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煙台秋景

羯南と篤麿の中国訪問の最後の地は、山東半島の港街煙台だった。
明治34年8月10日、ロシア側の勧めで、大連から煙台まで二等巡洋艦  サビアカ号で送ってもらっている。
この巡洋艦は3年後の日露戦争の海戦にも参加することになるが、この時はその後の運命を日露両側の人々とも知らない、のどかな交歓の船旅であった。

煙台は当時、東に位置する島の芝罘が港となっており、翌11日その港に上陸した。
煙台という名前も、明の時代に倭寇襲来の報せを狼煙をあげてつげる台があったことから由来している。
侵略者としての日本の名残が地名に残っているという皮肉を感じる。
篤麿は、同地の日本領事館に一泊。
別便できた羯南、松崎、坂東らは、12日に到着している。
製糸工場を見学したり、地元の日本人会の招待を受け日本食の饗応だったという。
13日は、煙台を見学、14日、立神丸で朝鮮に向け出帆、三泊四日の滞在だった。

ここは、遼東半島を臨む対岸であり、日露戦争に向けての海戦が想定された地域の一つだったのであろう。

今回は、空気の悪い北京から飛行機に乗って50分で着いてしまう。
海岸の街の、綺麗な空気を満喫した。
最近の北京で流行っている、中国語に、洗肺という言葉がある。
読んで字の如く、転地して空気の良いところに行くことだ、という。
中国ワインの故郷でもある、煙台は、そうした北京からの旅行客でにぎわっていた。
久しぶりの波の音に、肺とともに心も洗われる新鮮さだった。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-11-16 16:27 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(78) 私立大学評判記(その67)

 「私立大学評判記(二十三)慶応義塾の講堂と食堂」の続きである。
 前回、古島は慶応義塾大学の講堂で行われた朗読講義に失望したのであった。しかし、食堂を目にするにつけ、私立大学教育の将来に希望を見出すことになる。それが以下のように綴られている。少し長いが引用しよう。

 「吾人は幾多失望の念と幾多不平の念に駆られつつ恨を講堂に残して将に辞し去らんとするやフト寄宿舎なる文字の目を射るものあり。即ち請ふて先ず食堂に入る。ただ見る。幾百の食卓列を為して整然たる処、独立自尊の大額は掲げられて正面の一端に在り」

 「一卓十五人を座せしむべく、卓に卓長あり整理の責に任じ、呼ぶにボーイあり。命を聞く飛ぶが如し。堂は優に四百人を容るべき大建築にして能く其の清潔と静粛を保ちたるのみならず、其の賄いの方法が全く寄宿舎生の自治に依りて経営せられたるは吾人の甚だ快とせし所にして、講堂に於いて得たる不平の念は食堂に於いて其の幾分を慰藉したりしは、吾人又喜んで之を白状せざるを得ず」

 なぜ古島は食堂に目がいったのか。それは「従来、何処の学校に於いても寄宿舎失敗の歴史を尋ねれば、毎に賄征伐なるクーデターより来らざるなし」にあるという。

 当時の学生は寄宿舎(学生寮)で生活をするのが常であった。その寄宿舎の食事は運営の難しさから賄業者によって運営されていた。しかし、当時はまだ集団給食事業という近代産業としては確立されておらず、また業者が経費をピンハネすることもあって、食事の内容が貧弱で、学生の要求を満たすものでないことが多かった。そのことに学生が不満を持ち、それが「賄征伐」といわれるかたちで爆発したのであった。

 具体的な内容はさまざまであり、用意された米を全部食べてさらに要求したり、机をたたき茶碗や皿を投げつけて壊したり、時には暴力沙汰にまで行き着くことがあった。そして、賄征伐を起こした学生に対する処分は厳しく、単に謹慎処分から退学に発展することもあった。

 その代表例が、まさに陸羯南の司法省法学校時代である。彼はこの賄征伐にかかわり退学処分となった。ちなみにその時一緒に放校となったのが、原敬、福本日南、加藤恒忠、国分青崖である。

