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<羯南と古島一雄>(62) 私立大学評判記(その51)

 この「(十八)慶応義塾大学部(三)」も今回で終わる。
 古島一雄は慶応義塾の英国批判の最後として、英国崇拝の原因を以下のように転載している。   

 「一、英国の強大なるに眩目せると 二、英人の生活の程度高きに続けると 三、英人が紳士として垢抜せるを欽慕せると 四、日本人は多く英語を学ぶも独逸等の語を知らず故に常に英書を読み英人等の手前味味噌を有り難く拝読して其思想に全然威化せられたると 五、日本の漫遊者流は多少の言語通ずるの故を以て英国に比較的永く滞在するも他の欧州大陸に至れば盲唖の夜遁同然にて素通りをなすに過ぎざるが為めに更らに其事情を解せざると」

 そして、古島はそうした慶応の学風が英米風からドイツ風へ変貌していることについて、次のように批判する。

 「吾人は留学生の多数が独逸修行なりしを知る、従て其独逸的威化を受けたるの大なる彼等が俄かに英国崇拝より一転して独逸崇拝に移りたるを見るとは言へ、先生の墓木未だ拱せざるに三田の特色たりし常識一点張りの教育主義が、早くも学者的教育に傾かんとする至ては驚くべき変化にあらずや」

 古島は福沢諭吉が植え付けた慶応の人格陶冶となる常識を重視する“教育主義”が、机上の空論に陥る危険性のある“学者的教育”に席巻されそうだと警鐘をならすのである。
 さらに、彼は以下のようにも語っている。

 「殊に其一旦早稲田に奪れて廃滅に帰せし文学科を再興して文部省特典の下に教員養成に従事せんと欲するが如き、慶応義塾の本質が既に幾多の変化を現しつつあるを見るべきなり」

 明治政府と一線を画していたはずの慶応であったが、文学科を再度設置する際に教員免許が得られる特典のある文部省の政策に便乗する態度を見て、彼は“独立自尊”の精神はどうしたのかと憂い、既に慶応の本質は変わりつつあると指摘するのである。

 このように慶応は時代の流れに敏であった。実はこれは今も変わらないのではないか。湘南藤沢キャンパスでの総合政策学部等の新学部の設置、また他大学に先駆けて導入したAO入試等と、時代潮流に鋭敏な慶応のDNAは現在も生き続けているのである。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2013-01-26 15:21 | その他 | Comments(0)

羯南の年賀状

  たまたま羯南の年賀状について書いていらっしゃるブログをみつけた。

  <切手と文学>というブログである。

http://ikezawa.at.webry.info/201002/article_1.html

   2010年2月に書かれたブログには、明治30年に羯南が稲垣満次郎に出した年賀状が、裏表ともに写真入りで紹介されている。

   新春之御慶芽出度申納候 

   明治三十年一月一日

        陸 實

  と印刷された年賀状。

  以前、羯南が、松永聴剣に出したはがきを何枚か拝見したことがあったが、表に書かれた陸實のサインはまさしく羯南のもの。

  是非一度実物を見たいものです。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2013-01-23 21:31 | ニュース | Comments(0)

羯南の中国行 2

 研究会では、まず最初の海外の旅をたどろうと昨年、沈陽、大連、旅順をまわった。
今年は弘前の陸羯南会の舘田会長をお誘いして旅程の最初の部分である天津、北京、そして万里の長城の出発点であり、中国の東北部から華北地域に入る入口である山海関をまわった。
 羯南は近衛篤麿に中国朝鮮への旅に誘われたときには参加を即断したわけではなかったようだ。篤麿の残した日記によれば、二度羯南を誘っている。
 羯南にとっては、自分の日本新聞社の経営状態もおもわしくなく、その資金繰りに頭を悩ませていた時期である。
 篤麿と共に明治三十一年に始めた日中関係の団体である東亜同文会の機関誌「東亜同文会報告」には、この旅の直前に行われたと思われる羯南の中国についての講演が採録されている。

   
  「東亜の平和」    附^満州開放の利益

と題された講演で羯南が説いているのは、日清戦争を機に南下して中国の東北地域に駐留してしまったロシアに対して、いかにして中国、朝鮮、そしてその先にある島国の日本の平和を守るかであり、老大国である清国を活かし、保全をして、北東アジアの安全保障を実現するかに主眼が置かれていた。      たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2013-01-20 07:30 | 紀行 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(61) 私立大学評判記(その50)

 「(十八)慶応義塾大学部(三)」が続く。
 前回の後半で触れたように慶応義塾は法律部の改革を進めるにしたがって、従来の学風である英米学問を批判し、ドイツ学問を重視する態度を表明するのであった。
 古島一雄はそれについて次のように述べている。

 「講師青木氏の如きは其学報に於て公然英国崇拝の非を論じ、英国の制度を評して支離滅裂なりと罵り、英人は学問を尊ぶの気風なしと曰い、盛んに独逸制度の完美を嘆称し、我国の攻学気風が独逸的となりたるを喜ぶと同時に従来英国崇拝の気風が動もすれば此の攻学気風に一頓挫を来たさんとするを憂い、慶応義塾に於いては特に独逸流儀の研究を必要とすと断じ、暗に門野氏を目して英国崇拝の腐儒と為せり」

 古島はさらに加えて、「試みに其議論の一部を録せん乎」とし、学報に掲載された文章を長々と当記事の半分を占めるほどに引用している。その一部を見るてみよう。

 「攻学気風を見るに、独逸は国勢尚幼稚なるが故に社会万般に鋭進せんとせるが中にも、学術研究の気風の熾んなる。世界英国無比と称するも過言に非ず。而して其の効験の著しきことは社会上のみならず、商工業の上にも航海造船の上にも均しく現われ最近三十年の独逸の進歩は深く其根底を学理の研究に発したること疑を容る可らず」

