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タグ:丸山幹治 ( 9 ) タグの人気記事

新聞日本と政教社の人びと 丸山真男 その2 

  古島一雄の次に登場するのは

  「もちろん羯南(陸実)も個人的には私は知らない。」

  と羯南の話になる。

羯南は1857年から1907年の生涯。
 
 丸山真男の父、幹治は、1880年から1955年と長命であった。晩年もずっと書き続けた毎日新聞のコラムも長いキャリアを誇った。

 幹治の二男であった真男は1914年から1996年と、父以上の長命であった。羯南が亡くなってから7年後に生まれている。

 真男の座談に出てくる父幹治の家庭での羯南への崇敬の念は前に紹介したが、彼の羯南への見直しのきっかけはやはりこの幹治から始まり、その情熱が羯南全集を生み出した。

  「こういう人たちについては、おやじから話は聞きましたけれど、直接には知らないわけです。」

 若くして亡くなった羯南はともかく、古島は1952年まで87歳の長命をほこったので晩年に会っても不思議はないような気もする。
 幹治がジャーナリストとしての生涯を貫いたのに比して、古島は、日本新聞社以降、万朝報に移り、明治44年衆議院議員となってからは政治家としての人生を送った。

 古島は、真男が戦後書いた<陸羯南  人と思想>、を読んだのであろうか。

古島も同じ時期に、<日本新聞社時代>と題する連載エッセイを雑誌に発表していた。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-05-10 07:34 | 研究 | Comments(0)

如是閑さんと父と私  丸山真男

  てらだ君が東京に帰ってきた。

 かねて懸案であった、丸山幹治のことをもっと調べよう、という話になっている。
息子の丸山真男が父親のことを書いた文章が、もっとないかという話もあり、関係の資料をあたっていったところ、標記の聞き語りが出てきた。

 岩波書店の丸山真男集の16巻に所収されてたが、その解題によれば、昭和59年12月1日に新宿京王プラザホテルで行われたインタビューである。
 もともとの所収は、「長谷川如是閑ー人・時代・思想と著作目録」(中央大学、1985年)であり、インタビューのメンバーは、長谷川如是閑著作目録編集委員会の方々であった。

 丸山には、前にも紹介させて頂いたようにいくつか父、幹治についての発言があったが、これだけまとまって語っている資料は珍しい。

 しかもその内容は

「新聞日本と政教社の人びと」

という章も含んでいる。

「それで、おやじとの関係から、どうしても私の知らない、つまり、私の生まれる前の関係から始めなければならないのですけれども、私が成人してから後になって、ああ、あの人は如是閑とそういう関係だったのか、とはじめて知った人がたくさんいます。」

(丸山真男集  16巻  岩波書店  1996年12月)

以下、丸山真男がどのように、新聞日本の人々を紹介しているか、読んでいきたい。

たかぎ  
 
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by kuga-katsunan | 2009-04-05 06:47 | 研究 | Comments(0)

東京女子大学 丸山真男記念文庫

 丸山真男の蔵書は、東京女子大学の図書館に所蔵されている。

丸山の自宅が東京女子大学に近かった縁から、その蔵書と草稿等は丸山真男記念文庫として図書館に寄贈された。

 図書館の地下の所蔵庫の一角に、文庫が管理されているが、驚くべきは、その所蔵形態が丸山真男の家の本棚に並べられていた順番をまもっていることである。

 蔵書の並び方はその所有者の頭の中の整理の状況を現わしている、ということが、その本棚に入り込むと、あたかも丸山真男の頭の中に入り込んだ様な錯覚に陥る。
 
 試みに、陸羯南の関係の蔵書は、と探してみると、近衛篤磨の関係図書、谷干城の伝記、その近くに三宅雪嶺、福本日南、長谷川如是閑、そして徳富蘇峰の著作が並んでいる。

 父親の丸山幹治の著作も一緒に並んでいるかと思ったが、これらは少し離れたところにあり、丸山の兄弟たちの著作とともに、丸山家の人々の著作のたなの一群のなかにあった。

 陸羯南のオリジナルの著作を探したが、こちらは自らが関わった全集があるだけで、オリジナルの著作は見当たらない。

 実は現在公開されている文庫は全体の一部にすぎない。

「丸山眞男文庫が2005年4月から一部公開されています。今回公開されたのは、故丸山眞男氏から受贈した書籍約18,000冊のうち、約12,000冊です。全て開架に置かれ、自由に閲覧できます。」(東京女子大学  図書館)