 このように現在では理解しにくいが、当時は賄征伐が頻発し、食堂の運営は非常に困難であった。もちろん慶応義塾大学も例外ではなく、賄征伐で苦労した歴史がある。しかし、古島が見学に行った時期にはすでに賄征伐を克服し、学生自治によりみごとな運営を行っていたのであった。

 その自治の方法については、次回詳しく見てみよう。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-10-25 11:03 | その他 | Comments(0)

中野目徹著『明治の青年とナショナリズム』について

 最近、筑波大学教授の中野目徹氏が書かれた『明治の青年とナショナリズム-政教社・日本新聞社の群像-』が吉川弘文館から出版された。陸羯南研究の近年の動きがよくわかるし、三宅雪嶺を始めとする羯南を取り巻く人々も取り上げられていて、当陸羯南研究にとっては必読の書である。

 本書の第4章に「陸羯南研究の動向-史料整理の報告を兼ねて-」、付論1には「ナショナリズムの語り方-二冊の『陸羯南』をめぐって」と構成されている。

 第4章は平成22年(2010年)8月7日の陸羯南会での講演録であり、そこには高木主筆も出席されていた。また、付論1は有山輝雄著『陸羯南』、松田宏一郎著『陸羯南』についての書評である。
 なお、大阪商業大学の長妻三佐雄教授が本書の書評を書かれる予定である。

  いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-09-27 09:18 | ニュース | Comments(0)

子規博物館・記念講演報告

既報の通り、8月3日(日)子規記念博物館において、高木主筆の講演が行われた。
講演タイトルは「羯南の『日本』、子規の『小日本』」。
博物館の第60回記念特別企画展「子規と『小日本』~新聞界の旋風~」の記念講演として企画されたもの。
講演では、陸羯南研究会発足の経緯から、これまでの研究成果が披露された。
子規文学にとって「小日本」編集主任の経験や、ひいては羯南との関係がいかに大きかったかを再認識する機会となった。
当日は遠路弘前より、陸羯南会舘田会長、東奥日報の松田氏もご臨席。台風11号と12号の狭間で雨模様の中、危ぶまれた来場者も、中学生らしき学生からお年寄りまで、ほぼ満席となる大盛況となった。
当日の講演内容は、子規記念博物館発行(季刊)の「博物館だより」に掲載される予定。やまだ
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# by kuga-katsunan | 2014-09-07 12:44 | Comments(0)

丸山眞男手帖  休刊特別号 発行

 丸山眞男手帖は、丸山眞男のお弟子さんたちが中心に集まっていらっしゃる丸山眞男手帖の会の会誌である。 会の趣旨・経緯は、代表の川口さんがHPに掲載されていらっしゃいますので、転載させて頂く。

       -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「当会は1996年に設立され、97年4月の創刊以来、雑誌『丸山眞男手帖』を発行してきました。
そもそもの発端は、96年8月にさかのぼります。
8月15日に丸山先生が亡くなられた後、丸山先生が私共に話をして下さったさまざまな事柄をこのまま埋もれさせるのは余りに惜しい、幸いテープに録音したものがあるので、それらを起こし発表することができたら、と考えました。
みすず書房元編集長小尾俊人、法政大学教授飯田泰三両氏等のご助言をいただききながら、故安東仁兵衛(元現代の理論社代表)、間宮陽介(京都大学教授)、島田紀子(アーティスト)、吉川正洋(医師)、牛田尚子(88年の会:オブザーバー)の5氏と相語らいまして、「丸山眞男手帖の会」を設立し、『丸山眞男手帖』創刊号~33号を刊行してまいりました。『丸山眞男手帖』の刊行を通じて、丸山先生の著作を読み、その思想と業績を理解し、継承してゆこうという、全国各地のさまざまな場(研究会やサークルなど)のひとつとなることができたらと考えています。
また、丸山先生の没後4周年にあたる2000年8月15日から「復初」の集いを開催、講演会やパネルディスカッションを行っています。
今後も『丸山眞男集』『丸山眞男座談』未収録の論文、座談の発掘・掲載、さまざまな角度からの丸山眞男論の掲載や参考文献の定期報告を行っていきたいと考えています。