 「彼の応用化学の如きは実に他国の及ばざる発達を為せるが故に、工業上に直接の利益を生ぜしが如きは其の一例にして、流石の負惜み強きお国自慢の英人にても斯は捨置難しとて伯林(筆者注:ベルリン)の工部大学校に続々入学を申込む者ある程なり」
  
 「英国は、由来実務の才能に誇り、学問を軽んずるの国にして、酷評すれば英国には学問と称すべきもの無しと云うも可なり」
 
 さらに英国批判が続くのであるが、古島はそうした慶応義塾の状況をどのように見たのであろうか。次回、それを紹介しよう。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2012-12-26 11:00 | その他 | Comments(0)

稲葉克夫先生に東奥賞

  以下、12月9日の東奥日報さんから抜粋。
 

 「東奥日報社が産業、学術、文化などの各分野で活躍し、郷土の発展に貢献した個人や団体に贈る「第65回東奥賞」の贈呈式が8日、青森市の青森国際ホテルで開かれた。

 本年度は伊調馨さん(28)=八戸市出身=に東奥賞特別賞を贈呈。小原日登美さん(31)=同、古川高晴さん(28)=青森市出身、高田寄生木(やどりぎ)さん(79)=むつ市、稲葉克夫さん(80)=弘前市=の4個人と光星学院高校硬式野球部(八戸市)の1団体に東奥賞を贈った。

  稲葉さんは市町村史(誌)編さんや陸羯南、安藤昌益の研究に取り組み、本県郷土史の発展に尽力した。

 受賞者のうち、伊調さんと小原さんには11月に、それぞれ八戸市と東京都で贈呈しており、贈呈式には古川さん、高田さん、稲葉さんと光星学院高校硬式野球部の田村龍弘主将が出席した。

 東奥日報社の塩越隆雄社長が賞状とメダルを手渡し「努力を積み重ね、著しい成果を上げてきた。さらなる活躍を心から願います」とあいさつ。来賓の三村申吾知事は「本県のスポーツ、学術・文化の振興に大きな力を与えてきた。一層の活躍を期待しています」と祝辞を述べた。

 県アーチェリー協会の後藤秀喜会長、弘前川柳社副主幹の■瀬霜石さん、康安外科内科医院の鳴海康安元院長、県高校野球連盟の佐藤萬昭会長がそれぞれお祝いの言葉を述べ、古川さん、高田さん、稲葉さん、田村主将が謝辞を述べた。

 東奥賞は1948年、東奥日報創刊60周年と紙齢2万号を記念して制定。今回を合わせて153個人78団体に東奥賞、9人に特別賞、7人に特別顕彰、2人に特別栄誉賞を贈っている。

●受賞者の声

 ▼力及ぶ限り研究/稲葉克夫さん

  業績といわれるものは、多くの方々の教導のたまもの。

天の時、地の利、人の和という、幸運の巡り合わせと思っている。

これからも力の及ぶ限り、歴史の山へ分け入って研究を深めていきたい」
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# by kuga-katsunan | 2012-12-12 21:55 | ニュース | Comments(0)

羯南の中国行

 あっという間の年末だが、今年は弘前の羯南会の舘田会長様と、私達羯南研究会で北京、天津、山海関に羯南の足取りをたどった。

 東奥日報さんに紀行を掲載していただいたが、紙面の関係で縮刷バージョンとなった。
オリジナルをここに再度掲載させていただく。

「筑波大学時代の恩師青木彰先生と作家の司馬遼太郎氏が二人で取り組んでいた、弘前出身の明治時代の新聞人、陸羯南の研究を引き継いで、青木先生の教え子を中心に陸羯南研究会を行っている。

 羯南に関連する資料の収集、整理に加えて、羯南の足取りをたどる「羯南をゆく」の旅も仕事の合間をぬって出かけている。

 羯南は、故郷弘前を出てから、国内だけでも仙台、東京、北海道、鎌倉、富士山、京都とあちこちを動いている。

 彼は、こうした国内各地のみならず、二度海外にも出ている。

 一度目は、明治三十四年の七月から八月にかけて中国朝鮮へ、そして二度目はその二年後明治三十六年の六月から翌年の二月までの世界一周の旅である。」(続く)

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2012-12-08 05:30 | 紀行 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(60) 私立大学評判記(その49)

 引き続き「(十八)慶応義塾大学部(三)」である。門野幾之進を排斥後、慶応義塾は「時代の風潮を追い」、法律部の大改革を実施した。
 古島一雄は以下のように語る。

 「帰朝講師中の覇権を握れる神戸寅次郎氏は青木徹次氏と共に法律部の面目を一新せんと期し、慶応義塾が最も嫌ひなりし帝国大学出身の博士、学士を請ふて其の講師たらしめ以て雄を神田の四法律大学と争はんと欲したり」(筆者注:青木徹次ではなく、青木徹二の間違いと思われる。)

 帝国大学出身の新たな講師を13人も迎える一方、慶応出身者はわずかに2名のみだった。そこには神田にある法学院大学(現・中央大学)を始めとする、当時勢い盛んな四つの法律を中心とする大学への対抗意識がある。時代潮流に乗り遅れず、法律部を強化することが求められていたのであった。
 このように慶応には、時流に敏感なところがあり、それは現在にも継承されている。
 古島一雄は次のように続ける。

 「法律部が三田風を脱して神田化せんとしつつあるやを見るべきなり。単に神田化せんとするのみならず英米一点張りの義塾は今や漸く独逸化せんとしつつあるなり」
 
 創立者福沢諭吉からの伝統であるイギリス・アメリカの学問中心から、ドイツの学問を重視しようというのである。
 次回、さらにその詳細を紹介しよう。
 なお、この法律部改革について『慶応義塾百年史』では触れられていない。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2012-11-28 09:56 | その他 | Comments(0)

