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<羯南と古島一雄>(70) 私立大学評判記(その59)

 今回も「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」が続く。

 「而して矢野氏の教育家たるを知らざるは何ぞ」

 と、古島一雄は主張する。当時、矢野次郎は前回紹介した福沢諭吉たちのように、教育家として世の中に知られていなかった。

 古島は続いて「世に高等桂庵なるものありとせば彼れは即ち其人なり」と述べる。ちなみに、桂庵とは「雇い人・奉公人の斡旋を職業とする人」(『大辞林』三省堂)のことであるが、ここではサラリーマンや職業人を養成する学校、また学校経営者・教育者を意味する。

 そして、矢野が高等商業学校のために十数年にわたって奔走し、多くの学生が矢野をしたって入学してきたと紹介する。

 次に「彼れが桂庵は尤も繁盛したるものにして又た最も勉強せる桂庵なり」と述べ、高等商業学校自体を高く評価する。

 しかも矢野の学校経営の姿勢に対して以下のように、最大級の賛辞を送っているのである。

 「己の為めにあらずして人の為めなり、人の為めにあらずして世の為めなり、故に彼れは己の商売を利せずして人の商売を利せり。人の商売を利するのみならずして世の商売を利せり」

 さらに、次のように続ける。

 「日本に於ける通商貿易の機関の大半は、実は彼れの桂庵事業に依て整頓せられたるを知らば、彼れの桂庵なるの功も亦た偉大ならずや」

 次回はさらに詳しく矢野について語られて行く。いつも辛口の古島がここまで賞賛する矢野とはいったいどんな人物なのだろうか。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-01-25 09:49 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(69) 私立大学評判記(その58)

 今回は引き続き「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」である。古島一雄は「世人は福沢氏の教育家たるを知る」と述べ、以下のように続ける。

 「世人は新島氏の教育家たるを知る。世人は加藤、浜尾、久保田、山川、木下、伊沢、高嶺、嘉納諸氏の教育家たるを知る。」

 このように古島は当時の大学教育を牽引するリーダーを取り上げるのであるが、少し詳しく各人を見ておこう。

 福沢とはもちろん慶応義塾大学の創設者、福沢諭吉のことである。また新島とは、同志社大学の創設者、新島譲である。両名は当時でも世間によく知られていた。

 一方、加藤とは東京大学の初代総理(総長)、加藤弘之のことである。彼自身はドイツ学の専門家であり、官界学会で多数の要職を歴任した。また、浜尾とは浜尾新(あらた)であり、東京帝国大学の3代目総長となり、文部大臣にも就任した。古島が上京した際の身元保証人でもあった。

 
 久保田とは久保田譲(ゆずる)である。広島師範学校(現・広島大学)初代校長を務め、文部大臣にもなった。山川は山川健次郎のことであり、東京帝国大学総長を始め、九州帝国大学と京都帝国大学の総長を歴任した。日本人として最初の物理学教授でもあった。

 そして、木下は木下広次のことであり、京都帝国大学の初代総長を務め、また第一高等中学校長でもあった。伊沢とは伊沢修二であり、東京師範学校(現・筑波大学)校長、東京音楽学校(現・東京芸術大学)、東京盲唖学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)の校長を歴任した。また、大学教育改革論者として有名であった。

 高嶺とは高嶺秀夫のことである。東京師範学校、東京高等師範学校(現・筑波大学)、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)東京美術学校(現・東京芸術大学)、東京音楽学校の各校長を歴任した。

 
 嘉納は嘉納治五郎のことであり、東京高等師範学校、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、第五高等中学校(現・熊本大学)の各校長であった。しかし、むしろ講道館を設立し、柔道の創始者として知られているだろう。 

 ここから官立、私立を問わず、当時の教育家として知られた人々がよくわかる。

いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2013-12-28 12:41 | その他 | Comments(0)

ウェブスターの辞書、再び

  日本新聞社の印刷部門であった成章堂については前々から気になっていた。
以前、復刻した分県地図も成章堂の印刷であったし、近衛篤麿の北海道視察に記録である、北海道私見も同様である
  新聞日本の愛読者団体であった、日本青年会の会誌<日本青年>の裏表紙には、<浜ちどり>という小説が、やはりこの印刷所兼出版社から出ている。
  国会図書館のデータベースでは、明治33年から明治42年にかけて、この同じ名前の成章堂から出版の本が11冊所蔵されている。すべて同じ成章堂かは、精査の必要があるが、日本新聞社関係以外にも多様な出版を手掛けていたようだ。
  前にも書いたが、三宅雪嶺を囲んで古島一雄、長谷川如是閑らが、新聞日本のことを回想している座談会の資料がある。(、<日本評論>昭和10年11月号)
  そこに、日本新聞社の成章堂の事業で、ウェブスターの辞書を出したことが語られている。
ふとした偶然から、この辞書を入手した。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2013-12-22 03:51 | トピックス | Comments(0)

陸羯南の足跡をたどる  日経新聞夕刊トラベルナビ

  昨日の日経新聞夕刊7面のトラベルナビのコーナーに、弘前市が取り上げられた。

         「陸羯南の足跡をたどる」

という題名である。

  羯南の業績をたどり、弘前のゆかりの地を紹介している。

  松陰室の紹介もあり、青空と紅葉にはさまれた岩木山の写真も美しい。

   乞う、ご一読

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2013-11-28 21:44 | ニュース | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(68) 私立大学評判記(その57)

 今回は、明治36年(1903年)11月23日付「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」である。
 ここでは、高等商業学校(現・一橋大学)前校長の矢野次郎が取り上げられている。

 その前に、まず高等商業学校の歴史を振り返っておこう。
高等商業学校の起源は、明治8年(1875年)9月設立の「商法講習所」である。後の明治18年(1885年)初代文部大臣として日本の教育システムの骨格を作った森有礼が、福沢諭吉と渋沢栄一の協力をえ、私塾として東京銀座尾張町に創立したのであった。生徒数30人足らずのスタートだった。

 明治政府は当初、商人教育を無視したが、欧米への留学経験のある森は高等教育機関としての商人教育の必要性を感じていた。実に卓見であった。

 しかし、創立直後に森が外交官として中国へ行くことになり、森は東京会議所の頭取だった渋沢へ東京会議所への移管を依頼、その付属となった。翌明治9年(1876年)に東京会議所が閑散となったので、東京府へ移管され、ここで矢野次郎が所長となる。矢野は幕府御家人の子弟であったが、新政府では外交官となり、森のアメリカ在任中に部下であった。

 さらに変遷があった。明治17年(1884年)に農商務省に移管されて、「東京商業学校」と改名。明治18年(1885年)には文部省へ移管され、明治20年(1887年)改組とともに「高等商業学校」となったのであった。 

