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<羯南と古島一雄>(92) 私立大学評判記(その81)

 「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」も今回で最後となる。
 古島一雄は最終に向けて、このように語る。

 「再び下りて犬養、伊藤、高島、村井時代を見よ。福澤氏は万来舎を塾中に設けて生徒と共に其長広舌を揮うて藩閥政府を攻撃し、犬養等は猶興社を塾中に建てて政治を談論し、尾崎等は幼年寮に在て新聞を発行す。内には演説会堂を設けて公然政治を論議し、外には交詢社を建てて大政党の基礎を作る。」

 犬養とは解説するまでもなく、犬養毅のことであり、ジャーナリストから政治家となり、総理大臣にまで上り詰めるも、五・一五事件で凶弾に倒れた。伊藤は伊藤欽亮のことであり、陸羯南研究にとっては因縁ともいえる人物である。彼は時事新報編集長を経て、日本銀行へ行き、その後、周知のように羯南を継いで、新聞「日本」の社長となった。しかし三宅雪嶺等の有力者が離反し、倒産に至らしめることになる。

 高島は高島小金治のこと。大倉喜八郎のもとで、実業家として活躍した。村井は村井保固のことであり、福澤諭吉の推薦で森村組へ入社した。後に森村市左衛門らと日本陶器(現在ノリタケカンパニーリミテド)の創設にかかわるなど、実業家として活躍、社会事業にも尽くした。

 その当時、慶応義塾では政治活動が最高潮に達していたのである。また、ここから万来舎、猶興社、演説会堂、交詢社の由来がわかる。
そして最後に、古島は次のようにまとめている。

 「慶應義塾は此に至りて全く薩長藩閥に対する政治学校の面目を備え、福澤も亦た一面在野の後藤伯と結び、一面私かに大隈、伊藤、井上に謀り以って其大野心を試みんと欲せしなり。此時に方て彼の教育主義豈に独り常識のみならんや。況んや町人主義をや。況んや又た拝金の思想をや。彼は富に覇気満々たる政治上の大山師たりしなり。」

 後藤は後藤象二郎のことであり、大隈、伊藤、井上はそれぞれ大隈重信、伊藤博文、井上馨であり、説明の必要はないであろう。

 慶応義塾はこの時期、実質的に政治学校であり、福澤も政治への思い入れが強かった。古島はこの事実を見れば、慶応義塾が世間の言っているような常識主義、町人主義、拝金主義にはあたらないというのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-12-26 10:15 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで②

 閔妃暗殺の首謀者で駐韓公使の三浦梧楼と陸羯南の関係についてみてみたい。

 三浦梧楼(1847-1926年)は、長州出身ながら藩閥政治に反対の立場をとった政治家である(西南戦争で城山を陥落させた元軍人、最終階級は陸軍中将、学習院院長、枢密院顧問官等を歴任)。

 有山輝雄(2007)「陸羯南」吉川弘文館,pp.92-95によれば、陸羯南は、『東京電報』(新聞『日本』の前身)入社の経緯について、(領事裁判権を残すような)条約改正交渉への反対運動などで「浪人仲間に入らんとの念」を抱いたという。

 浪人仲間とは「不平将軍」と呼ばれていた陸軍フランス派の谷干城、三浦梧楼らのグループと若手知識人の杉浦重剛、高橋健三、宮崎道正ら乾坤社同盟のことである。

 乾坤社、不平将軍、実業者は『東京電報』のパトロン(資金提供者)であり、一方彼等は自分達の機関紙を求めていたという。

 また、春原昭彦(2001)「陸羯南」『日本の新聞人⑩』日本新聞博物館,11号によれば、「この新聞には条約改正問題をめぐり、政府の欧化政策に反対する三宅雪嶺、志賀重昴、杉浦重剛、三浦梧楼、谷干城らの支援があったが、その立場は単なる西洋排撃ではなく、日本の主体性を保持しつつ欧州の文明を取り入れるべきだとするもので、陸は"国民旨義”と言っている」とある。

経営学的にいえば、経営者(陸羯南)と株主(三浦梧楼、谷干城ら)の関係といえよう。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-13 03:13 | その他 | Comments(0)

中野目徹著『明治の青年とナショナリズム』について

 最近、筑波大学教授の中野目徹氏が書かれた『明治の青年とナショナリズム-政教社・日本新聞社の群像-』が吉川弘文館から出版された。陸羯南研究の近年の動きがよくわかるし、三宅雪嶺を始めとする羯南を取り巻く人々も取り上げられていて、当陸羯南研究にとっては必読の書である。