東亜同文会報告の復刻完結

  羯南が初代幹事長をつとめていた東亜同文会の機関誌<東亜同文会報告>の復刻版全26巻128冊が完結し、東奥日報に紹介されました。(2012年11月22日夕刊)

  http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2012/20121122160206.asp

以下、記事の一部になります。

  「陸羯南(くが・かつなん)研究会(東京、高木宏治主筆)が進めてきた「東亜同文会報告」の復刻が、

  最終第3回刊行にこぎ着け、計128冊の復刻が完成した。

  前身の「東亜時論」も復刻済みで、所在が確認されていない「東亜同文会報告」の第1~4回号を除いて

  全ての復刻が完成した。

  高木主筆は「会員の多かった青森県内に未発見号が存在する可能性がある」として、

  捜索を続ける方針だ。」
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# by kuga-katsunan | 2012-11-24 05:52 | ニュース | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(59) 私立大学評判記(その48)

 今回は「(十八)慶応義塾大学部(三)」に入る。鎌田栄吉と門野幾之進との抗争のその後について語られている。
 古島一雄はまず、以下のように述べる。

 「鎌田氏は帰朝講師の不平を利用して門野排斥に成功せしかば今は事実の上に其の排斥の理由を表明せざるを得ず。而して其具体的の理由は規則改正に於いて公にせられたり」

 一私学の事件ではあったが、社会の注目を集めたようである。私学といえども、当時において社会に認知された存在であったことがわかる。それゆえ塾長の鎌田にとって、当騒動の理由を説明する社会的責任があった。
そして、次のように続く。

 「分科制度が果して慶応義塾の将来に利益あるや。随意科を減じたりしは果して義塾の特色を失はざりしやは別問題として鎌田氏が講師を利用せしと同時に帰朝講師は又た多数学生の後援を有したりしを見れば此の規則改正が学生の希望を斟酌すると甚だ多かりしを見るべく、少なくとも時代の風潮を追いたりしを知るべきなり」

 ここで注意すべきは、学生の意見が大きな影響力を持っていた点である。『慶応義塾百年史』によれば、学生は檄文を草し、門野の辞任を評議会へ要求したのであった。

 なお、『慶応義塾百年史』には、当時、社頭(相談役的存在であった)の小幡篤次郎が、福沢諭吉や学生に信任の厚かったOBの日原昌造宛の書簡が残っており、困惑した状況を伝えている。そこから福沢没後の後継者争いは、慶応自体の存続をゆるがす危機的状況であったことがうかがえる。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2012-10-28 20:58 | その他 | Comments(0)

毎日新聞  司馬遼太郎と青木彰展

  毎日新聞で、以下紹介されました。


  http://mainichi.jp/feature/news/20121007ddlk08040080000c.html

「司馬遼太郎と青木彰展:ジャーナリストの果たす役割知って 筑波大できょうまで /茨城

毎日新聞 2012年10月07日 地方版


 筑波大で6日、「司馬遼太郎と青木彰10+件名誉教授」展が始まった。青木氏(03年死去)は元産経新聞社記者で、同社で司馬10+件遼太郎の1年後輩だった。両氏の著作や資料のほか、協力して研究を始めようとしていた明治の新聞人、陸羯南(くがかつなん)(1857〜1907)の貴重な史料を出展。7日まで開かれる。

 青木氏は78〜89年に筑波大現代語・現代文化系教授を務め、その傍ら自宅でマスコミ志望者を教えた。同展で初公開された司馬10+件が青木氏に出した手紙(複写)は、5枚の原稿用紙に「よきジャーナリストをそだてること、みごとな御方針だと思います。たれか、講師をよんできて“陸羯南と新聞『日本』の研究”というのをやりませんか」などと書かれている。

 同展では陸羯南が明治中期に主筆兼社長として発行した新聞「日本」の現物も展示。同紙は権力に対し毅然(きぜん)とした論調を張り、正岡子規らが記者として活躍した。

 青木氏の教え子で筑波大非常勤講師の高木宏治さん(55)は「2人の業績を振り返って、ジャーナリストが果たす役割を考えるきっかけにしてほしい」と話している。会場はつくば市天王台の筑波大・大学会館2階マルチメディアルーム。午前10時〜午後4時。【安味伸一】」
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# by kuga-katsunan | 2012-10-08 19:17 | ニュース | Comments(0)

産経新聞 「司馬遼太郎氏の手紙 筑波大で初公開へ」

 3日の産経新聞に紹介されました。

以下、産経ニュースから

「作家の司馬遼太郎氏が生前、産経新聞時代の同僚だった故青木彰筑波大学名誉教授に送った手紙が

6、7日、筑波大学で開かれる「司馬遼太郎と青木彰名誉教授展」の中で初公開される。

 手紙が書かれたのは昭和53年頃。

この中で司馬氏は、大学教授に転身したばかりの青木氏を「よきジャーナリストをそだてること、

みごとなご方針だと思います」と激励。

正岡子規ら幾多の文化人やジャーナリストを育てた明治の新聞人、

陸(くが)羯(かつ)南(なん)の研究を勧め、自身も「大風に灰をまいたような話をしてもいいです」と

研究の「露払い役」を買って出ている。

 青木氏は司馬氏没後、司馬遼太郎記念館建設に尽力。

メディアのご意見番としても活躍し、平成15年に死去。

遺志は教え子の高木宏治さん(55)らに引き継がれ、同展でも陸が主筆を

務めた新聞「日本」の一次資料が多数展示される。

 高木さんは「手紙から2人の絆の深さが伝わってくる。

 展示会をきっかけに陸研究の裾野を広げていきたい」と話している。

 会場は茨城県つくば市天王台の筑波大学会館。

 問い合わせは、同大広報室(電)029・853・2040。」
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# by kuga-katsunan | 2012-10-04 01:03 | ニュース | Comments(0)