 残りの約三分の一がまだ公開されていないのだ。
図書館は<丸山眞男文庫所蔵図書資料類の部分公開について>とする一文を掲げている。


「戦後日本の代表的知識人であった丸山眞男氏が遺された膨大な図書資料類や各種草稿資料類は、1998年9月に丸山家から東京女子大学に寄贈され、翌年春から同大学図書館の丸山眞男文庫室に収蔵されています。図書館では、このうち各種の草稿資料類に関する調査と整理を専門家に委嘱する一方で、氏が遺された図書資料類に関しては、なるべく早期に一般の利用に供することを目指して努力を重ねて参りました。その結果、本年4月8日より部分的な公開が可能となりましたので、お知らせ致します。

 上記の図書資料類に関しては、1999年春の搬入後、図書館員による整理作業が始まり、2001年春には受贈の記録として、仮目録『丸山眞男文庫寄贈図書資料目録』が作られて丸山家に届けられました。関係者にも配布されています。その後さらに丸山家から搬入された書籍類を加えた総計は、和漢書が約一万六千冊、洋書が約二千冊、和・洋雑誌がそれぞれ約千タイトル・百四十タイトルにのぼります。国立情報学研究所の「総合目録データベース」に準拠した目録情報が、図書館のコンピュータ内部に構築されています。

これらの図書資料類には、丸山氏の思想・学問の形成をうかがううえで不可欠の書籍類、氏の豊かな学殖をものがたる一般教養関係の良書、氏と親交のあった作家や学者の作品などが数多く含まれています。また政治学を中心とする社会科学や思想史に関わる内外基本文献の集積という点で、よく纏ったコレクションになっています。さらに近現代日本思想の諸潮流や各時期の主な争点などを概観する上でも有益です。戦後60年を迎えて日本国憲法や教育基本法の改正が問題にされている現在、改めて戦後精神の原点は何であったかを考える上で、戦後民主主義の旗手といわれた氏の蔵書からなるこの図書資料類は大きな意義をもっているといえましょう。

 これらの蔵書中には、丸山氏が書きこみや線引き、折りこみなどを行った書物や、論文執筆時に参照したことの明らかな本などが約五千部あります。これらは丸山研究にとって貴重な資料的価値をもっていますが、一般に公開するには、専門家による事前の十分な調査と手当てが必要です。長い年月の間には、どれが丸山氏自身によるものであるかが不明確になる惧れがあるからです。また貴重書については、原本の劣化を避けるためにデジタル資料による供用が考えられますが、その選定のためにも調査が必要です。さらに手沢本の目録作りが計画されており、そこには個々の図書に対する書きこみや傍線の頻度などに関する情報も付される予定です。以上のような諸事情から、丸山文庫の蔵書全体を公開するには、なおしばらくの時間が必要となります。この点について皆さまのご理解をお願いする次第です。」

 丸山真男は、本に書き込みをすることで有名であった。

彼がどのように思索をまとめていったかは、それ自体が知識社会学的にも非常に面白いテーマだが、やはり陸羯南の著作もまだこの公開されていない蔵書の中に埋もれているのだろうか。

たかぎ



 
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by kuga-katsunan | 2008-01-27 21:20 | トピックス | Comments(0)