 本書の第4章に「陸羯南研究の動向-史料整理の報告を兼ねて-」、付論1には「ナショナリズムの語り方-二冊の『陸羯南』をめぐって」と構成されている。

 第4章は平成22年(2010年)8月7日の陸羯南会での講演録であり、そこには高木主筆も出席されていた。また、付論1は有山輝雄著『陸羯南』、松田宏一郎著『陸羯南』についての書評である。
 なお、大阪商業大学の長妻三佐雄教授が本書の書評を書かれる予定である。

  いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-09-27 09:18 | ニュース | Comments(0)

ウェブスターの辞書、再び

  日本新聞社の印刷部門であった成章堂については前々から気になっていた。
以前、復刻した分県地図も成章堂の印刷であったし、近衛篤麿の北海道視察に記録である、北海道私見も同様である
  新聞日本の愛読者団体であった、日本青年会の会誌<日本青年>の裏表紙には、<浜ちどり>という小説が、やはりこの印刷所兼出版社から出ている。
  国会図書館のデータベースでは、明治33年から明治42年にかけて、この同じ名前の成章堂から出版の本が11冊所蔵されている。すべて同じ成章堂かは、精査の必要があるが、日本新聞社関係以外にも多様な出版を手掛けていたようだ。
  前にも書いたが、三宅雪嶺を囲んで古島一雄、長谷川如是閑らが、新聞日本のことを回想している座談会の資料がある。(、<日本評論>昭和10年11月号)
  そこに、日本新聞社の成章堂の事業で、ウェブスターの辞書を出したことが語られている。
ふとした偶然から、この辞書を入手した。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2013-12-22 03:51 | トピックス | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(40) 私立大学評判記(その29)

 今回は、「(十一)三田の福沢と早稲田の大隈」の後半である。
 
 前回、古島一雄は、福沢諭吉と大隈重信の類似性を批判的に取り上げた。そして、新聞『日本』の同僚とでもいっていい三宅雪嶺が、以前そのことを指摘しているとして以下のように紹介する。

 「骨格の逞ましく、相応の腕力ある所相似たり。理会早き所相似たり。貨殖に巧みなる所相似たり。徒らに金銭を貯蓄せず、能く事業に活用する所相似たり。進んで時勢に順応し、順応すると雖も屈従に甘んぜざる所相似たり。活社会に処し、活社会を動かす所相似たり。」

 さらに次のように続く。

 「学校を設立し、子弟を教育する所相似たり。新聞を使用し、意見を発表する所相似たり。多く部下を有し、其部下が不平を抱きつつ服従する所相似たり。部下の弊短よりして誤解を被る所相似たり。事に当たりて屈せず撓まず、痩我慢を分とし、痩我慢を得る処相似たり。」

 以上のように、三宅も福沢と大隈の類似性を否定的に解説する。しかし、最後に古島は、一転、彼らを評価する。

 「殊に二人者の意地強き、悪く言へば片意地なるものあり。」と始め、まず大隈について以下のように述べる。

 「(明治)二十二年、大隈伯が時の外務大臣として条約改正を断行せんとするや、国論鼎沸、内外敵を受く。烈士の一弾、霞関に爆発し事、中道にして敗れたりと雖も、其能く毅然として大勢に抗したりしは、当時吾人は、敵ながらも其意気地の壮なるに感じたりき。」

 次に福沢について、以下のエピソードを取り上げる。

 「福沢氏の嘗て演説に臨み、其プログラムに、大臣には閣下と書し、福沢氏には只だ『君』と書したるを見、学者の面目に関すると為し、憤然として其会を辞したりしが如き、稍児戯に類するの観ありと雖も、又た其意気地の愛すべきものを存するにあらずや。」

 そして、古島は両者を次のように評してまとめる。

 「而して此の意気地と、彼等の傲慢心とは、福沢氏をして慶応義塾を興して封建の思想と闘はしめ、大隈伯をして専門学校を興して官学に抗せしめたり。大隈伯が学問の独立を唱へ、福沢氏が独立自尊を叫びたるも、皆此の意気地と傲慢心の色彩せられたるものにして、二大学の今日あるは又た此の意気地の賜たるを知らば、二人者の傲慢癖と意気地の功も亦た偉ならずや。」

 意気地と傲慢心を逆手にとって、ほめあげるのは古島の芸当である。また、一方的でないものの見方も彼の面目躍如たるところである。

 ちなみに、実際この二人は盟友であった。大隈は尾崎行雄や犬養毅等の慶応の卒業生を、まだ海のものとも山のものともわからなかったが、当時、自分が監督していた政府機関に登用した。

 また、福沢は大隈が東京専門学校(早稲田大学の前身)を設立するとき、慶応の人材を送り込み、その開校式に出席し祝辞を読んだ。当時、明治十四年の政変で下野した大隈は、藩閥政府から西郷隆盛の私学校のようになることを恐れられ出席することを阻まれたのであった。