筑波大学 学園祭 のホームページにリンク

  10月6日、7日の筑波大学学園祭期間中に、

大学会館マルチメディアルームで、

青木先生、司馬遼太郎さん、陸羯南と新聞日本の人々の展示会を行う御縁で、

学園祭のホームページにリンクをはっていただきました。

   http://www.sohosai.tsukuba.ac.jp/link.html

  多数の皆様のご来場をお待ちしております。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2012-09-29 08:56 | ニュース | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(58) 私立大学評判記(その47)

 「(十七)慶応義塾大学部(二)門野氏対鎌田氏の争い」の続きである。古島一雄は、門野幾之進と鎌田栄吉の当初の関係は以下のようであったと伝えている。

 「鎌田氏の塾長と為るや、サスガの無頓着者も此の偏屈者(注:門野のこと)に対しては、多少の頓着なきを得ざりしは勿論なるべく、而してサスガの偏屈者も、この『ヨイ男』に対しては左までに偏屈を唱へざりしかば塾長の鎌田氏と教頭の門野氏とは、同一の報酬の下に、殆ど同一の仕事を為し、門野氏は只だ学生の作文添削を為して曾て教場に出づる事なく、両極端の性格は却て一時の小康を保ちたり」

 しかし留学生が帰国し、彼らが教員に加わると門野への批判が噴出した。

 「学制改革の急を叫ぶものあり、或は課程改善の要を説くものあり、或は政令の二途に出づるを責むる者あり、或は門野氏の怠慢を論ずるものあり、或は自家の薄遇を訴ふるものあり」  

 そして「新帰朝者は門野氏に対して公然辞職勧告を迫りたり」となった。それに対し、門野は「予の辞職は太だ易し、予に迫らんよりは寧ろ塾長に迫まれ、塾長に迫らんよりは寧ろ評議員に迫まれ」と述べた。

 しかし、「評議員の多数は、門野氏の学識が惜しむべきを認めたりしと同時に、氏の傲岸を憎みたる者多かりしは事実」であった。また福沢諭吉の息子、捨次郎が「鎌田氏と親善なると共に門野氏に快からざりしは門野排斥の大なる理由たり」であった。

 ついに「多年慶応義塾の名物男と立てられし学者は遂に教頭の椅子を退かざる可からざるに至り」、そして「権力の中心は今や全く鎌田氏及之に帰依する帰朝講師の手に移されたり」となったのである。

 この事実は、『慶応義塾百年史』に門野と鎌田の争いとして出てこない。また、捨次郎の影響があったことも語られてはいない。門野みずからが教頭辞任を申し出て、評議会が承認したと記述されているにすぎない。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2012-09-27 08:38 | その他 | Comments(0)

筑波大学 展示会

  今日、筑波大学の定例記者会見で、展示会<司馬遼太郎と青木彰名誉教授>のプレスリリースが公開されたので採録させていただく。

  <2012年10月6日7日の二日間限定で、筑波大学学園祭「雙峰祭」の期間中、筑波大学教養教育機構(副学長阿江通良)主催「司馬遼太郎と青木彰名誉教授」展を開催致します。
(筑波大学大学会館マルチメディアルーム)

 筑波大学では、未来志向型グローバル人材の育成を図ることを目的とし,産業界等と連携し学外から講師を招き開設する科目『IMAGINE THE FUTURE.未来構想大学講座』が行われています。
 開学40周年を迎える2013年には、新たに特別企画開催などの準備が進められています。「司馬遼太郎と青木彰名誉教授」展は2013年度に予定される特別企画のプレ展示企画として実施されるものです。

【企画意図】

筑波大学名誉教授青木彰(故人・1978~1989在学)は産経新聞時代の同僚・作家司馬遼太郎と報道の源流を探るため明治の新聞人陸羯南の研究を企図していました。明治の知識人・ジャーナリストを通して「日本・日本人」に迫ろうという、いわば「坂の上の雲」の続編ともいえる大きな構想に基づくものでした。筑波大学での研究会や講義も検討されましたが、実現できませんでした。果たせなかった二人の遺志を四半世紀ぶりに展覧会の形で、今回の学園祭で再現したいと思います。

【主な展示内容】

■司馬遼太郎関係「司馬遼太郎から青木彰への手紙」/著書、関係書籍

■青木彰関係  年譜パネル/遺品/写真/著書

■陸羯南関係  年譜パネル/全集/日本叢書/新聞「日本」オリジナル資料
 新聞「日本」関係者の遺墨、著書、資料 

■映像コーナー  司馬遼太郎原作関連映像、青木彰講演集/退官記念DVD(青木塾制作)など多数の秘蔵映像を上映

【実施概要】
日時:10月6日(土)10:00~17:00
       7日(日)10:00~16:00

場所:筑波大学 大学会館2Fマルチメディアルーム

主催:筑波大学 教養教育機構

資料

青木 彰(あおき・あきら=元産経新聞編集局長、筑波大名誉教授)
1926年、空母「赤城」艦長青木泰二郎の二男として東京に生まれる。東京大学教養学部卒。49年、産経新聞に入社。教養部長、社会部長、論説委員、大阪・東京両編集局長、夕刊フジ社長などを経て、78年から89年まで筑波大現代語・現代文化系教授。90年からは東京情報大学教授。新聞報道の在り方などについて現場体験に基づく研究を続け、NHK情報公開審議委員会委員長(NHK経営委員)、東京新聞客員、司馬遼太郎記念財団常務理事、朝日新聞紙面審議会会長代理などを歴任。主な著書は「新聞との約束-戦後ジャーナリズム私論」(NHK出版)「私のメディア評論」「新聞力」(以上、東京新聞出版局)「司馬遼太郎と三つの戦争」(朝日新聞社)など。2003年死去(享年77歳)。>
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# by kuga-katsunan | 2012-09-26 20:51 | ニュース | Comments(0)