丸山眞男手帖の会代表 川口重雄」
         -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

 今般、同会休会にあたり、休会特別号が、8月15日に出版された。
http://members3.jcom.home.ne.jp/mm-techo.no_kai/techo/index.html

 ご縁があって、 「陸羯南と丸山幹治・眞男父子」 という拙文を出稿させて頂いた。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-08-30 16:52 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(77) 私立大学評判記(その66)

 「私立大学評判記(二十三)慶応義塾の講堂と食堂」に入る。本テーマでは、明治30年代の慶応義塾大学での授業と学生生活の様子について取り上げられている。今回はまず授業の様子から。古島一雄は当時の日本全体の大学教育を次のように批判する。

 「教授ありて教育なしとは今日学校の大患にあらずや。知識の供給を知って品性の陶冶を知らざるは今日教師の通弊にあらずや。学校は生徒を顧客とし、生徒は先生を勧工場の商品と為す」

 そして、以下に続ける。

 「生徒の学校に行くと云うものは只だ聴講券を代金を支払ふて講義の買出しに行くのみ。生徒は先生を尊敬する所以を知らず。先生は生徒を愛する所以を知らず。」

 さらに以下のように述べるが、いずれも現在に通ずる批判である。  

 「焉んぞ先生の薫陶あらんや。焉んぞ人物の養成あらんや。故に其先生の講義の如き生徒に十分の理会を与ふる親切心もなければ、生徒も亦た必ずしも其内容を吟味せず、只だ先生が口より発したる音声を紙に写し取りて之れを暗誦し以て其の試験なるものに応ずるのみ今の試験なるものは理解力の試験にあらずして記憶力の試験なり。」

 さすがにその講義方法は現在の大学には残っていないと思うが、記憶力の試験は今でも相変わらずである。
 次に古島が実際体験した慶応義塾大学での授業の様子が語られる。

 「其先生なるものは只だ機械的に自己の手帳を朗読すれば生徒は只だ無意識に一生懸命之を筆記するのみ。彼れ一句是れ一筆。先生口を動かせば生徒手を動かす。故に講堂に在て聴くべくものは先生が朗読の声と生徒のペン先の紙上に触るる簇々の響きのみ。何等の趣味もなければ何等の感興もなく、而かも先生が『何々をリョウテイするや』と読むるや、或は了定と書くもあり、或は諒定と書するもあり、其量定と筆記するものは甚だ稀なり」

 古島は明治政府のための大学である官学より、国民・市民のための大学になりうる慶応に期待を寄せているので、上記の授業方法が彼からしたらことのほか歯がゆくてしょうがないのである。それで以下のように述べるしかなかった。
 

 「其最も官学に抗し其最も私塾的に発達したる慶応義塾に於いては、何等か其特色を保つべき教授の方法あるべしと信ぜしなり、然るに其尤も平凡なる尤も普通なる方法に依て、シカモ最も下手なる朗読講義を聞かされたりしが為め吾人は多大の失望を買はざるを得ざりしなり」

 しかし、古島は慶応の学生生活にあるべき教育の姿をみるのである。それは次回に述べよう。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-08-29 08:23 | その他 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る⑦(最終)

***29日書画骨董街(琉璃廠)***

 琉璃廠は、天安門から南西2km弱(または地下鉄2号線・和平門駅から南新華街を南へ600m)の処に、南新華街を跨ぐように存在している筆、硯、印章、書画骨董等を扱う骨董街である。

