられて行くのである。

 古島は当回でまず慶応義塾についての一般的な世間での評価、それもむしろ悪評を取り上げ、その3つの疑問として投げかける。すなわち、慶応義塾が、(1)「拝金宗」、(2)「素町人主義」、(3)「常識教育」であるという疑いである。
 最初に(1)「拝金宗」から古島が述べるところを聞いてみよう。

 「世人は福沢氏を拝金宗の開山上人なりと云う、非乎。世人は慶応義塾を拝金宗の伝道場なりと云う、非乎。三田の市民は彼を見て日本一のシミッツタレと為し、芝の区役所は彼を以って多少インゴウなる親爺と為す。」

 学校経営が困難な点も多く、資金繰りに苦労していたことを考慮しても、痛烈な批判である。福沢諭吉と慶応義塾自体に世間では当時こうした見方があった。
次に、古島は以下のように続ける。

 「若し郷党の言う所、以って多少の信を置くものありとせば彼は確かに拝金宗の本尊なり。高橋義雄は拝金宗なる一書を著し、中上川彦次郎は井上伯の為に令嬢の靴の紐を結ぶ、若し其門下の為す所を見れば彼は確かに拝金宗の伝道者なり。彼の慶応義塾の評議員たる阿部泰造を見よ。ジユウ的人間とし恥ずかしからぬ見本にあらずや。夫の福沢氏が愛重したりし井の角を見よ。又た更に立派なる標本にあらずや。」

 福沢の教えを受けた門下生は“拝金宗”の実践者であり、上記の高橋義雄、中上川彦次郎、阿部泰造、井の角こと井上角五郎は代表的なお手本であるという。ちなみに、高橋義雄は三越の経営者であり、後に茶人として知られた。中上川彦次郎は周知のように三井財閥の中心人物であり、阿部泰造は政府で司法官僚として活躍、井上角五郎は政治家としても事業家としても多才であった。

 古島は最後に次のような疑問を呈する。

 「而して更に其門下の多数が如何に拝金主義を奉じて社会に立ちつつある乎を見れば、彼は確かに其宗旨の伝播に成功したりと云うべきなり。拝金宗の開山上人、是れ果たして彼の志なりし乎。」

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-07-27 07:31 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(86) 私立大学評判記(その75)

 今回も「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」が続く。
 古島一雄は寄宿舎の様子を次のように述べる。

 「掲示場に於いて最も人の目を惹くものは其掲示の文なり。仮令ば『静粛にすべし』と言はずして『静粛を保ち処』と云ふが如く凡て命令的文字を用いずして一に其公共心に訴えんと欲するが如き其用意の太だ周到なるを見る」

 このように古島は上から一方的、強制的にやらせるのではなく、「公共心」を引き出そうとするところを評価する。
 次に、大食堂が自治制度の下で運営されていることを寄宿舎の特色だと述べ、そして消費組合の存在を以下のように関心を寄せる。

 「甚だしきは其筆墨紙、シャツ、靴下の類を売る西洋小物屋的の一小店が消費組合と号せられて寄宿舎の一部に在り。而して此組合が一株五十銭廿五銭の払込より成り、株は其売買を許さるるが如き、稍々滑稽の観あれども同舎の生徒は却て之を以って多大の成功と誇れるが如き偶ま以って三田風の飽くまで三田風なるやを見るに足るべし。」

 上述のように、当時、既に学校生活に必要な物品を販売する売店が寄宿舎内に設置され、消費組合として存在していたことがわかる。これは他の学校にはなかったようで、「三田風」と言うように慶応の特色であった。 
 古島は最後に結論として、次のようにまとめている。

 「之を要するに慶応義塾の寄宿舎は私立学校中多く其此を見ざるるものにして其設備は最も完全なものと云うべく其制度は最も発達したりと云うを得べく、義塾夫れ自身に於いても『慶応義塾より奇食者を取去れば慶応義塾は全然ゼロにして独立自尊の光輝を発揚すべき唯一の武器を失えるものなりと』云えるが如く其自任の大なるを見るべし」

 このように学校における寄宿舎の存在意味の重要性が指摘されている。すでに「慶応義塾の寄宿舎は慶応義塾其物である」との記述も紹介したように、寄宿舎こそが学風の醸成につながり、しいては学校存在のポイントとなる。実はこれは現代でも言えることである。
 古島は寄宿舎の存在という学校の本質を見抜いていた。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-06-26 09:26 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(84) 私立大学評判記(その73)

 前回、学校の存続にとって共同体性が重要であり、その共同体性を支えるためには、学風の醸成と確立がポイントであることを指摘した。そして、学風の醸成・確立にとって、寄宿舎の存在が大きな役割を果たすことにも触れた。