筑波大学開学40周年展覧会<司馬遼太郎と青木彰名誉教授>

  来年は、筑波大学開学40周年、作家の司馬遼太郎氏の没後17年、青木彰先生の没後10年にあたる。

これを記念して、今年はプレ企画として10月の学園祭の時期に展覧会の開催を準備している。

開催要領は下記の通り。

  日時:10月6日(土)10:00~17:00
         
         7日(日)10:00~16:00

  場所:筑波大学 大学会館2Fマルチメディアルーム

  展示内容等は、順次、御紹介していく。
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# by kuga-katsunan | 2012-09-17 07:25 | ニュース | Comments(0)

弘前 陸羯南会  夏季大会

 弘前の陸羯南会の夏季大会が以下の日程で開催される。


  日時  2012年9月2日 (日曜) 14時ー16時半

  場所  弘前市立弘前図書館視聴覚室

  報告  北京の陸羯南  百十一年後の風景    会長 館田勝弘

  講演  陸羯南の書について              理事 吉澤秀香

  羯南の海外での足取り、その書の多面性が紹介されることが期待される
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# by kuga-katsunan | 2012-09-01 07:39 | ニュース | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(57) 私立大学評判記(その46)

 今回から「(十七)慶応義塾大学部(二)門野氏対鎌田氏の争い」である。前回が明治36年11月18日で(十五)となっているが、今回の11月19日は、(十七)となっており、第16回が抜け一つ飛んでしまったことになる。こういうことがあったとは、あんがい当時はいいかげんだ。

 さて本題に戻ろう。古島一雄は、門野幾之進と鎌田栄吉の人格を比較し以下のようにまとめている。

 「天は二物を与えず門野氏の学問には異常の大才を付与しながら、其局量には又非常の偏狭を以てしたり。故に学問ある偏狭者の通有性は門野氏も亦之を免る能はず。善き意味よりしては一種の傲骨漢と称せられ、悪しき意味よりしては一種の偏狭者と罵らる」

 そして、門野が排斥された原因を次のように紹介する。

 「傲骨の人動もすれば人を凌ぐ。人を容るる能はずして人を凌ぐ。是れ氏が福沢の一問に憚られたると同時に同輩の人望を博する能はざりし所以なり」

 一方、鎌田については次のように述べられている。

 「之に反して鎌田栄吉氏の人と為り茫々乎として平々然たり。其何でもウンウンと引受くる所頗る大量なるが如く。其何事にも無頓着なる処太た寛容なるが如く。休日に気付かずして学校へ出で、其人なきを見てストライキと誤るが如き、馬鹿気たる愛嬌もあれば、高等教育会議に出でては大風呂敷を広げて、列席の人を驚かす一人前の法螺もあり」

 さらに、鎌田の説明にニュアンスが損なわれないよう、少し長くなるが原文を引用しよう。

 「筆を把らば時事新報の記者たるに足るべく、口を開けば一人前の演説家たるに足るべく、殊に其風采の鷹揚として迫まらざる処、精悍の気を見るに足るものなしと雖も何となく長者の風あり。故に或者は見て以て凡物となし、或者は評して以て無気力と誹るものあれども、要するに是れ、悪気もなく、邪気もなく、気取りもせざれば気障りもなく『小幡さん』の只だ『小幡さん』なる如く『鎌田君』も亦た只の『鎌田君』たるに過ぎず。『小幡さん』は水を飲むが如く、可もなく不可もなく、鎌田君は時事新報の所謂る買薬を飲むが如く、毒にもあらざらんかなれども去りとて又た薬にもならず、従って人に憚られもせざれば嫌われもせず先生は見て以って『ヨイ男』となし、生徒は見て以て『ヨイ人』となし、友人は見て以て『アレ丈けの男』と為す」

 そして、古島は鎌田の評価を次のようにまとめる。

 「是れ鎌田氏が其の後輩たるにも拘はらず、其学力の劣れるにも拘はらずして塾長に挙げられたる所以なり。福沢氏が其晩年参考の為め新着の書を講せしむるや、学力ある門野氏にあらずして、常に鎌田氏に頼りたるを見れば、又た以て両者の福沢氏の於ける関係を推知すべし」

 このように門野は学問の才はあったが、偏屈者で人望がなかった。一方、鎌田は学問には劣るが、人格者として評価され人望を集めていたのである。
 さらにこの門野・鎌田騒動の顛末は続く。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2012-08-31 08:42 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(56) 私立大学評判記(その45)

 「(十五)慶応義塾大学部(一)」の後半に入る。

 古島一雄は前回に紹介した門野幾之進の教育改革の失敗について、「吾人此に至りて遺憾ながら鎌田門野の衝突と云える事実を暴露せざるを得ず」と指摘する。
 さらに、門野について次のような事実を語る。

 「門野氏は新銭座時代の出身者にして鎌田氏等の先輩たるのみならず其の学問の該博深遠なる塾中第一と称せらる。往時、藤田茂吉、波多野承五郎、犬養毅、尾崎行雄が学生時代に於いて最も流行したりし教師に対するストライキは常に一人の門野氏に依って治せられたるを見るも、如何に氏が学問の上に尊敬を受けたるやを知るべく当時剛情者の犬養をして学問は門野に叶わぬと叫ばしめたるを見るも、氏が如何に学問を以って学生を圧迫したりしやを見るべきなり」
 

 このように門野は「学問の上には多大の尊敬」を受けた。しかし卒業後、生徒が他の教師に対しては、「先生」と呼ぶのであるが、門野氏には、「オイ門野」と呼び捨てしたというのである。

 ここで古島は、「氏が人格の上に於いて如何に待遇せられたりしを想見すべきなり」と述べ当回を終わる。そして、その詳細は次号「慶応義塾大学部(二)門野氏鎌田氏の争い」へ続くことになる。