 本文に入ろう。古島一雄はまず、次のように語っている。

 「吾人が前章に示したる事実をして誤りなからしむれば我が実業界に向いて人材を供給したるものは慶応義塾と商業学校なりと云うを得べきと共に吾人は高等商業学校の前校長たりし矢野次郎其の人を連想せざるを得ざるなり」

 矢野は実に18年間にわたり、高等商業学校の校長としてその発展に尽力したのである。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2013-11-28 09:30 | その他 | Comments(0)

明治黎明期の言論界 チラシ

  大阪商業大学商業史博物館のホームページに、同展覧会のチラシが掲載されました。

http://moch.daishodai.ac.jp/files/File/meizireimeiki1028.pdf

  是非、御一覧ください。
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# by kuga-katsunan | 2013-11-27 20:04 | トピックス | Comments(0)

大阪商業大学  明治黎明期の言論界

  大阪商業大学の商業史博物館で、

「明治黎明期の言論界ー陸羯南・三宅雪嶺と上方の人々」

  と題する展覧会が開催される。

  青木先生の命日をはさんだ、12月4日から21日まで。

http://moch.daishodai.ac.jp/index.html

  以下、同展覧会のパンフレットより。

「明治を代表する新聞人である陸羯南の研究は東大阪の地元作家である司馬遼太郎氏からの宿題であると考えている。
 筑波大学時代の恩師、故青木彰教授が、産経新聞記者の同僚であった司馬氏と一緒に手掛けていた陸羯南の研究を引き継いだのがスタートだったからだ

 鎖国の続いた江戸時代から、明治の新しい社会体制に転換した中、あらゆる価値観、社会的志向が変化した。
 欧米諸国の帝国主義的な植民地支配が主流であった国際環境の荒波に揉まれていた明治期の日本。

 この状況は、我々の生きている21世紀という時代、即ちアメリカと中国という二つの超巨大大国に挟まれている現代の日本のおかれている環境と酷似していると言えるのではないだろうか
 
 明治期の新聞人たち、そしてその時代を代表する新聞人の一人である陸羯南や彼が経営する新聞日本で活躍した記者たちが抱いていた国際環境への問題意識、海外諸国からの脅威は、今現在、私達が日常的に抱いているグローバル環境への戸惑い、不安感と極めて親近性があると思われる。

 その意味で、明治期を生き抜いた新聞人たちの足跡を辿ることは、グローバル環境に迷いながら、新たな社会体制の構築に悩む21世紀に生きる我々日本人に発想のヒントの一つを与えてくれる。
 
 今回展示させて頂く資料は、先ず、日本を代表する新聞資料コレクターであった中谷氏が生涯をかけて収集された明治期新聞のオリジナル資料である。
 
 また、陸羯南の盟友の一人である三宅雪嶺の研究者でいらっしゃる長妻教授が所蔵されている三宅雪嶺、長谷川如是閑らの著作、遺筆などの資料。
 
 そして陸羯南研究会の羯南の遺品、羯南を支援した近衛篤麿、杉浦重剛、天田愚庵、柴四朗、そして、新聞日本で共に働き、後に現代も続く日本の代表的な新聞各社の基礎を作った、池辺三山、鳥居素川、高橋健三、内藤湖南、中村不折らの遺墨、絵画、著書などを展示する。
 弾圧、規制が厳しかったものの、思想的には極めて自由で開放的であった時代の息吹きを感じて頂ければ、主催者一同これに勝る喜びはない。

 併せて、羯南の娘婿である鈴木虎男と共に、京都で中国研究の礎を築いた君山狩野直喜博士、中国の文人との交流も深く、自らも上海で十数年働いた長尾雨山らの遺墨を展示し明治以来の日中文化の縁の深さを御覧頂きたい
 
 司馬遼太郎氏の没後十七年、青木彰教授の没後十年にあたる本年、御二人の遺志を継いだ本展覧会を一人でも多くの方に御覧頂けるよう祈念してやまない。」
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# by kuga-katsunan | 2013-11-02 14:01 | トピックス | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(67) 私立大学評判記(その56)

 間が空いてしまって申し訳ない。今回は「私立大学評判記(二十)慶応義塾大学部(五)四校理財科の比較」の後半に移る。

 古島一雄は、次のように指摘する。

 「其出身者が如何なる方向に配置分布せられたるやを吟味すれば殊にその本質なるものあるを知る」

 つまり、慶応義塾大学、早稲田大学、高等商業学校(現・一橋大学)、専修学校(現・専修大学)のそれぞれのカリキュラム違いは、卒業後の進路として顕著にあらわれているというのである。

 慶応義塾大学の進路については、以下のとおりである。
 
      銀行                   231人
      会社                   440人
      独立して商業を営むもの       151人
      自家に在て諸種の事業を営むもの 132人
      官吏                    94人

 銀行や会社へ進む者が全体の6割、また、「独立して商業を営むもの」という現代でいえば起業家が15%を占めていた。当時は民間企業数自体が少ないということもあるが、チャレンジ精神も旺盛であったといえるだろう。

 そして、「自家に在て諸種の事業を営むもの」は、今では民間企業の経営者の後継者にあたり、2代目社長も多かった。そもそも慶応は、平民の富裕層出身者が多数を占めていたのである。したがって、「其割合には官吏若しくは府県会の議員たるもの少な」いのであった。

 また、早稲田大学は、以下の数字が上がっている。

      銀行・会社員         297人
      新聞記者           280人
      府県会の議員         135人
      町村吏員           185人
      官吏              240人

 慶応に比べれば、新聞記者や府県会の議員が多く、ここが早稲田の在野精神の特徴として現れるところである。しかし、意外と官吏、町村吏員も多い。  
古島は、「早稲田が重きを公法に置き、慶応義塾が力を私法に費やせる結果の如何に明白なる分岐点を生せるを見るべし」と指摘する。

 さらに、高等商業学校(現・一橋大学)を見てみよう。
  
      銀行・会社員         620人
      独立商業            43人
      自宅営業            58人
      新聞記者            3人
      官吏               85人

 圧倒的に銀行・会社員が多く、起業家も経営後継者もいる。やや慶応に似ている。

 専修学校(現・専修大学)はどうだろう。

      銀行・会社員         171人
      独立商業             3人
      自宅営業             93人
      官吏               265人

 意外と官吏が半数を占めていることがわかる。
 以上をふまえて、古島は「要するに慶応義塾と高等商業学校は実業家を産し早稲田は政治家を生み、専修学校は官吏を作ると言うの決して空言にあらざるを見る」とまとめ、当時のそれぞれの学校に対する社会の評価を伝えている。