名前の由来は、明時代に琉璃瓦を焼く窯があったことによるという。

清時代には科挙試験の受験生が、「文房四宝(筆墨硯紙)」を求め、書画骨董を売り買いする文人墨客などが集い、専門店街が形成されたという。

近衛篤麿日記p.235には「…□□□(店名不記)にて買い物をなし…」となっているが、これが書画骨董街(琉璃廠)の一店であったと考えられる。7月29日の午前中に立ち寄り、午後1時は帰寓しているのでそれほど長いした訳ではなさそうである。

 たかぎ主筆とわたしも、何店か冷やかしてみた。道の両側に大小の専門店が軒を連ね、かなりの大作から小物まで、非常にバラエティに富んでいた(怪しげな地下室にも案内された)。書画骨董にさほど造詣のない人でも、結構楽しめる穴場の観光スポットであると思われた。

 羯南ら一行は、翌30日に天壇停車場から10:20の列車で、天津に向かっている(午後4時天津着)。

しぶさわ

下写真
琉璃廠(東側)
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# by kuga-katsunan | 2014-08-04 21:35 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る⑥

***27日恭親王訪問、醇親王訪問(不在)、粛親王訪問***

 恭親王とは、愛新覚羅 溥偉(あいしんかくら ふい、1880-1936年)のことで、愛新覚羅 奕訢(あいしんかくら えききん、道光帝の第6子)の孫。溥儀(宣統帝)が即位し、政権を担当した醇親王体制下では冷遇され、満州国においては役職に就かず。

 醇親王とは、愛新覚羅 載ほう(あいしんかくら さいほう、1883-1951年)のことであり、清朝最後の皇帝である第12代宣統帝・溥儀とその弟・溥傑の実父、第11代皇帝・光緒帝の弟。

羯南らが、訪ねた時、義和団の乱によるドイツ公使殺害に対する謝罪使としてドイツへ派遣されていた。

溥儀が満州国皇帝になることに反対したため、漢奸とならず中国共産党政権下でも生活が保障された。

邸宅である醇親王府は、西側の庭園(明珠花園)が後に宋慶齢(孫文の妻、中華人民共和国名誉主席)の公邸(現在は「宋慶齢故居」)。東側邸宅部分は国家宗教事務局に転用されているが、清朝の大規模皇族邸がほぼ完全な形で残されている稀少な例となっているという。

 粛親王とは、愛新覚羅 善耆(あいしんかくら ぜんき、1866-1922年)のことであり、太祖ヌルハチから数えて10代目の子孫。義和団の乱から辛亥革命勃発までの10年間に枢要大臣を歴任し、近代化改革を促進。日本より招聘した川島浪速を北京警務学堂の創設にあたらせるなど親日家。川島浪速とは義兄弟の関係を結び、第14王女顕玗(けんし)を川島の養女(日本名川島芳子)とした。

羯南らが、歴史上の重要となる人物や関係者に会う、または合おうとしていたことがよく分かる。

下写真(上)
恭王府

下写真(中)
宋慶齢故居

下写真(下)
醇親王府の碑

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2014-07-31 23:31 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る⑤

***25日/頤和園(万寿山、昆明湖など)、円明園***

 近衛篤麿日記p.232.によれば、25日は「万寿山に赴く・・・船形石造の楼閣上に於て午餐を喫し、・・・イタリヤ守備兵に小船を出さしめ、湖上(昆明湖)を一周し、・・・玉泉山に至り、冷水を汲み・・・円明園の古跡を訪ね・・・ドイツ兵の占領したる万寿寺をみる・・・」とある。

羯南が訪れた1901年は、義和団事件が起こった翌年であり、外国兵が各地区を占拠していたことが文面からも分かる。

万寿山、昆明湖を含む頣和園は、総面積290万㎡で、全面積の3/4が昆明湖。北京最大の皇家園林(皇室とその一族の庭園)で、世界遺産である。1750年に第6代皇帝の乾隆帝が造成したが、1860年の第二次アヘン(アロー)戦争で、英仏連合軍が破壊した。