 当連載は一面のしかも一番最初にしばらくの間、掲載されている。それだけ世間の注目を集めたと思われる。古島の方も綿密な取材を行っていたことがわかる。
 

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2012-07-28 16:41 | その他 | Comments(0)

本多庸一先生召天100周年記念資料展

もう一つ展覧会ものの紹介。

 本多庸一といえば、羯南と同時代人の弘前出身の教育者、今の青山学院の生みの親の一人である。

 その本多の没後百年を記念してその生涯をたどる展覧会が開かれている。

 http://www.aoyamagakuin.jp/news/2012/013.html

 「本多庸一(ほんだ よういつ 1848~1912)は、青山学院の日本人初の院長(1890~1907在任)であ  り、明治期キリスト教界の中心人物としてキリスト教宣教と、そのための世界的視野・国際的関心の喚起に 奮闘の生涯を送った人物です。

  本多先生が天に召されて今年で100周年を迎えたことを記念し、青山学院では、本多庸一先生召天100  周年記念行事を種々計画しております。その一つとして、ただいま「本多庸一先生召天100周年記念資料  展示」を開催しています。

  聖書の一節を記した直筆の書や絶筆書簡(複製)、貴重な写真類だけでなく、肖像画や書籍など本多先生  にゆかりの品々が豊富に展示されています。」
<青山学院のHPより>

  
開催場所は、青山学院の間島記念館(青山キャンパス内)2階の展示室、期日は11月30日(金)まで
(7月末までは、毎週 月・火・水(休日・祝日を除く)に開館。 8月以降の公開日程については後日お知らせ。
時間10:00~16:00。
問い合わせ先:青山学院資料センター TEL:03-3409-6742

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2012-07-04 23:03 | トピックス | Comments(0)

盛岡 原敬記念館

  盛岡の駅からほど遠くない場所に原敬の記念館がある。

 原敬は言わずと知れた首相経験者であり、東京駅の駅頭で暗殺されたことは、痛ましい最期として記憶に残っている。

 その原が若き日に、司法省法学校で、羯南とともに学生時代を送っていたことは、羯南側の伝記などには詳しい が、原側の記述には乏しいものが多かった。

 その原の記念館で今、<原敬と司法省学校時代>の企画展が開かれている。

 学友として、羯南と加藤拓川が紹介されており、羯南の原に対する手紙も展示されている。

 親戚でもある赤石定蔵のメルボルン領事館での処遇に関する手紙であるが、この書簡は全集にも収録されておらず、以前、東奥日報の記事でも取り上げられたが、羯南の同郷人に対する心遣いを感じさせる書簡となっている。

 http://www.mfca.jp/jigyou/12_0608-0930harakei.htm

 この企画展は9月30日まで

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2012-07-03 21:10 | トピックス | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(55) 私立大学評判記(その44)

 今回は引き続き「(十五)慶応義塾大学部(一)」である。

 古島一雄は、慶応義塾大学が明治23年(1890年)に大学部を開設して以来、この時期までの歴史を三つに区分する。それが創立時代、門野時代、新帰朝時代である。門野時代とは教頭の門野幾之進が全権を握っていた時代であり、新帰朝時代とは義塾出身の留学生が新たに帰朝して講師の中心となって活躍する、まさにこの当時のことであるとしている。 

 実は門野時代から新帰朝時代への変遷には門野と塾長の鎌田栄吉の争いがあった。これについては『慶応義塾百年史』にも詳細は載っていない。

 次に古島は門野時代の教育改革を紹介している。門野は創立時代からの専門の学部ごとに科目を設定した分科制を廃止し、さらに必須科目を最小限にとどめ、選択科目を多くした。具体的に門野時代のカリキュラムについて、第三学年は以下のようであった。

            一週の時間           
 必修科
  経済原理(西洋人)   四      
  経済史(西洋人)    四
  統計学         二      
  帝国憲法        三
 選択科
  外交史         二      
  貨幣論(一期)     三
  銀行論(二、三期)   三      
  民法 総則       三                   
  民法 物権       二
  刑法総論        二      
  英米法         二
  独逸語或は仏語     二
  (是は何れか必修)   
  英商用文例       一
  (今は英語なる時間中にあり) 

 必修科目が4、選択科目は9であった。経済原理と経済史の教師は外国人であったことがわかる。また、現在の小中高のように一週間に同じ科目が何度もある。

 ちなみにそれ以前は理財学部、法律学部、政治学部、文学部の各学部ごとにカリキュラムが設定され、必須科目がほとんどであった。以下に明治31年(1898年)の理財学部第三学年の内容を紹介し、上と比較してみよう。
 
            一週の時間           
  経済学原論       五      
  近世経済史       五
  帝国憲法        二      
  貨幣論         二
  民法要論        四 
  仏語独逸語(其一を選ばしむ)二
  英文演習        一

 門野時代のカリキュラムと比べ、受講できる科目が少なく、経済学原論や近世経済史は毎日、授業があったことがわかる。

 古島の当記事には門野の教育改革についての目的が不明であるので、そこを『慶応義塾百年史』で探ってみた。それは欧米の大学のように学生が科目を自由に選択できるようにしたいということであったが、その根底には以下のような門野の“思い”があった。

 「大学部を出た上は自由の独立の人間になるんでありますから、幾らか独立な働き、自由の意志というものを働かしてよいはずと思う。無理に何時までも子供のように強いるということは、適当な教育法ではあるまいと思う」(『慶応義塾学報』第20号、明治32年10月刊)

 現代では当然のように思われるが、1年でまた元に戻ってしまった。その様子が次回に続く。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2012-06-28 10:39 | その他 | Comments(0)