 カリキュラムや卒業後の進路を見ると、それぞれの学校の特色がよく出ていることが確認できる。学校といえども社会のニーズを背景とした社会的存在なのである。専修を除き、各校ともこの特色は、現在においてもつながっているともいえるのではないだろうか。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2013-10-26 09:29 | その他 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(旅順③)

旅順①②を踏まえて、研究会一行の踏査実績について簡単にコメントしたい。

1) 東鶏冠山北堡塁
 旅順港旧市街の北から北東約5km付近にある堡塁群(北から北東部へ松樹山、二龍山、一戸、東鶏冠山北)の中で、最強の堡塁と呼ばれたもの。乃木軍の最初の総攻撃は正面突破として、この堡塁群へ向けて行われた。

 この堡塁群は、ロシア・旅順守備隊最強といわれたコンドラチェンコ少将によって指揮されていたが、コ少将は12月15日、28cm榴弾砲の直撃弾を受け死去した。堡塁内に慰霊碑がある。

 堡塁内には、固焼き煉瓦をベトン(コンクリート)で塗り固めた頑強な兵舎跡が残り、小さな野砲等では全く歯が立たない理由がよくわかった。第11師団(善通寺)が占領したとの碑があった。

2) 一戸堡塁
 津軽出身の一戸兵衛少将(第6旅団長、当時少将でのちに大将)が、第2回総攻撃時に奪取した堡塁である。地図上では、東鶏冠山北堡塁の北西側のやや下った場所に位置するが、今回の踏査では現況を確認できなかった。

 満州戦跡保存会編『明治三十七八年 戦跡記念写真帖』(1920年発行)には一戸堡塁記念碑の写真があり、「『一戸堡塁』/明治三十七年八月以来第九師団及後備歩兵第四旅団ノ一部隊之ヲ攻撃シ同年十月三十日一戸旅団長躬(みずか)ラ戦ヲ督シ占領ス/陸軍大将 一戸兵衛書」との記述がある。

 元々はP堡塁と呼ばれていたが、一戸少将が奪取したことから、明治天皇の勅命で一戸堡塁と命名されたという。一戸少将は、8月の第1回総攻撃の時に、既に旅順の町を一望できる望台砲台近く迄達していたが、撤退命令を受け、やむなく引き返したという。
 

 佐野正時著『北の鷹-学習院長一戸兵衛大将の生涯』によれば、司馬遼太郎は魅力的な人物だと惚れ込み、太宰治は故郷の偉大な先輩と敬愛し、泉鏡花は「軍人は嫌いだがあの人は別だ」と、それぞれ一戸大将について、人格者として高く評価している。

3) 望台砲台
 東鶏冠山北堡塁の東側にあり(標高185m)、旅順市内や主な堡塁・砲台を一望できる。ロシア軍が降伏した1905年1月1日に第9師団(金沢)と第11師団によって占領された。

 現在でも2門のロシア軍の砲が置かれている。望台から旅順港自体は、白玉山の陰となって必ずしも十分に見渡すことはできなかった。

4) 水師営
 1905年1月5日乃木将軍とステッセル将軍が会見した場所である。尋常小学唱歌-第5学年用-『水師営の会見』で有名。

5) 高崎山(164高地)
 1904年8月15日に第1師団高崎連隊が占領したことからこの名前が付いた。高崎山の麓付近で車を降りたが、203高地の北3km旅順港は相当距離(直線距離で10km弱)がある。203高地は望めるがかなりの距離があった。

6) 203高地
 203高地は、1904年12月5日に乃木軍が占領した。旅順港を東南の方向に臨めた(直線距離で5~6km程度)。NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第11回放映(2011年12月11日)で観た、203高地から望んだ旅順港よりは、実際は近く感じた。

 正に港内は「まるみえ」であった。高地に散乱していた砲弾などを集め弾丸型の記念碑(10.3m)を建立し、爾霊山と記して戦死者を弔った。乃木将軍の次男・保典もこの山の山腹で亡くなっている。

7) 白玉山
 ここからは、旅順港および旅順口、市街地を一望できる。眼下に見下ろす旅順口は、100m足らずしかなく、陸上砲台を考慮外とすれば、閉塞作戦が可能と思わせるものであった。

 第二次閉塞作戦で落命した広瀬中佐に心で手を合わせた。なお、ここには東郷平八郎と乃木希典が日本兵の慰霊のために建てさせた66.8mの塔がある(1909年完成)。

8) その他
 その他としては、大谷コレクションがある旅順博物館、旅順の駅舎、大連と旅順を結ぶ予定の都市高速鉄道(旅順南線)の建設中の状況等を視察した。

  しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2013-10-07 20:00 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(金州③)

 金州は、かつて旅順や大連に港が設置される以前、遼東半島の先端地域の中心であり、城壁に囲まれた都市であった。

 われわれ一行は、その面影を見学したいと思っていたのだが、中国人ガイドによると、城壁はまったく跡形もなく残っていないという。ただ、城壁都市の模型を金州博物館で見ることができた。

 それは5メートル四方の模型ではあったが、目の前にすると模型でも迫力を感じた。実際の大きさは、東西600メートル、南北760メートルの長方形で、レンガ城壁の高さは6メートルあったという。巨大な城壁に囲まれて壮観であったと思う。

 金州博物館は、他に日清・日露戦争の資料も展示されていたが、書いてある内容を知ると複雑な思いがした。

 当日の博物館はわれわれ一行だけであった。まだ新しい建物であり、一般開放されていないのだろうかと不思議に思った。また、図録もいいものがなく、りっぱな施設であるだけに残念でならない。

                               
 
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金州博物館の玄関

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当時の城壁のパネル

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2013-09-29 13:25 | その他 | Comments(0)

東奥日報 陸羯南の足跡を追って 中国 遼東半島

 昨年に続き、東奥日報で、羯南の足跡を中国に追った旅の連載が、9月6日から始まっております

    6日  営口
    13日 金州
    20日 旅順

と続き、27日の大連で完結予定です。

 金曜朝刊の文化面での連載ですので、是非ご覧ください
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# by kuga-katsunan | 2013-09-23 17:29 | トピックス | Comments(0)

弘前 陸羯南会  秋季大会 10月26日

 秋季大会の日程のお知らせです

  10月26日 午後2時から

  弘前コミュニケーションプラザ多目的ホール(弘前市土手町)

  1.羯南顕彰中学生作文コンクール表彰式

  2.羯南の足跡を追って  中国 遼東半島  舘田会長

  3.弘前藩士笹森要蔵の明治  笹森副会長(弘前学院大学特任教授)

  皆様 ふるってご参加ください




  
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# by kuga-katsunan | 2013-09-23 17:18 | ニュース | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(営口②)