1884~1894年、第11代光緒帝(西太后の甥で、西太后の傀儡といわれている。)が再建した。再建には、海軍経費の15年分を要したため、北洋艦隊の再建予算を流用し、このことが日清戦争敗戦の要因の一つとも言われている。

西太后が、頣和園(穏やかさを養うの意)と名づけた。
しかし、1900年に8ヶ国連合軍で再び破壊され、西太后が1902年に再度再建した。

従って、1901年に羯南たちの観た万寿山付近はかなり破壊されていたか、再建中であったものと推測される。

羯南たちが、昼食をとった船形石造の楼閣は、「清晏舫(せいあんぼう)」と呼ばれ、全長36mの石の船である。神仙世界の蓬莱島へ向かう宝船だという(現在は立ち入り禁止)。

玉泉山は、昆明湖から西に1km足らずのところにあり、昆明湖の水源。乾隆帝が、「天下第一泉」と賞賛したという(周辺は静明園という)。

円明園は、皇家園林である3山(万寿山、玉泉山、香山)、5園(円明園、頤和園、静明園、暢春園、静宣園)の内、第一といわれたが、1860年の第二次アヘン戦争で、英仏軍から徹底的な破壊と略奪と放火を受け廃墟となっている。この時に大量の書画骨董、宝石、黄金とともに、乾隆帝編纂の「四庫全書」(中国最大の漢籍叢書36000冊=10億文字)も失われたという。

羯南たちはきっと欧州列強、とりわけロシアの脅威を改めて再確認したであろうと想像される。

しぶさわ

下写真(上)
昆明湖にある清晏舫(石船)

下写真(中)
昆明湖畔から万寿山を望む。

下写真(下)
円明園内の西洋楼遺址区
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# by kuga-katsunan | 2014-07-30 20:50 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る④

***23日故宮(大雨のため景山には行かず)***

たかぎ主筆と私は天安門(故宮の南側)から故宮に向かった。

故宮(古い宮殿の意)は、かつて紫禁城と呼ばれた。紫禁城とは、天帝が住んでいる星(北極星)を紫微星ということから紫宮と呼び、禁城(庶民が出入りできない城)との2語を掛け合わせたものだという。

1406年に建設を開始、1421年に明の永楽帝が南京から北京へ遷都した。その後1644年に清に引き継がれた(現在の建物は清朝時代のもの)。北京の故宮(博物院)には93万点(この他台北の故宮博物院に64万点)の宝物がある。

故宮は、乾清門を境に、外朝(オフィシャルスペース)と内廷(皇帝一家のプライベートスペース)に分けられる。72万㎡の敷地に15万㎡の建物、周囲には幅52mの筒子河(とうこが)という濠、高さ10m城壁に囲まれている。

羯南が故宮をどのように詳しく観たかは不明だが、1933年からの中華民国政府による宝物の南方への疎開前なので、豪華な宝物を十分堪能できたのではないだろうか?

下写真(上)
外朝入口の午門、両側は修理中であった。

下写真(中)
北東角の楼閣(遠く北西角の楼閣)を望む。

下写真(下)
羯南が行けなかった景山(故宮北側)から故宮を望む。

しぶさわ

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# by kuga-katsunan | 2014-07-29 07:48 | 紀行 | Comments(0)

〈梁啓超故居その3〉

故居があるはずの北河沿胡同をやっと見つけて、北に上がって行った。
狭い道に左右に古い家が並んでいる。
地図や百度百科という中国の調べものサイトによれば、そろそろという場所
まで来たが、それらしい建物が見当たらない。
ただ、右手の普通の家に「梁啓超書斎」という小さい看板がかかっていた。
ご丁寧に 「個人の家なので問い合わせ無用に願います」 という貼り紙も
ある。書斎が此処ならその向かいが住居かと思い、道の反対側を見ると、
これもまた小さく「四合院」のパネルがかかっていた。
中を覗いてみると、小さな部屋に別れて幾つかの家族が別れて住む、
伝統的な四合院だった。
今や、梁啓超を偲ぶのは向かいの家に掲げられた書斎の表示だけ。
彼の子供たちも、墓を作った長男の建築家をはじめ、中国の現代史に名を
残しているが、時ははや二十一世紀も十数年を過ぎて、皇帝英雄文人が
あまた輩出した北京では、順番に歴史の暗闇の中に消えて行くタイミング
なのかもしれない。
燕京の名前の由来となった、燕たちが胡同を飛び去って行った。