桐生悠々と池辺三山

 桐生悠々といえば、信濃毎日新聞の主筆として新聞史に名前を残している。
 大正期のシーメンス事件、昭和初期の社説「関東防空大演習を嗤ふ」の二回にわたって、その座を追われた。
 自らの節に殉じる新聞人であったが、若き日々には、下野新聞、大阪毎日新聞、そして大阪朝日新聞と、あちこちの新聞社で腕を磨いた。
 彼は、二度目の主筆辞任の後に、個人雑誌「他山の石」を発行し、そこに、自らの半生を振り返る随筆「思い出るまま」を執筆した。

 金沢出身の桐生は、大阪の土地になじめず何とか東京で就職口がないものかと、郷里の先輩の帝大法学部の戸水寛人教授の紹介で、朝日の池辺三山を訪ねた。

  たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2012-06-10 06:40 | トピックス | Comments(3)

<羯南と古島一雄>(54) 私立大学評判記(その43)

 今回は「(十五)慶応義塾大学部(一)」である。ここではまず、慶応義塾大学と早稲田大学の学生数が比較される。古島一雄は「最近の調査によれば」ということで、以下のように学生数の詳細を紹介している。

 慶応義塾大学
  大学部本科 267人
   内訳 理財科 198人
       法律科  35人
       政治科  34人
  予科 421人
   小計(大学部本科+予科) 688人
  普通部 951人
  商業学校 494人
  幼稚舎 224人。
   総合計 2,357人

 早稲田大学
  本科  694人
  予科 1348人
  専門部 765人
  高等師範科 324人
  文学部 151人 
   小計(本科+予科+専門部+高等師範科+文学部) 3,282人
  早稲田中学 1,013人
  早稲田実学校 356人
   総合計 4,599人

 本科等の高等教育及びそれに類する学生数では、早稲田の3,282人に対し、慶応が688人であり、早稲田が圧倒している。

 一方、『日本帝国文部省年報』の明治36年度版では、他の私立大学の学生数は次のとおりである。
 和仏法律学校(現・法政大学) 1,124人
 明治法律学校(現・明治大学) 1,784人
 東京法学院(現・中央大学)   1,260人
 日本法律学校(現・日本大学) 1,533人
 関西法律学校(現・関西大学)   684人

 各大学とも高等教育及びそれに類する学生数であるが、慶応はここでも学生数が他大学に比べ少ないことがわかる。しかし、慶応の方が社会の評価は高かく、入学試験も他大学より難しかった。

 ちなみに明治31年(1989年)の試験科目は、日本地理、万国地理、日本歴史、万国歴史、博物学、物理学及化学、数学、英文和訳、和文英訳、英語会話及書取、日本作文、図画となっている。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2012-05-27 14:41 | その他 | Comments(0)

津軽学

 津軽を深く掘り下げる雑誌「津軽学」をきくちさんから頂いた。

http://jomonjin.exblog.jp/17786593/

 羯南研究会のことをとりあげて頂いていた。

 題名は「それゆけ、羯南探偵団」である。

 家内からは、おじさん探偵団とからかわれている。

 半藤さんの歴史探偵ではないが、明治以降の資料は更に出てくる可能性がある。

 これまで復刻した

 日本画報

 新聞日本 分県地図

 東亜時論

 東亜同文会報告

 いずれも、原典をよく読めば、その存在はわかるが、いずれもその全貌を知ることは難しかった資料である。

 司馬遼太郎賞の受賞者である長谷川毅カリフォルニア大学教授は、その授賞式で

「歴史は誰かが光をあてなければ暗闇の中で静かに眠っている。」

 とスピーチした。

これからも、すこしづつ光をあてる努力をしていきたいと思う。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2012-05-20 22:47 | トピックス | Comments(0)

同時代人 野村胡堂

 生前、父が入院していた病院の近くに、野村胡堂が住んでいた家があった。

 車椅子で父と散歩しているときによく前を通ったが、はるか前の作家の家が戦災を逃れて眼前にあるのが不思議な感じであった。

 回想集である「胡堂百話」の中に<俳人子規の死>と題する一文がある。

「正岡子規の死んだ時は本当に泣きたい気持ちで、駆け付けたものである。(中略)根岸庵に駆けつけると、世話人の手が少なかったのか、私のような学生までが、受付係りを仰せつかった。」

 子規の葬式は羯南が仕切ったというから、学生時代の胡堂は羯南の指図で受付に立ったのだろう。

「柩を埋めて、その上に置いた銅版に「子規居士」と鋳抜いた素朴な墓碑銘が、今もありありと眼の底に浮かぶ。」

 この墓碑銘も羯南の筆になる。

 胡堂は岩手時代、石川啄木と同人誌を作ったりしていたが、上京して一高に入学、子規の葬儀はその在学中のこと。

 東大を中退して報知新聞の記者になり、銭形平次を生み出したのは昭和6年のころである。

 新聞記者時代、時事川柳の連載を始めたが、それが新聞日本の影響だったのかどうか今や知る術もない。

 たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2012-05-20 22:31 | トピックス | Comments(0)

弘前:羯南詩碑

 弘前の市外の「鷲(わし)ノ巣」(弘前市狼森)という小高い山の頂に、羯南の漢詩を刻んだ詩碑がある。

 名山出名士

 此語久相伝

 試問巌城下

 誰人天下賢

 この名山は、岩木山のこと。
詩を碑にしたのは、弘前の医師の鳴海康仲氏(1897~1977)である。
1953年9月2日、羯南の命日に碑を建立した。

 羯南の詩を刻んだ銅板を、小中高校計約380校に寄贈したという。

 今、この場所から地元の小学生たちが自分たちの夢を叫んでいるという

 こうした経験は子供たちの心に刻まれる。

 羯南の生家跡地に記念館建設を実現できないだろうか。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2012-05-19 11:23 | トピックス | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(53) 私立大学評判記(その42)

 今回は「(十五)慶応義塾の沿革(下)」の後半に入る。ここには明治4年(1871年)から明治36年(1903年)までの在学者数が掲載されている。
 各年の在籍者数については下記のとおりである。