 営口の街は、遼河の河口に開けた。
 街を歩いてみると、19世紀の洋館を思わせる建物がそこここに残っていた、
 交差点にあった日本人居留民団の倶楽部は、今は銀行の支店になっていた、
ちょうど改装中だった支店の中に入れてもらうと、壁のあちこちに古い写真が飾ってあった。
写真の中には、各国の領事館があり、また学校があり、そして今いる居留民団の倶楽部の昔の姿が残されていた。
 写真を見つめていると、自分が19世紀の街角にいるかのような錯覚に陥ったが、工事のドリルの大きな音で吾にかえった。
 夏休みの家族連れでにぎわう中国の田舎町は、平和の有難みを強く感じさせた。

 たかぎ

 
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# by kuga-katsunan | 2013-08-29 17:07 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(金州②)

 われわれ研究会一行は、初日、金州副都統衙門博物館へ行き、正岡子規の句碑を見学した。金州副都統衙門は清時代の役所があったところで、その跡地が現在、博物館となり、そこに子規の句碑が設置されている。

 この句碑は、昭和15年、当地に住んでいた日本人篤志家によって建てられたものである。設立の経緯については、当ブログ2007年10月30日の高木主筆による「金州の句碑 従軍記者 子規」に詳しく書かれているので、ぜひ一読いただきたい。

 さて、子規の従軍記者としての金州行きは『坂の上の雲』に詳しく描かれている。子規は従軍記者になりたくてどうしようもなかった。彼は思い立ったらそれを達成するまで気が済まないところがあり、陸羯南にことあるごとに願い出たが、羯南は彼の体のことを知っていたから退けていた。だが、ついに羯南も根負けし中国行きを許可する。

 ところがすでに戦争は終わっており、「結局こどものあそびのようなものにおわった」のであった。子規が日本を出発したときには、下関に李鴻章が来て講和談判が始まっていた。
 
 結局、この金州行きは子規にとって、結核を悪化させ死期を早めることになったのであるが、彼はまったく後悔していない。なぜ子規は死を賭してまで従軍したのであろうか。

 ひとつは、上述の『坂の上の雲』にあるように子規の性分によるところもあるだろう。しかし、最大の理由は、俳句の自立という自己の使命の遂行にあった。(これは米田利明氏の説による。)

 子規から河東碧梧桐と高浜虚子への手紙に次のような一文がある。

 「戦争は国民精神を刺戟し、殖産工業から学問美術まで新たになろうとしている。文学もまた然り、それに志すものは、その準備をしなければいけない。自分はたまたま新聞界にいるので記者として従軍することができる。この機会をいたずらに逃すとしたら、愚かだろう。『是(ここ)に於て意を決し軍に従ふ。』」

 子規には、当時、俳句の立つ場所を確立するという使命があった。
「騎兵や海軍が既に社会に場所を与えられているのとちがって、俳句の立つ場所を作ることが必要だった。藩=国から疎外されたところにこそ文筆の道があり、そこにしか自己の生きる場所がないとしたら、役に立たぬと思われているものを、社会に認めさせ、自立をかちとろうとする志が生じていたと思われる。」

 国文学者で歌人でもあった米田氏は「子規の従軍」(『文学』1973年3月号)に以上のように述べている。ちなみに、これはネットの日本ペンクラブ電子文藝館から読むことができる。

 子規は俳句にかける情熱だけで生きてきたのではないだろうか。いやだからこそ年若く死の病を患ったにもかかわらず多少の生を得て、俳句の自立を目指し業績を積むことができた。しかも後輩にもその情熱が伝染し、彼らが子規の後を引き継ぎ、その使命を果たすことになったのである。

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                                       子規の句碑

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2013-08-29 10:18 | その他 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(旅順②)

 われわれ研究会一行は、東鶏冠山北堡塁、一戸堡塁、望台砲台、水師営、高崎山、203高地、白玉山などを一日で駆け抜けた。
 本稿では、まず、『坂の上の雲』(文庫本)の日露戦争・旅順に関する記述(文庫本(4);「旅順」、「旅順総攻撃」、同(5);「二〇三高地」、「水師営」)に基づき概要をまとめてみた。

 1)旅順攻略の目的
 日本陸軍にとっては、当初旅順攻略は主目的ではなかった。しかし、海軍の要請(バルチック艦隊が日本に到達する以前に、ロシア旅順艦隊を陸上部からの攻撃によって全滅させること)および陸軍にとっても海上輸送の安全性を確保するとの観点から、第三軍(司令官:乃木希典)が旅順攻略をおこなった。

 2)旅順攻略に関する日露両軍の投入戦力と人的損害
            日本軍         ロシア軍 
投入戦力      100千人 (注1)    35千人
死傷者      60,212人         18千人
戦死者      15,400人        2~3千人
 

 3)攻略経過
(1904年2月24日、3月27日、5月3日に第1~3次旅順口閉塞作戦
       (延べ21隻)実施)
1904年
8月15日 高崎山(164高地)占領(第1師団)

8月19日 第1回総攻撃(日本軍死傷者15,800人)
8月24日 第6旅団(旅団長:一戸兵衛少将)望台砲台に達する
       も反撃激しく、また撤退命令を受けたため退却(注2)

9月19日 第2回総攻撃(203高地も攻撃)
10月26日 第3回(第2回ともいう。)総攻撃
10月31日 第6旅団、一戸堡塁(P堡塁ともいう。)占領 

11月26日 第4回(第3回ともいう。)総攻撃(含む白襷隊)
11月27日 乃木将軍、攻撃の力点を203高地へ変更 
12月 4日 203高地へ28cm榴弾砲による集中攻撃
12月 5日 203高地占領

12月15日 コンドラチェンコ少将、東鶏冠山北堡塁内で戦死
12月18日 東鶏冠山北堡塁占領(第11師団)
12月28日 二龍山堡塁占領(第9師団)
12月31日 松樹山堡塁占領(第1師団)

1905年
 1月 1日 望台砲台占領(第11師団)、ロシア軍降伏

 (注1) 第1師団(東京)、第7師団(旭川)、第9師団(金沢、この中に一戸
     少将率いる第6旅団あり)、第11師団(善通寺)
 (注2)文庫本(8);あとがき四
                                      (つづく)
    しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2013-07-25 22:53 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(金州①)

 高木主筆を始めとする“羯南の遼東半島足跡を辿る”旅の一行六人は、初日、大連空港に到着するとマイクロバスに乗り高速道路で、金州へ向かった。

 金州は日清・日露の両戦争で戦場となったところである。

 また、正岡子規が新聞「日本」の従軍記者として滞在した地であり、彼の句碑が建てられている。
(つづく)