たかぎ

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# by kuga-katsunan | 2014-07-27 21:56 | 紀行 | Comments(0)

北京・孔子廟での東亜同文会北京支部歓迎会

近衛篤麿の日記によれば

「明治34年7月26日
午後四時半、同文会員の招待により孔廟に赴く。
会するもの三十人計、余興として満州旅人の武芸あり。
終わりて一同撮影し、夫より宴に移り、中西正樹一同に
代りて歓迎の辞を述べ、余これに答へ、餘は雑談にて帰寓。」

東亜同文会は、明治31年に近衛、陸を中心に発足し
中西は初期のメンバーであり、北京支部の主任であった。

中西については

「1858*-1923 明治-大正時代の大陸浪人。
安政4年12月12日生まれ。美濃(みの)(岐阜県)岩村藩士の子。
明治の初めに上京し小学校教師となる。
明治17年外務省留学生となり天津領事館,北京公使館で修学。
のち中国各地を探検・調査し,日清(にっしん)・日露戦争に際し軍に
側面協力した。
大正12年1月10日死去。67歳。
駿河(するが)(静岡県)出身。本姓は柳沢。」
(講談社、日本人名大辞典 2009年)

との記述あるが、興味深い人物である。

明治31年に康有為、梁啓超らが、宮崎滔天、平山周、山田良政らの
助けにより個別に日本に亡命した際に、日本で出迎えた人物としても
名前がみえる。

また明治33年の国民同盟会の発足に関しても、東亜同文会側の主要
メンバーであり、近衛、陸に影のように寄り添っている。

この東亜同文会北京支部の三十人の名前が、注に載っているが、もう一人
アッと思ったのが、川島浪速である。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-07-27 21:32 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(76) 私立大学評判記(その65)

 「私立大学評判記(二十二)慶応義塾と高等商業学校(下)(三井に於ける両校の混戦)」の最後となる。
 古島一雄は次のように続ける。

 「斯る偶然の出来事に依て慶応義塾と高等商業学校は一堂の中に戦ひたりしも是れ一部局の争のみ、若し更らに眼を放てば実業界の各方面は皆な此二校出身者の戦場ならざるはなし」

 ここから明治30年代半ば、既に実業界では両校出身者が中心となって活躍していたことがわかる。この両校の社会的評価は以下のようであった。

 「人は言ふ三田派は団結の心に富み、一橋派は一致の力を欠くと。一橋出身の之を弁ずるものは曰く、是れ実に官学の弊処なり。矢野氏力めたりと雖も官立は到底官立たるを免れず。官学に遊ぶものは株式会社に在るが如く、私塾に学ぶものは合名会社に在るが如し、同じく一の会社なり。而かも気風の差を見るが如しと」

 すでに両校の学風が異なることも知られていた。慶応出身者は卒業後も母校への愛着が強く、OBの関係が濃密であり、団結心があると見られていた。一方、高商出身者は慶応に比べれば団結心が薄く、これは官立学校一般の傾向であったという。

 「人は又言ふ高商の出身者は平素の訓練あり。故に直に実践に用ゆるに足り、慶応義塾の出身者は実践に馴れざるを以て、出営の後尚ほ多少の訓練を要すと。慶応義塾の出身者為に弁じて曰く、我れは兵卒を作らずして将士を作る。故に直に珠算を把て戦う能はざるも、他日謀を帷幄の中に巡らして勝を千里の外に決するものは彼れに在らずして我にあらんと」