 明治4年(1871年)  319人 明治5年(1872年)  311人 
 明治6年(1873年)  316人 明治7年(1874年)  314人
 明治8年(1875年)  373人 明治9年(1876年)  340人
 明治10年(1877年) 282人 明治11年(1878年) 233人
 

 明治12年(1879年) 293人 明治13年(1880年) 334人
 明治14年(1881年) 476人 明治15年(1882年) 578人
 明治16年(1883年) 649人 明治17年(1884年) 570人
 明治18年(1885年) 514人 明治19年(1886年) 697人

 
 明治20年(1887年) 954人 明治21年(1888年)1094人
 明治22年(1889年)1341人 明治23年(1890年)1507人
 明治24年(1891年)1555人 明治25年(1892年)1405人
 明治26年(1893年)1219人 明治27年(1894年)1039人

 
 明治28年(1895年) 944人 明治29年(1896年) 908人
 明治30年(1897年) 985人 明治31年(1898年)1180人
 明治32年(1899年) 984人 明治33年(1900年)1215人
 明治34年(1901年)1439人 明治35年(1902年)1667人 
 明治36年(1903年)4月まで 1771人 

 ここからでも明治10年からの経営危機がわかる。明治23年になると大学部を設けたが、すぐに軌道に乗るわけではなく、一旦、落ち込み定着するまでに10年ほどかかっている。社会に評価されるまでには、やはりこれだけの期間がかかるのだ。

 「福沢氏一生の大目的は封建思想を打破して社会の急先鋒たるにありしかば著書に新聞に其主義を鼓吹して一日も怠るはなし」と、古島一雄は、福沢を高く評価する。そして、次のように疑問を呈する。

「故に福沢氏の事業よりすれば慶応義塾の如き福沢宗伝播の一機関たるに過ぎざるのみ、従て其開山上人の死が此沿革史の大段落を為さざる可らざるは自然の順序なり」

 福沢は明治34年に没した。慶応は福沢を教祖とする宗教のようなものであり、その教祖の死により没落するのは世の常である。古島は、「知らず先生死後の義塾たるもの果たして之に優るものありや否や。吾人更らに編を改めて之を叙せんと欲す」と述べ、次回からさらに慶応の経営の内実を掘り下げていくことになる。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2012-04-29 15:27 | その他 | Comments(0)

安部井磐根への手紙

 羯南の書簡を少しづつ掘り起こしているが、数が多いのは国会図書館の拳政資料室にある安部井磐根あての書簡。

 明治26年から明治39年まで、年代不詳のものも合わせて26通が所蔵されている。

 国会図書館のページによれば、1999年9月に個人から寄贈とされている。

 全集の書簡の部には、明治25年の安部井から羯南あての書簡が2通収録されている。

 安部井は、国会図書館の紹介文によれば

「 天保3(1832).3.17福島生まれ。

 旧二本松藩士。戊辰戦争後、二本松藩の旧領回復に奔走。
若松県監査、若松県参事を経て1878年、初代福島県会議長。
1879年初代安達郡長、県令三島通庸の施政に反対し、1882年辞任。
1886年から改めて県会議長に3度選ばれた後、1890年衆議院議員(第1回総選挙当選)、
1893年衆議院副議長。
1900年〜02年国民同盟会参加。
1916.11.9死去。」

 とある、

 時代的には衆議院議員として活躍している時期から、晩年に近いものまで長きにわたる。

同じく国会図書館の資料紹介によれば

「安部井宛の書簡には、「対外硬」の同志である神鞭知常、陸実(羯南)、寺師宗徳等の発信のものが多い。
書類には、郡長・県政時代のものや、国政時代の条約改正および大日本協会等の「対外硬」組織関係資料などがある。
日記は1882年から1916年までのものがある。
来客名・書簡の往来・会合日程等が淡々と記されたものだが、代議士時代の記述からは、活発な人的交流の様相がうかがわれる。
さらに国文学に造詣があり、歌人としても秀でていた安部井にふさわしく、自作の歌・漢詩も相当数ある。」

 日記もあるとのことだが、これには羯南も出てくるであろうか

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2012-04-29 05:10 | 研究 | Comments(0)

津軽人  佐々木元俊

 先日のやまだ先生の写真のうち、下の2枚は津軽の医師佐々木元俊の墓である。稲葉先生は、元俊を<津軽洋学の祖>とされている。元俊は、町医師の家に生まれ、江戸の杉田成郷の蘭学塾で学び、弘前に帰って蘭学堂で教鞭をとった。

 <墓石裏側の墓誌は羯南の文章である。

文政元年生干弘前  歳及三十去赴江戸従杉田成郷修蘭学
嘉安之際為藩医官兼蘭学師実本藩洋学之祖
    明治七年十二月十六日病没
    年五十七墓表勝海舟之筆也
明治二十七年十二月十六日

  墓表には、香遠佐々木元俊墓とある。
(中略)
天下の海舟に染筆を依頼したのは羯南である。>
    (稲葉克夫  陸羯南の津軽)

その上の写真は、この元享の息子で、明治二十五年の千島艦事件で殉職した海軍軍医佐々木文蔚の墓である。

たかぎ

 
    
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# by kuga-katsunan | 2012-04-29 04:22 | Comments(2)

昭和史を陰で動かした男

 犬骨坊のことを書いたら、

<昭和史を陰で動かした男>松本健一

という本が出ていることに気が付いた。
そういえば、以前、菜の花忌で松本先生が五百木のことを話されていたことを思い出した。

 副題は、忘れられたアジテーター・五百木瓢亭、となっている。
内容を読むとアジテーターという言い方は少し違うのではと思う。

 五百木は自ら実践の人であり、その信条に殉じた生き方だったと思う。

 あちこちに羯南とからむ話が出てくる。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2012-04-23 05:41 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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