蒼海先生のこと

  蒼海先生の書をみた。

 蒼海先生、即ち副島種臣。江藤新平、大隈重信らと並んで、幕末佐賀の七賢、彼の兄である枝吉神陽を入れて八賢という人もいる、の一人である。明治になって清国への特命全権大使として赴き日清修好条約の締結などに活躍したが、征韓論の一件で西郷らとともに下野した。

 丸山幹治は、昭和初期に<日本及日本人>などに副島の伝記を連載し、11年になって<副島種臣伯>(大日社、昭和11年2月)として出版した。伝記と逸話を集めた形になっているが、実はこの書が初めての副島の伝記であったという。中に、<先生の金銭観>というのがある。

 「先生は口癖のように、<金なんか持って威張るのは馬鹿だ。太古は貝を貨幣とした。丁度貝を集めて威張ってるのと同様だ>」

たしかに極めて金銭には無頓着であったようで、貧乏暮らしを心配した明治天皇が下賜金を送ったという逸話も残っている。

 彼の書は、その無頓着な性格がそのまま表れているような作品ばかりで、まさに天衣無縫の観がある。かって有島生馬がもっていたという書も、この作品を古道具屋で見た、どうしても欲しくなり取りつかれてしまった、というのも頷ける。



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  書の件は、羯南の書をまとめてくれているささはら君にお願いするとして、蒼海先生は漢詩人としても有名であったようだ。
  国分青厓が三条実美に招かれて日光の別荘でつくった<風雨観華厳瀑布歌>が新聞日本に掲載されると、蒼海先生はこれを大いに賞し、次韻の一篇を作ったという。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-06-26 20:50 | トピックス | Comments(0)

政教社社主 藁村 井上亀六

 井上亀六は、丸山真男の叔父にあたる。
丸山の父である幹治が、亀六の異父妹であるセイと結婚し、丸山はその次男として生まれたのだ。丸山幹治と井上亀六は、新聞日本で机を並べて記者として働いていた。

 羯南が新聞日本を売却し、その後の編集方針の食い違いで主要な記者が一斉に退社したあと、政教社が出版していた雑誌<日本人>は、新聞日本の人々が合流し、明治40年1月から<日本及日本人>として再出発した。

 面白いことにその再出発当時、井上亀六は、その号である藁村を使って、<露国文芸家列伝>という連載をしている。当時著名であったロシアの作家たちを毎号10名ほど、連載六回で60名近くの作家たちが肖像画入りで紹介されている。個人的には非常に興味のある名前が並んでいるが、同時代とはいえこれだけの紹介は、なにか元本があったのだろうか。

 井上は、結果的に政教社の社主となって、苦労を重ねることになるのだが、その主たる原因は三宅雪嶺、むしろその夫人・花圃女史龍子にあった、とする向きがあるが、事実はどうであったか。同人たちからは<仏様のような性格>と言われたともある。雑誌の赤字を、羯南、子規、そして愚庵こと天田五郎などの全集でうめようとした、との見方もある。
 資料を探したい。

たかぎ
 

 

 
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by kuga-katsunan | 2007-05-17 23:34 | トピックス | Comments(0)

侃堂丸山幹治

 丸山幹治のことである。
 今となっては、息子の丸山真男(丸山三兄弟の一人)が有名になってしまったが、その父君丸山幹治は、明治から昭和の戦後に至るまで長い期間にわたって新聞の第一線で活躍したジャーナリストである。

 幹治は、明治13年長野の出身、明治34年に東京専門学校卒業、新聞日本に就職した。そのいきさつを本人が書いている。

 <新聞記者生活にはいって五十二年になる。その前半の二十五年間は「日本」「朝日」「大正日日」「読売」「京城日報」など八社を転々とし、反対に、昭和三年「大阪毎日」に入社してからというものは、「硯滴」「余録」だけに生きた。

 私には、とにかく新聞運があったのである。「日本」に入社する時も、知人の紹介で社長陸羯南(実)翁を訪ね、面談しただけであった。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業した明治三十四年、二十二才秋のことである。>

(丸山幹治  余録二十五年  毎日新聞社 昭和29年)