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2013-07-21 09:50 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(営口①)

 昨年の、北京、天津、山海関に続き、明治34年7月から8月にかけての羯南、近衛篤麿らの足跡は、前回のしぶさわさんの記述のようにまずは営口に寄った。

 営口は当時、船の交通で奉天に向かうのが主要なルートだったため、その入り口の遼河の河口にある都市として、栄えていた
 軍艦は営口の沖合に停泊し、羯南たちは小舟に乗り換えて上陸している

 そこには、日本領事館と現地の横浜正金銀行、三井物産のメンバーが出迎えに出た

 領事館があったことも驚きだが、横浜正金銀行、三井物産の支店があったことから、この地がまさにビジネスの拠点の一つだったことがわかる

 明治に入って既に、34年がたち、若き近代国家日本も、基本的な海外ネットワークのインフラを持つ段階に来ていた。

 たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2013-07-20 05:42 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(旅順①)

 有山輝雄『陸羯南』p.235によれば、明治34年7月10日~8月30日までの間、近衛篤磨・陸羯南等5名は清国・韓国旅行を行ったという。更に『近衛篤磨日記』pp.239~241によれば、同年8月9日~10日は旅順に立ち寄っている。

 同日記に基づき、より具体的に述べれば、8月8日午後10時、一行は芝罘(チーフー;現在の煙台)を出港し(ロシア船ナガダーン号)、9日午前6時に旅順に入港している。同日近衛篤磨らは三井物産の支店に、陸羯南他は長崎ホテルにそれぞれ宿泊し、夜は長崎ホテルにて日本人懇親会に臨んだ。そして翌10日には大連に向かった。

 そこでわれわれは、陸羯南の旅順での足跡に加え、『坂の上の雲』における旅順に関する記述を参考にして旅順踏査を実施した。旅順踏査の内容詳細については次稿以降で述べたい。

 しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2013-07-19 20:30 | 紀行 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(66) 私立大学評判記(その55)

 今回は新たに「私立大学評判記(二十)慶応義塾大学部(五)四校理財科の比較」に入る。古島一雄は、慶応義塾大学部と早稲田大学の理財科(現在の経済学科)課程の比較を踏まえ、まず次のように述べる。

 「更に慶応義塾出身者が競争の敵手たる高等商業学校の課程に見れば又著しき相違あるを見るべし」

 当時、高等商業学校(現・一橋大学)がライバルであったことがわかる。また、そのカリキュラムを以下のように紹介している。  

○高等商業学校本科
  学科       第一年毎       第二年毎       第三年毎
           週時間        週時間        週時間
商業道徳       一    
商業文        一          一
商業算術       二          三
商業地理       二          二
商業歴史                             三
簿記         二          二          一
機械工学       一        
商品学        二          二
経済学        三          二          一
財政学                              二
統計学                              一
民法         三          二          一
商法                               四
国際法                              二
英語         六          六          六
仏、西、独、 
伊、清、露、     三          三          三
韓語の内一語   
商業学        三          六
商業実践                             八
体操         三          三
時間合計       三二         三二         三二

 古島は高等商業学校のカリキュラムが、「如何に実用的なるかを見る」と指摘するように、この当時、実社会で通用する学問となっていたことがわかる。
さらに、彼は専修学校(現・専修大学)の理財科のカリキュラムを以下のように取り上げて比較する。

○理財科(財政に重きを置く) 
第一年
経済大意、経済史(日本)経済学各論(貨幣論)帝国憲法、民法総則、民法物権、社会学、万国歴史、統計学、簿記学、経済地理、
第二年
銀行論、行政学、経済学各論(農業政策、工業政策、商業政策)民法債権、商法総則、商行為、純正経済学、刑法総論、簿計学論策
第三年
財政学(汎論及経常歳入論)金融及財政、経済史眼、社会政策、予算会計論、経済学各論(交通政策)親族及相続、商法(会社及手形)海商、国際法、国際私法、政治史、刑法各論、論策(科外)銀行実務論、保健政策
随意科 
英語経済学、財政史、商業実践論、経済貨物論

 古島は「読者は一々吾人の指摘を待たずして一目の下に其の課程の如何に官吏養成的たるやを発見すべし」と指摘する。

 意外に思うかもしれないが、明治13年(1880年)に法律科と経済科(後に理財科に改称)をもって開学した専修大学は、当時、すでに法律科を廃止し、理財科のみであった。このように明治30年代半ばでは、慶応、早稲田、高等商業学校、専修学校が競合関係にあったことがわかる。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2013-06-28 09:43 | その他 | Comments(0)

東邦協会報告  パンフレット

  今週、発行の「東邦協会報告」のパンフレットが、ゆまに書房さんのHPにUPされました。

http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843342091

以下は、パンフレットの主要部分です。


明治二四年、東洋諸国と南洋群島の 調査・研究のために創立された東邦協会の機関誌。 近代日本の対外認識を知る上で極めて重要な資料。

【本書の特色】
●日本がアジアや世界に目をむけはじめた明治中期の潮流を体現する雑誌の復刻。
●政官財界、軍、言論界、学界などで当時あるいはその後活躍した人物が加わった東邦協会の機関誌である。
●各執筆者の全集未収録の論説などを含む。
●最終巻に詳細な総目次と解題(朝井佐智子)を付す。

◆……東邦協会報告………◆
◆1891(明治24)年、東洋諸国および南洋群島との通商、移民のための調査・研究のために創立された東邦協会の機関誌「東邦協会報告」(全38号)は1894(明治27)年に「東邦協会会報」と改題され、1914(大正3)年まで続いた(全231号)。
本企画はまず、初期の「東邦協会報告」を取り上げる。
月刊で、各号128頁程度。

◆東邦協会の会員は多彩な顔ぶれであり、欧化政策や対欧米中心の外交から、アジアに目を向ける流れの中で、政治家、ジャーナリスト、官僚、学者、経済人などが加わっている。
★主な当初会員:

板垣退助、伊東巳代治、犬養毅、池辺吉太郎、井上哲治郎、原敬、星亨、尾崎行雄、岡倉覚三、渡辺国武、河野広中、谷干城、田口卯吉、副島種臣、中江篤介、榎本武揚、陸実、矢野文雄、福本誠、小村寿太郎、岸田吟香、三浦梧楼、三宅雄二郎、柴四朗、志賀重昴。

★後の主な入会者:

伊藤博文、井上毅、岩崎弥之助、岩村通俊、頭山満、徳富猪一郎、勝安芳、金子堅太郎、樺山資紀、嘉納治五郎、高田早苗、村山龍平、内田康哉、松方正義、益田孝、後藤象二郎、近衛篤麿、児島惟謙、加藤高明、宇垣一成、松永安左ヱ門、秋山真之、渋沢栄一。