 両者は互いの家を訪問しあう仲でもあったという。両雄並び立たずといわれるが、強烈な個性の持ち主である二人が親友とは意外であった。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-03-26 11:17 | その他 | Comments(0)

幻の陸羯南書簡集

  先日、神保町の中野書店さんから目録が届いた。

順番に見ていくうちに飛び起きた。

羯南から三宅雪嶺への書簡が出品されていた。

あわてて全集をめくってみたが、明治25年9月13日から明治29年2月1日までのこの9通の書簡は、ちょうど抜け落ちた部分であった。

写真も掲載されていたのだが、この9通が一巻の巻物になっている。

題に<陸実君>とだけ書いた巻物に手紙がはりつけられている。

封筒も一緒にはられおり、日本新聞社の定型封筒に陸実の名前が墨書されている。

雪嶺の住所は、牛込、麹町と転居している。麹町は雪嶺の妻花圃の縁であったか。

仕事帰りであったので夜分だったが、いつもお世話になっている三宅雪嶺を研究されている先生にお電話をさしあげた。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-02-21 08:49 | ニュース | Comments(0)

組織人としての千葉亀雄~読売時代を中心に~

千葉亀雄(1867~1935)は戦前を代表する新聞人の一人であろう。

同時に文芸評論家としても一家をなした。川端康成、横光利一らの作風に「新感覚派」の呼称を与えたのも千葉である。

文芸評論家として成功しながら、一方で彼は、ジャーナリスト、それも、新聞人であり続けた。新聞人とは必然的に、新聞社という組織に属す、組織人である。本稿では、その組織人としての千葉亀雄のスタンスを見ることにしたい。

ところで、千葉が新聞人として活躍した戦前の時代は、野口悠紀夫・早大教授が言うように、戦後日本と異なり、経済システム全体に英米的な色彩がつよく、会社組織も戦後日本のような「共同体」ではなく、むき出しの機能集団であり、転職率もとても高かった(「1940年体制」)。
こうした英米的な組織について、千葉亀雄はジャーリズムにとってよい体制だと考えていなかった。

彼自身の行動をみても、特に読売時代には、組織のスタビライザー(安定役)として動いた事実もある。千葉は、安定、助け合い、協調などの価値を内包する組織が、ジャーナリズムにとって必要だと考え、実際にそういう立場で組織人として振る舞ったと言える。

本題に入る前に、まず千葉の経歴を見てみよう。

千葉は、漢文教師である父の任地、山形県酒田市に生まれる。1899年(明治三十二年)、21歳の時に、雑誌「文庫」の記者となったのがジャーナリズムへの入り口だった。1903年(明治三十六年)に三宅雪嶺の主催する雑誌「日本人」の記者、1905年(明治三十八年)に陸羯南の新聞「日本」の記者となる。

 その後の経歴を列記すると以下のようになる。

 国民新聞・社会部長(不明)
 時事新報社・社会部長(1916年10月~1919年8月)
 読売新聞・社会部長を経て、編集局長(1919年9月~1926年2月)

 つまり新聞社の幹部、管理職として務めていた時期が長いのである。

ひがし
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by kuga-katsunan | 2008-11-25 22:37 | 研究 | Comments(0)

羯南と雪嶺  その故郷

名山 名士を出す
 此の語 久しく相伝ふ
 試みに問う 厳城の下
 誰人か 天下の賢なるぞ
       
          羯南
 
 「名山の見える土地はすばらしい士を出すが、弘前からどんな天下の賢者がでたろうか」。ふるさとへの愛惜の念がにじむこの詩を読むと、羯南の日々の心象風景に常に山があったことが想像できる。
   ×    ×    ×
 金沢は思いのほか山が近い。天気がよいと、白山の峰がくっきりと空に浮かぶ。白山を源流とする手取川などの水系は大地にしみわたって土地を潤し、野菜をはぐくみ、うまい酒を生む。人々は、無意識のうちに白山を意識して暮らしていることに気付く。

 金沢出身の三宅雪嶺も、その幼少時代、朝に夕に白山をのぞみながら日々をおくった。
 「日本人はたいていふるさとの山を持っている」(深田久弥)なら、羯南と雪嶺もまた、ともにふるさとの山を胸に抱いていた。

 ところで、先に、雪嶺の研究者が地元にあまりいないことを指摘した。
 その理由のひとつに、比較的若い時期に、雪嶺が金沢を離れたことが、あるいはあるかもしれない。が、雪嶺の逸話にはふるさとへの思いの強さをうかがわせるエピソードも多い。