 商高のカリキュラムは簿記等の実務科目が多く現場の即戦力となったが、慶応のカリキュラムは経済学や法律科目が中心であり、実務科目はほとんどなかったので、卒業後に実務の訓練が必要となったのである。

 
 しかし、それについては、慶応は現場の実務者を養成するところではなく、経営戦略をたてられる管理者や経営者を養成するところであると古島は弁護する。ここには両校の教育内容の違いが社会的評価に明確に出てくる。

 そして、古島は「知らず商界覇を称するも遂に孰(いず)れに在る乎」と、つまり今後は両校のどちらが実業界を席巻するかわからないと述べた。その見かたは正しかった。

 既述したように商高でも、学生の実務教育に反対する闘争があり、カリキュラムに経済学や法律科目を充実させて行った。その後も、両校ともに優秀な人材を輩出し続け、現在に至っていることは周知の事実である。
 

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-07-26 11:05 | その他 | Comments(0)

松山 子規記念博物館   第60回特別企画展

   子規と「小日本」   -新聞界の旋風- 

8月2日から31日まで、愛媛県松山市の子規記念博物館で
<第60回特別企画展 子規と「小日本」-新聞界の旋風->
の特別展が開催される。
日清戦争の直前に、新聞日本の関係紙として、子規が編集長となって
発行された<小日本>の初めての展覧会だ。

以下、松山市のホームページから

「趣旨
子規記念博物館では、毎年新たなテーマで特別企画展を開催しています。 
 今回の特別企画展で取り上げる新聞「小日本」は、今から120年前の
明治27年2月11日に発行された家庭向けの文芸新聞です。
子規が勤める日本新聞社の新聞「日本」の発行停止処分に備え、
新たな読者を開拓するために発行されました。
その編集主任に抜擢された子規は、紙面の編集や企画、連載小説の執筆
交渉などに力を注ぎました。
 今回の特別企画展では、今年、新聞「小日本」が創刊され、120年が
経過したことを記念し、子規の仕事や同紙を彩った文士たちを紹介する
とともに、「小日本」が後の子規の人生に与えた影響を探ります。」

 日頃、なかなか一堂に会することのない珍しい資料も出品されるとの事。

恥ずかしながら、8月3日に記念講演として、
「羯南の「日本」、子規の「小日本」の演題でお話しをさせていただく予定。

詳しくは、松山市のHPをご覧ください

https://www.city.matsuyama.ehime.jp/hodo/201407/60kikakutennannai.html

以上

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-07-25 23:43 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る③

***22日/孔子廟、国子監***

孔子廟(下写真の上)
1302年皇帝フビライが漢民族の知識階級を懐柔するために築かせたといわれている。山東省曲阜の孔廟に次ぐ規模(22千㎡)。明、元、清時代の科挙合格者の石碑もあり、日本では天満宮といったところか。写真でもわかるが、孔子像の下には絵馬のようなものが多数ぶら下がっていた。
最近、中国共産党も儒教社会主義を提唱し始めているという。中国と日本を含めた周辺諸国においても、孔子のいう仁(人間愛)と礼(規範)による理想社会を実現し、近隣諸国相互に仲良くしてほしいと思う。

国子監(こくしかん、下写真の下)
1306年に建設された中国の最高学府。支配階級のモンゴル人に漢語を、漢族にモンゴル語を教えるのが目的。孔子廟の隣に立つのは、当時の建築規定「左に廟、右に学」に従ったもの。
湯島天神と東大、あるいは北野天満宮と京大の関係みたいなものですかね。

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2014-07-24 22:17 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る②

*** 7月21日北京天壇停車場に到着 ***

天壇の東南側に天壇停車場はあったようである。

現在このあたりに駅はない。一番近い北京南駅(この駅から天津行の新幹線が出ている、所要時間:30~40分)から北東へ2km程度。

因みに天壇は天安門から南南東へ4km弱の位置にあり、明、清時代の皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った、現存する中国最大の祭祀施設(総面積273万㎡の公園であり、世界遺産)。