◆記事の内容は多彩であり、執筆者それぞれの全集未収録の論説なども多く含まれている。基本的に東洋に関する論説・記事・報告等が中心だが、それ以外の地域のものも少なくない。


監修にあたって

安岡昭男(法政大学名誉教授)

 筆者が国立国会図書館に通い、東邦協会の機関誌(報告のち會報)全巻(欠号は他館で)を通覧検索し、「東邦協会についての基礎的研究」を大学紀要に掲載したのが一九七七年、補訂して、論集『明治前期大陸政策史の研究』に収めたのが一九九八年であった。

 爾来今日に至るまで管見では東邦協会に関する本格的研究に接しない。僅かに『東亜』(霞山会)の四一四号(二〇〇一年)に狭間直樹「初期アジア主義についての史的考察」5 第四章 東邦協会について」がある。霞山会は東亜同文会の精神を継承。『東亜同文会報告』は復刻版が、ゆまに書房から出ている。

 昨年、愛知淑徳大学の西尾林太郎教授から学位請求論文審査の副査を依頼されたが、論題が東邦協会と聞いて快諾した。この学位取得の当人こそ、ほかでもない、解題執筆者の朝井佐智子氏である。網羅的で綿密な調査検討を施し、先行研究より格段に歩を進めた。全巻復刻という出版社の英断とともに、解題に最適の担当者を得たことを喜びたい。


有山輝雄(東京経済大学教授)

 一八九一年に設立された東邦協会は、その事業として「東洋諸邦及ひ南洋諸島」に関する地理、商況、兵制、殖民、国交、近世史、統計を講究することをあげている。実際、その機関誌『東邦協会報告』には、識者の論説とともに、東アジアや南方に関する実に様々な情報が掲載されている。それら情報は、当時にあって貴重な情報であって、東邦協会が一時は一二〇〇人にも及ぶ会員を擁した一因もこの豊富な海外情報記事にあったことは推測に難くない。明治期には海外事情に関する情報を入手する方途は限られていた。無論、質量とも豊富な情報をもっているのは外務省であるが、それらが民間にまで公開されていたわけではない。特に、問題となるのが東アジアや南方に関する情報の乏しさである。もともと日本にとって身近な存在である、これらの地域の情報が少ないというのは奇妙な事態であった。

 開国以来、日本は必死になってありとあらゆる領域に関する情報を海外から入手しようとした。そのために岩倉具視をはじめとする政府要人自ら視察の旅に出たし、数多くの留学生が政府費用で派遣された。

そうした努力によって多くの情報が集積されていった。しかし、それらの情報は主として欧米に関わる情報であったのである。明治中期に日本が政治・経済などで東アジアと直接的関係をもった段階で、それら地域に関する情報が意外に乏しい実情があらわになってきた。しかも、それらに対応する政府機関・学術機関も貧弱であったのである。そこに東邦協会のような民間団体が活動する余地があり、彼らが収集した情報は社会全体からみても貴重なものであった。

 それら活動に従事した者たちには、一筋縄ではいかない複雑な思惑があり、今後研究を深めていかなければならないが、『東邦協会報告』は近代日本の対外認識を知るうえで極めて重要な資料になっている。今回の復刻の意義は大きい。
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# by kuga-katsunan | 2013-06-23 16:07 | ニュース | Comments(0)

日華出版社  藤井石童

  今年は、新聞日本に縁の深い画家、中村不折の没後70年にあたる。

 不折の資料を少しづつ見ていくうちに、日華出版社の昭和美術百家選の中の、中村不折を見る機会を得た。

  筆者の藤井石童こと、秀五郎の巻頭が面白いので紹介させていただく。

「余が四十余年前、故福本日南の紹介により新聞「日本」の客員として海外事情を同紙に発表したことがある。

  其前後に画人不折の挿絵を同紙に見て初めて彼を知った。
 
  それより十余年を経て支那大陸生活に別を告げ、東都に筆陣を張り、各種述作の刊行に入り、親しく不折其人に接し、晩年美術評論紙を経営する様になり、益々認識を深めて来た。」

(藤井石童「中村不折」日華出版社、昭和16年10月)

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2013-06-23 07:44 | トピックス | Comments(0)

追悼 住田良能氏

 産経新聞社長を勤めた住田さんがなくなられた。
青木先生と司馬さんからの宿題である、陸羯南研究を始めるにあたり相談に行ったことがある。

その際、産経新聞に入社が決まった時に、陸羯南全集を買って、今もリビングの本棚の目につくところに置いて、羯南を意識しているとおっしゃった

 羯南のご子孫の方が、産経新聞の愛読者だと申し上げると、大変喜ばれた。これは、たぶん、青木先生と司馬さんも聞かれれば、同じだろうなと思った。

 新聞経営の激務の中での消耗が大きかったのではないかと思える。

これは、時代は違うが、明治期に、苦闘した羯南を想起させる。

 研究会が、2009年、青木先生の七回忌の時につくった「陸羯南と新聞日本の人々」に書いて頂いた文章を追悼の意を込めて、再録させて頂く。

「陸羯南研究発行に寄せて

             産経新聞社代表取締役社長        住田 良能


 小社だけでなく戦後のメディア界に大きな足跡を残された青木彰氏(青木塾のみなさん同様、以後は先生の呼称を使わせていただきます)がお亡くなりになられてからはや、六年の歳月が流れました。

 その先生の七回忌にあたり、筑波大学で先生の教えを受けた青木塾有志のみなさんが、陸羯南に関する研究をまとめられたことに新聞人の一人として感謝申し上げます。


 みなさんの陸羯南研究は、これまた小社の大先輩である司馬遼太郎氏から青木氏に託されたものの、先生が病に倒れて未完に終わり、高木宏治さんたちがその遺志をついだのが始まりと聞いております。

 研究会のメンバーが、週末の休みを利用して手弁当で羯南ゆかりの弘前をはじめ、資料発掘やゆかりの人々に会うために全国を飛び回ってお二人の遺志をさながら駅伝のタスキのごとくつなぎ、息の長い活動を続けられていることに深い敬意を表します。

 その成果は、新聞「日本」の付録である「日本画報」や「明治中期分県地図」を発掘したばかりでなく、復刻版発行にこぎつけるまでに結実しています。

  小紙をはじめ日本経済新聞、東奥日報などでも大きく取り上げましたが、研究会の活躍ぶりに泉下のお二人も目を細めておられることでしょう。
 
  さて、新聞をはじめとする現代のメディア界はかつてない激動期を迎えています。

  明治政府の専横と闘い続け、政府や政党はもとより、行き過ぎた商業主義からも距離をとろうと「独立新聞」の必要性を強く主張した羯南の今日性はいささかも古びていません。

  羯南の事績や新聞「日本」についてのみなさんの研究成果は、今日のメディア界を照射する鏡となると確信しております。

  末筆ながら研究会のますますの発展をお祈りいたします。」
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# by kuga-katsunan | 2013-06-12 21:32 | トピックス | Comments(0)