 本人の弁によれば、羯南社長の面談だけで入社したようだ。ただ好事魔多しというか、

<早速、見習として校正をしていたが、二ヵ月目に社説の副題に誤植を残したまま通してしまった。「爾今、出社に及ばず」という書留郵便を受取ったのはその翌朝であった。>

 入るのも簡単であったが、首になるのも早かったようである。

<これには私も途方にくれたが、知人の紹介を受け、青森で創刊する新聞の主筆になった。しかし、着任してみると、青森には伝統のある新聞がいくつもあり、悪戦苦闘半年ののちにはついに没落してしまった。二十三才の青年主筆はまた浪人となったが、青森の商業会議所書記長という、名前だけ御大層な役目について一年ほどお茶を濁していた。>

その後、青森の新聞の主筆になったようだが、このあたりは若き日の羯南に似ている。なれない土地で苦労していたようだが、その不遇の幹治にとって神風となったのが日露戦争であった。

 <私個人にとって幸いであったのは、日露戦争の勃発であった。早速帰京すると戦争で人手不足の「日本」に復社した。>

 人手不足であれ一度馘首した社員をまた雇用するというのは、明治の大らかさというか、社員の不祥事の対応に追われる現代の新聞社から見れば夢のような話であろう。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-03-25 08:22 | 研究 | Comments(0)

丸山真男と羯南  その四

 丸山真男は、前述の回顧談の中で、植手通有との対談<明治維新史とナショナリズム>の項、羯南の影響について述べている。

 <学生時代でいえば、ほかにも親父(丸山幹治)との関係で、陸羯南。
   「羯南文録」が家にあった。
とくに、広田弘毅内閣が、自由主義排撃を政綱に入れたとき(1936年3月)、親父が羯南の「自由主義如何」について書いて、ぼくにも、大したものだ、あの当時に西欧の自由主義をよく理解していると言ったんです。>
(丸山真男回顧談 下 岩波書店 2006年10月)

 「羯南文録」は、1938年の出版なので、丸山幹治は1936年のコラムを書く際には参照できない。羯南の没後まもなく明治43年に出版された「羯南文集」にはこの論文は掲載されていない。
初出は、新聞日本に明治23年に掲載された連作の社説であったので、そのスクラップをとっていたのか、もしくは新聞日本がシリーズで出版していた「日本叢書」の中に収録されていたのかもしれない。

 丸山幹治は、1936年当時は、大阪毎日のコラム「硯滴」から、東京日日に転勤になり、それまで政界ゴシップ中心であったコラムの「余録」を一般的な時評に転換しようとしていた時期であった。
当時の「余録」をひもとけば、羯南の論文についての批評が展開されているのだろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-03-23 23:23 | 研究 | Comments(1)

丸山真男と羯南  その三

丸山真男が直接父親である丸山幹治の羯南評をひいている部分がある。

<親父は羯南の弟子ですから
「羯南は大したものだ。羯南は決して自由主義を全面否定していない」
と言ってました。>

丸山真男は羯南の<自由主義如何>を読んで、<ナショナリズムの立場から、自由主義をある意味で強く肯定しながら、その限界を指摘している。>と評しています。

丸山幹治は<明らかに親米派>。

このタイミングの<親米派>の<自由主義>の側からも、自分たちの対極にいると意識されており、しかし単純な対極ではなく、一括否定の形ではない、限界指摘の立場、と読んでいたようである。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2006-12-30 07:02 | 研究 | Comments(0)

丸山真男と羯南  その一

丸山真男が戦後すぐのタイミングで羯南の再評価をしたことはよく知られている。
同時代ですら陸羯南研究の題を見て、中国思想の研究と思われた、というのは皮肉にも聞こえるが、彼の回顧談が出版された。

何故、丸山真男が羯南に取り組んだかは、やはり彼の父、丸山幹治が新聞日本の記者だった影響が大きいのであろう。

回顧談の中の羯南像を見てみたい。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2006-12-26 23:55 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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