 今回から、慶応義塾大学の「独立自尊」の学風を醸成した寄宿舎を詳しく見てみよう。これでようやく「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」に入る。
 まず、古島一雄は次のように語る。

 「慶応義塾の寄宿舎は長さ六十間を有する三棟の建物より成る。建築は和洋を折衷し設備は全く洋風に倣う。舎を大別して六寮となし一寮各各々十八室より成る。室は三名乃至四名を容るべく、寮に長たる者を寮長と云い、室に長たる者を室長と曰う。皆な学生中の選挙に成る。其寮名を命じて友愛寮、清交寮、自信寮、確守寮と云うものは例の『修身要領』より適当の文字を選びたるものにして寄宿舎を監するものは三名の舎監なり」

 長さが六十間ということは約110メートルである。また、寮生数は全体で約400名となる。ちなみに、「学生生徒の在籍総数は明治30年前後が約1,000名で、33年から毎年2、300名ずつ増加し、38年には2,000名を超えている」(『慶応義塾百年史中巻(前)』)というから、寮生は、普通科や予科を含む全学生のおよそ3分の1から4分の1を占めていた。

 寮長、室長は学生から選挙で選ばれ、教員や外国人教師もいたが、寮生の一人として学生委員の指揮下にあった。当時、既に学生自治が確立していたのである。また、舎監は卒業生が勤めていたようである。なお、上記記事には、4つの寮名しか出てこないが、残りの2つは自立寮、進取寮である。【続く】

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-04-25 10:02 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(83) 私立大学評判記(その72)

 学校の存続にとって、次に重要なことは「共同体性」の確立である。
 それについて教育社会学者の天野郁夫氏が『大学の誕生(下)』(中央公論新社)で指摘しているが、ここではそれを敷衍して展開させていただく。

 「共同体性」とは、教職員・学生・卒業生による連帯感や一体感のことであり、学風に組み込まれている。学校はそれにより、永続的な組織体を維持することができる。

 その「共同体性」を支える要素が3つある。その最大のポイントは、専任の教員集団の存在である。学校の中心となるのは、やはり教員である。教員は言うまでもなく教育の担い手であるとともに、学風醸成の中心でもある。

 これまで触れたように、明治時代、慶応義塾大学・早稲田大学と明治大学等の他大学との評価が分かれたが、その要因は専任教員集団の存在にあった。慶応・早稲田は彼らに給与を支給し、海外留学へ派遣するなど、教員の養成に余念がなかった。したがって、彼らも給与によって生活が安定し、フルタイムで教育・研究に専念することができた。さらに彼らは学生と一緒に寄宿舎で生活し、日常生活が教育の場となっていた。

 一方、他大学の教員は、弁護士業や官吏等の本業を持ち、無給で、しかも夜間という限られた時間しか与えられていなかった。

 現在でも、専任教員集団の存在が共同体性の最大要素であることは言うまでもない。ただ、いかに優秀な専任教員をかかえることができるかが学校存続のカギとなる。さらには、経営や事務業務を担う事務職員も重要となっていることを指摘しておきたい。

 また、2つ目の要素は、長期間にわたるフルタイムの学生の存在である。長期間・フルタイムの学生の存在が、彼らを学校への帰属意識を植えつけ、愛校心を強めていく。さらに、学風醸成の担い手となり、それが学校の個性化へつながっていくのである。

 明治期の慶応義塾大学では、大学課程として5年間、授業時間は午前、午後であった。しかも学生は学校敷地内にある寄宿舎で生活していた。前述<羯南と古島一雄>(80、81)のように、そうした環境の中で「独立自尊」の学風が培われていったのである。

 他大学の学生を見ると、夜間のパートタイム学生が中心であり、しかも寄宿舎はなかった。慶応・早稲田と比較すると、後手に回らざるおえない。

 さて、ここで学風の重要性に触れておこう。学風は連帯感と一体感を生み、共同体性を支える。そして学風は教員と学生との相互作用から醸成される。教員が中心となって引っ張り、学生が担い手となって主体的な活動に表現していく。そして、学風が醸成される場が寄宿舎であった。寄宿舎は学生の自治組織で運営され、教員も学生の作ったルールにしたがって共に生活した。寄宿舎は学生に自律と自立を養う場として、重要な教育機能を担っていたのである。

 ちなみに、現在でも寄宿舎を取り入れている学校がある。国際教養大学は、1年間、全寮制であり、それが英語教育に効果を発揮し卒業生の評価も高い。京都大学では、グローバル人材を養成するための大学院「思修館」を創設したが、そこは全寮制である。世界のリーダーを育成する学校として注目されているインターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢も全寮制である。 