羯南資料復刻シリーズ第五弾 東邦協会報告 復刻へ

 お蔭様で、羯南関係の資料の復刻も第五作を迎えます

今回は、東亜同文会に先立ち、明治二十四年に副島種臣を中心につくられた、南洋、アジアを総観する団体が、東邦協会である。

 http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843342091

 今月に第一期が刊行予定、年内に完結予定です。

 アジアが注目をあびている今、十九世紀の日本は、どう見ていたか

 乞う、ご期待

たかぎ                             
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# by kuga-katsunan | 2013-06-10 22:58 | ニュース | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(65) 私立大学評判記(その54)

 今回は「私立大学評判記(十九)慶応義塾大学部(四)」の後半である。
 前回の最後に古島一雄が以下のように語っていた。

 「吾人は慶応義塾が実業界に於いて人材を供給せし偉功を認むると共に其の理財科を見る。特に注意を要するものあるを認む」

 そこから「試みに其の課程表を取って之を早稲田大学に対照せん乎」として、次のように、慶応義塾大学部と早稲田大学の課程表、すなわち週あたりの授業時間を比較する。(これは、当時の大学課程が3年間であり、それを合計した数字のようだ。)

 ○理財科
           慶応義塾       早稲田
 経済原理       三時間(随意)    九時間
 経済史        四時間        二時間
 経済学史       三時間        二時間
 財政         四時間        五時間
 応用経済       九時間        六時間
 統計         一時間        二時間
 公法                    九時間
 私法         二十七時間      十時間
 英語         三時間        六時間
 独仏支那語      六時間(支那語なし)十五時間
  計        六十時間      六十六時間
 ○政治科       
           慶応義塾       早稲田
 政治学憲法+             
 行政国際法     十二時間      十九時間
 政治史外交史      二時間       八時間
 経済財政       三十時間      十一時間
 私法         廿三時間       七時間
 独仏語         六時間      十五時間

 以上から、古島は次のように分析している。

 「先ず其理財科に見よ。早稲田が経済原理に九時間を費やすにも拘わらず慶応義塾は三時間として而も之を随意となせるが如き。早稲田が公法に九時間を費やして慶応義塾は一切之を省けるが如き。早稲田が私法に費やす時間は僅かに十時間に過ぎざるに慶応義塾は二十七時間の多きを費やせるが如き。早稲田の応用は六時間なるに慶応義塾は九時間を費やせるが如き」

 そして、以下のように慶応と早稲田のそれぞれのカリキュラムの特徴をまとめている。

 「慶応義塾が重きを置く処と早稲田が力を用ゆる処と各々其の趣を異にするを見るべし、殊に其の政治科の如き早稲田は重きを公法政治史に置き、慶応義塾は重きを経済私法に置くが如き」

 そして、このカリキュラムが卒業後の進路につながっているのであった。

 「其の人材養成の目的が全く其の方向を異にせるを見るべきにあらずや。慶応義塾は曰く文明的の紳士を作らんと。故に其の門下の民間実業家たるもの多し。早稲田は曰く立憲治下の良民を作らんと。故に其の門下の議員若しくは新聞記者たるもの多し。一は実務の人となり、一は評論の人となる。其の淵源する所を尋ねて其の帰する所を見れば豈に多少の興味なからんや」

 すでに明治36年当時には、慶応と早稲田のそれぞれの特色が確立していた。そして、その伝統は現在にも引き継がれているのである。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2013-05-25 10:24 | その他 | Comments(0)

村山先生 弘前講演 5月11日

  早稲田大学村山先生の「陸羯南の漢詩ー同時代漢詩人との交流」と題する講演が弘前で開催されました。

  非常に堅いテーマですが、羯南理解のためには重要なテーマで、50人近くの皆様に聴講していただき、大変盛況となりました。

 明治中期は、西欧文明の導入の中でも、一方の伝統的な漢詩文化の最盛期でもあったという。オリジンは、中国文明だが、日本独特の文化の一部ともなった。

 新聞日本の発行停止の理由の多くは、羯南らの論説にあったが、青崖の評林の時事漢詩も、政府の怒りをかった大きな要因だったといわれている。

  「日本新聞が明治二十二年から二十九年まで八年間に受けた発行停止の数だが

    黒田内閣の下に三回       三十一日間

 山県内閣の下に二回       三十二日間

 松方内閣の下に二回       二十九日間

  伊藤内閣の下に二十二回       百三十一日間

 松方内閣の下に一回       七日間

  合計   三十回         二百三十日

という数だ。これでは、新聞の経営はなりたたない。」

(古島一雄 「一老政治家の回想」 中央公論社 )

  新聞にとっての漢詩の重さが大きかった時代だった。

たかぎ






     
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# by kuga-katsunan | 2013-05-19 21:23 | ニュース | Comments(0)

三代を生きたジャーナリスト 蘇峰

 有山先生のご推薦で、二宮にある徳富蘇峰記念館に向かった。

羯南のライバルというのも難しいが,羯南の生涯の短さ,蘇峰の生涯の長さを考えると単純に比較できない。
短い人生であるがゆえにその思想の輝きを持つ部分もあるが、逆に長い人生では、晩節の過ごし方の難しさも思いやられる。

二宮は、小田原と藤沢の間にある。

藤沢で、羯南の年賀状を見せて頂いた記憶がよみがえる。
駅から山の方に上がると、新緑が雨上がりに美しい。山側の邸宅が並ぶ一角に記念館はあり、蘇峰の資料が並んでいる。

http://www2.ocn.ne.jp/~tsoho/


大河ドラマで話題の新島譲夫人八重からの手紙も展示されていて、蘇峰が、新島襄の弟子だったことを知る。蘇峰の生涯での人との出会いの多さをあらためて知らされる。

昭和29年には、なんと日本テレビに出演までしている写真まで展示されいた。
蘇峰は、昭和32年11月に95歳で亡くなった。

三代を生きた彼は、十万冊の蔵書と四万八千通の書簡を受け取り、それが保存されている。
書籍収集の意義は、内藤湖南に教えられた、という。

羯南、三山の書簡を拝見した。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2013-04-21 21:48 | 紀行 | Comments(0)