 例えば、兼六園の冬の風物詩として知られる「雪つり」を懐かしみ、東京では雪が降らないにもかかわらず好んで家の庭に雪つりをさせていたこと、冬には必ず石川県の味覚である「かぶら寿司」を妻に作らせては賞味していたこと、どちらかというと人には会いたがらない傾向があったが、「金沢から来た」という人には、喜んであったこと、さらには、金沢を訪れると必ず生家跡を訪れ、老松の下で昔をしのんだこと、などである。

 石川県を地盤とする地元の北国新聞にも、「愛郷心と愛県心」「大金沢人と大名古屋人」「北国新聞の任務」など数多くの記事を寄稿した。また、講演もよく行い、北陸人の優秀性を褒め、県民に積極的な生き方を説いたという。

 北国新聞が1934年(昭和9年)に15000号発刊記念として金沢で開いた講演会では「北国人の再検討」と題して雄弁を振るい、地元の人を激励している。

こなか
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by kuga-katsunan | 2007-10-15 20:04 | 紀行 | Comments(0)

羯南と雪嶺

 羯南の盟友、三宅雪嶺の故郷、金沢支部のこなか君からのコラムです。

 日本における近代ジャーナリズムの先駆者、陸羯南(くが・かつなん)生誕から今年で150年、没後100年になる。「多いというほどの研究者をその故郷に持っていない」(司馬遼太郎)とされてきたが、出身地の青森県弘前市では今月2日の命日を中心に多くの記念行事や事業が行われ関心を集めた。

 羯南は、明治22年に新聞「日本」を創刊。発行停止処分を何度も受けながら屈せず活動し、「明治時代きっての偉材の一人」(同)といわれる。また、そこに集った言論人たちが活動の場を広げ、日本のジャーナリズムの基礎を築いたという意味での評価も高い。

 金沢出身の三宅雪嶺もその中の一人だ。雪嶺は雑誌「日本人」などで日本人が世界にどう寄与すべきか訴え、「日本」でも論説などを執筆した。後には同紙を引き継ぎ、雑誌「日本及び日本人」を創刊している。金沢ふるさと偉人館を訪ねると横顔などが分かる。

 ただ、雪嶺も「地元では研究者は多くなく、研究も十分とはいえない」(関係者)という。一因は雪嶺にまつわる「ナショナリズム」の響きゆえとも聞く。

 しかし、ナショナリズムといっても当時のいわば健全なそれでもある。最近は「改めて光を当てる意義」を強調する声も強い。

 折しも偉人館は今春から「日本及び日本人」執筆者ら関係者をリスト化、人脈から雪嶺を浮き彫りにする試みをスタートさせた。

 3年後は雪嶺生誕からも150年。雪嶺研究に、地元ならではの一石を期待したい。

こなか
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by kuga-katsunan | 2007-09-26 23:25 | トピックス | Comments(0)

谷干城遺稿より(書簡ー2)

 引き続き 、「谷干城遺稿 三」〈書簡部分)および「陸羯南全集第10巻」より拾い読みを続ける(解説は有山輝雄著「陸羯南」、他による)。

  明治29年9月26日(谷干城⇒陸羯南宛書簡)
 「・・・伊藤〈内閣)が八方美人的に引受たる戦後経営之不始末と板垣が無学無識之内務方針は如何之愧態を呈する・・・大隈(外相)も入閣(松隈内閣)に成り候様子・・・大隈は軍備を少縮せずとの意見にて・・・軍人等の激昂を恐れ彼が一時の姑息策にて野夫は決而同表する不能と相考候。・・・一時の椅子に恋々として増税又は外債等を為さば、敗北の上に後世へ汚名を残すこと必然と被存候。新政府が本会議に人望を博すべきは軍備不動に非ず左の件にあり。
一 新聞条例改正(発行停止を廃する)
一 集会政社法改正
その他自由党等の従来唱へ来たりしものにして・・・一切断然と決行し・・真正の立憲政体主とするものなる事知ら令めれば必ず勝算を得ん。・・・増税は第一の禁物・・・軍人を恐れて政治の施行敏捷なら令むる能はざるは、唐の藩鎮の兵の如く、東ローマの末世の如く、君ありて君の実なく、是亡国の徴なり。・・・」

 上記のように、谷も、「三国干渉」⇒「臥薪嘗胆」*⇒「軍備拡張」や地租増徴に反対であったようだが、陸羯南も共同歩調を取った。但し、陸羯南は、ただ反対キャンペーンを展開しただけでなく、賛成論者にも紙面を提供し、新聞「日本」を論争の場にした。陸羯南にとって、「二つの対立的意見の『均衡』の喪失」こそが、最悪の病理現象であったようだ。

  *この言葉は、新聞「日本」紙上で三宅雪嶺が最初に使ったが、雪嶺は
   ロシアへの敵愾心を煽る意味では使っていない、と有山先生は述べ
   ている。

                                しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-08-29 01:09 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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