 共同体性を支える3つ目のポイントは、愛校心を持つ卒業生の存在である。明治期、慶応も早稲田も経営の危機に陥ったが、その危機を救ったのが卒業生からの寄付金であった。また、立命館大学では、大正時代に大学昇格問題が起こったとき、卒業生が全国組織を立ち上げ、募金運動を行った。そのことが卒業生の絆を強め、母校への愛校心を再確認させることになった。

 
 ここが企業と異なる点である。現在も卒業生の存在は重要であることに変わりはない。慶応義塾大学は、日本の全大学の中で最も充実した校友会組織を持ち、寄付金や募金につなげている。

 学校存続の本質は、過去も現在も同じである。その基本を外れないで、地道に積み上げて行くことが、学校の永続につながっていくのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-03-30 09:24 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(80) 私立大学評判記(その69)

 「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」に入る前に、今回は『慶応義塾百年史中巻(前)』から、明治36年(1903年)10月刊の『慶応義塾学報』第70号に紹介された「慶応義塾の寄宿舎」を取り上げよう。

 これはその年4月に大学部政治学科を卒業し、普通部教員兼寄宿舎舎監となった板倉卓造が、天耳生というペンネームで記述したものである。当時、慶応義塾の寄宿舎とはどのような意味があったのだろうか。実は、それが学校教育の本質につながるとらえ方なのである。
 まず、次のように始まる。

 「偏狭固陋の教育主義が横行する今の世に、若し私立学校存立の必要がありとすれば、そはこの偏狭固陋の教育主義に対して反旗を翻へすものでなくてはならぬ。是れ即ち私立学校の天職で、またその主たる存立条件である。慶応義塾が五十年来、『独立自尊』を標榜して、新教育主義を鼓吹しつつある所以のものは、即ちこの天職を全うせんが為めである。」

 「偏狭固陋の教育主義」とは、官立学校のように国家に奉仕する人間を養成するための教育を意味すると思われるが、それに対し、私立学校の雄を自負する慶応には、「独立自尊」という個人の自主独立の精神を 学風として培ってきたとする心意気を感じさせる。
 そして、以下のように続く。

 「しかしながら、一言に慶応義塾といへば何人も三田の丘頭に聳ゆる巍たる赤煉瓦の建物を連想するであろうが、慶応義塾の本色は、蓋しこの中央の建物よりも、寧ろ丘の北隅に横臥せる長方形の寄宿舎に存するのである。」
 

 慶応の教育の本質は、授業をする講堂にあるのではなく、生活の場である寄宿舎にあるという。古島一雄も同様な見方をしていた。
 次回はさらに掘り下げられていく。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-12-28 07:38 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(79) 私立大学評判記(その68)

 今回は「私立大学評判記(二十三)慶応義塾の講堂と食堂」の最終回である。
 学生自治による食堂の運営は以下のように行われていた。

 「賄方に於ける十数名の行政官(名ヅケテ炊事委員ト云フ)は凡て寄宿舎生の選挙より成るものにして、之を分かちて仕入係、消費係、器物保管係、会計検査係、食事衛生係の五課と為す。仕入係は米肉野菜薪炭其の他一切の原料の仕入れを司り、消費係は原料の如何に消費されつつあるやを監督す。器物保管係、会計検査係は読んで字の如く。食事衛生係は食物器物食堂の清掃を保持するの責を有す」

 当時すでに学生による選挙という民主的制度が導入されていたことは注目に値する。
 さらに次のように続く。

 「此の五係の下数名の炊夫、ボーイ及び炊事監督人一名、書記二名を雇入れ、炊事監督人は水夫ボーイを監督すると同時に原料の買出し炊事一切の実務を指摘統括し、食事の献立は一週一回炊事委員会の議決に依て行はる」

 このように食堂の運営は学校側による管理ではなく、学生たち自らの手によってみごとに組織化され、経営されていたのであった。当時としては画期的であり、しかも慶応義塾が標榜する「独立自尊」が学風となって表れている。
 古島一雄は以下のように最後をまとめている。

 「是れ自治制度の大要にして、此制度が円満に行はれつつあるは一は塾風に適せるが為めなりと雖も、講堂に在て最も平凡なりし塾風が食堂に於いて著しく其特色を発揮せるは争う可らざる事実たりしなり」

 食堂の運営は明治33年(1900年)に寄宿舎が新築されて一層、整ったようである。その背景には、明治30年前後の学制改革をめぐっての若手教員の革新機運をきっかけに、学生にも活気が伝播し学生の自主的活動が盛んとなった。それは学生の学会やクラブの誕生、学生自治会の結成、野球部の活躍などに表れている。そして、その中心となったのが寄宿舎であった。(『慶応義塾百年史中巻(前)』)  

 次回はその寄宿舎を取り上げよう。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-11-27 09:15 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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