弘前 陸羯南会 講演会 5月11日

 演題  陸羯南の漢詩


     同時代漢詩人との交流

  講師  村山吉廣先生  早稲田大学名誉教授


    平成25年5月11日  午後3時から

   コミュニケーションプラザ多目的ホール

村山先生略歴

   1929年生まれ、古典中国文学者者、早稲田大学名誉教授。早稲田大学文学部卒業。同大学文学部教授。1999年定年退任、名誉教授。日本詩経学会会長・日本中国学会顧問・斯文会参与。専門は中国古典学(特に詩経学)漢文学、江戸・明治漢学。
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# by kuga-katsunan | 2013-04-21 18:30 | ニュース | Comments(0)

新聞収集家・山名隆三氏宅を訪問

 3月9日に高木主筆をはじめ6名で、大津市の新聞コレクター・山名隆三氏の自宅を訪問した。主筆の他は、笹原さんと私、あと私の勤務先である大阪商業大学の同僚3人(明尾さん、池田さん、小田さん)である。

 山名氏は二大新聞コレクターのお一人。特に幕末から明治20年代以前の新聞や号外の収集に特徴がある。資料数は2万8千点を数え、自宅を「山名新聞歴史資料館」と命名しているほどに充実している。

 当日はその珍しいコレクションを拝見することができた。幕末の和本仕様の新聞、錦絵でカラフルに彩られた紙面、大きさがハガキと同様の号外等のさまざまな実物を堪能した。

 その後一行は、京都の骨董街へ繰り出し、掛け軸をじっくり見て回ったが、主筆と明尾さんはひたすら値踏みしていた。当日は3月上旬にもかかわらず、午後から気温が急上昇。20度を超える暑さのなか、骨董街を汗だくで歩き回わることになったが、私にとっては歴史を目の前で“実感”できるいい1日であった。

 今年の12月に、本学商業史博物館で、主筆所蔵の歴史資料と本学所蔵の中谷コレクションを使用した企画展と連続講座を計画している。ただ補助金申請をしており、これが通らないと確定しない。ただ企画展は実施したいと考えているので、詳細は追って連絡させていただきたい。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2013-04-12 16:38 | その他 | Comments(0)

長野から伊那、高遠へ

「南信では、何故、イナゴ、ザザムシが食されるようになったか?」
この日の運転手を務めてくれた菊池氏。さすが新聞記者、ネタが尽きない。天竜川が暴れ、木曽路のメインストリートからは少し外れた、この土地柄を多方面からイメージしつつの移動となった。
主筆の予告編通り、この日の主目的は、伊那図書館に収蔵されているという、日露戦争期間の「新聞日本」の、いわば製本集を見学させていただくということだった。ご紹介くださった平賀館長は、10年ほど前に民間企業からこの図書館へ転身され、大変ユニークな活動を推進されている。それまで伊那という土地には縁もゆかりもなかったが、今はすっかり土地の人となり、こよなく伊那を愛されている。
山奥深い土地にあって、かつて新聞日本を愛読し、宝物のように保存された方がいらっしゃったというのが、まずは驚きだった。写真を見ていただけるとわかるように、明治37年~38年にかけて発行された新聞「日本」が製本され、8分冊が、手作りであろう木箱に収められている。「日露戦争実記」というタイトルとともに、各巻には目次が丁寧につけられている。日本各地に「日本」の熱狂的な愛読者がいたということを聞いてはいたが、これほどまでのこだわりはどこから生まれてきたのだろう。
e0106376_014437.jpg

この地の文化水準の高さを裏付けるかのように、この図書館には伊沢修二の膨大な資料も保存されている。英語で記述された、米国留学次のノートが本棚にびっしりと並び、未整理の資料もたくさんあるようだ。
伊沢修二のことは司馬遼太郎「街道がゆく~台湾紀行~」でも少し触れられている。「童心を純化」すること、情操教育こそが「人を終生ひからびさせない」という信念が、ここまでの勉強量を支えたのだろうか。儒教的精神で、童心を追い求めるということに面白さを感じる。さすが司馬遼太郎、この見識は鋭い。几帳面な筆跡とか残された肖像の厳つい顔からは、どう考えても、感性を育む教育を目指す人を想像するのは難しい。
e0106376_0151145.jpg

この時代の特徴として、こうした文化人の交流はどこかでつながっていて、同郷の中村不折とも親交はあっただろうし、羯南とも接点があったに違いない。
やまだ
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# by kuga-katsunan | 2013-03-29 00:15 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(64) 私立大学評判記(その53)

 今回は「私立大学評判記(十九)」、「慶応義塾大学部(四)」に入る。
 まず古島一雄は、次のように述べる。

 「慶応義塾が其特色を棄ててまでも雄を神田と争はんとする法律部が果たして如何なる成功を見るや否や。殊に其起さんとする文学部が果たして前年の覆轍を踏まざるや否や」

 慶応の特色である英米系学問をドイツ系に変えてまで法律部を前面に出し、神田にある私立法律学校群と争うことに意味があるのだろうか。また一度は失敗した文学部の再興に見込みがあるのだろうかと、古島は問うのである。
 そして、以下に続く。

 「従来世人が重きを慶応義塾に置きし者は其法律部にあらず其文学部にあらずして其理財科こそ実に彼れ義塾の生命として待たれたるにあらずや」

 彼は、そもそも慶応の中心は、理財科(現在の経済学部)であり、“慶応の生命”とまで述べている。

 「義塾出身の先輩者が方今実業界の要地を占むるの事実あればなり。従って世の慶応義塾を言ふものは一種の実業学校として之を見るもの多く実は其法律部あり文学部あるを知らざるなり」

 すでに当時、慶応の卒業生は実業界で要職について活躍する人材が多かった。世間では慶応を実業学校と見ており、法律部や文学部はまったく知らないから学生が集まらないのではないかと、古島は予想している。

 ちなみに当時、活躍中の人物として、次の人々があげられている。
 波多野承五郎、朝吹英二、高橋義雄(以上、三井財閥)、豊川良平、荘田平五郎(以上、三菱財閥)、本山彦一(藤田組)、高島小金治(大倉組)、牛場卓蔵(山陽鉄道)、井上角五郎(炭鉱鉄道)、阿部泰三(明治生命)、原田虎太郎(安田銀行)、山本達雄、伊藤欽亮(以上、日本銀行)
 
 そして最後に、以下のようにまとめている。

 「吾人は慶応義塾が実業界に於いて人材を供給せし偉功を認むると共に其理財科を見る特に注意を要するものあるを認む」

 古島は、慶応においては、学部を増加して学風がゆらぐより、理財科のみで行くべきだと主張したいようである。
 しかし、後世の結果から見れば、法律部も文学部も多くの学生を集め、優秀な卒業生を送り出しだすことになる。“総合大学化”は成功したのであった。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2013-03-24 12:51 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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