天壇は、圜丘(かんきゅう)、皇穹宇(こうきゅうう)、祈念殿(きねんでん)からなり、

 圜丘は、皇帝が毎年冬至の日にここに上り、天帝にその年の出来事を報告した所

 皇穹宇は、皇帝の位牌がおかれた円形の建物

 祈念殿は、皇帝が正月に豊作を祈願した、3層38mの高さで、直径30mの円形木造建築物

である。

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2014-07-24 21:01 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る①

 有山輝雄『陸羯南』p.225によれば、明治34年7月10日~8月30日までの間、近衛篤磨・陸羯南等5名は清国・韓国旅行を行っている。
 そして『近衛篤磨日記』pp.230~235によれば、上記旅行のうち、一行は同年7月21日~30日には北京に滞在している。

 同日記などによって主な見学先・訪問先を見れば以下の通り。

7月21日/晴/炎熱安眠を得ず/
       午後2時過ぎ、天津から北京天壇停車場に到着
   22日/午後雨/警察学校、孔子廟、国子監など
   23日/大雨/故宮(大雨のため景山には行かず)
   25日/晴/頤和園(万寿山、昆明湖など)、円明園
   26日孔子廟   
   27日恭親王訪問、醇親王訪問(不在)、粛親王訪問
   29日書画骨董街(琉璃廠)
   30日10時20分北京天壇停車場発(午後4時天津着)

 以上の内容に基づき、北京在住のたかぎ主筆とともに、羯南の北京での足跡をトレースしてみた。
内容詳細については次稿以降で述べたい。

 しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2014-07-22 23:02 | 紀行 | Comments(0)

梁啓超故居 その2

梁啓超故居は、果たして今はどうなっているのかと、休日にふと思い立ち、探しに出かけた。
家を出るとうまい具合にタクシーが通りかかった。
運転手さんに地図を見せると、「梁啓超の家?」 という反応である。
「とりあえず近くまで連れて行ってやるから、後は、その辺りの人に聞いてみろ!」と言う。

東直門南小街という中位の大きさの道に着いた。
反対側に東直門医院があり、向かいが海運というバス停である。
バス停の少し北側に左に曲がる小さな道がある。そこを入って行った。
古い路地なので、お年寄りが多い。
土曜日の朝、みなさんのんびりと通りに小さな椅子を出し、新聞を読んでいる。
まさに今の中国の人々の生活空間が広がっていた。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-07-13 20:45 | Comments(1)

梁啓超故居 その1

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北京も日本の住宅地図ほどではないがかなり詳しい地図が出来てきている。
あまりにも変貌してしまった古都なので、手元において土地勘をつけるためにパラパラ見ている。
名所旧跡のたぐいもそれなりに出ている。当たり前だが、旧城内に多い。
北京は、他の多くの都市と同じで中華人民共和国成立以降、その城壁を壊して都市の近代化を進めてきた。
城壁のあった後は大きな道路となり、旧城内は基本的には碁盤の目のようになっている。
しかし現実主義的 な中国の人たちは、碁盤の目の中を更に迷路のように路地を作りそこかしこに住居を作っていった。

故宮を中心に東側を東城、西側を西城と呼び、東城に梁啓超の旧居の記述を見つけた。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-07-07 21:06 | 紀行 | Comments(0)

梁啓超の墓参  その2

梁啓超は、清朝末期、政治家、ジャーナリストで、その師であった康有為と
共に、1898年の戊戌の変に敗れ、日本大使館に助けを求めて日本へ
亡命した。結局辛亥革命の翌年の1912年に中国へ戻ったが、その間に
日本で受けた影響は大きなものがあったものと言われている。

亡命期間中に、日本の種々の人々と交友したが、その中に羯南もいた

細かい資料は、日本においてきてしまったので、ここでは割愛するが
興味を持たれた方は、彼の年賦や、<共同研究 梁啓超>
また、中国の研究者の方の最近の研究をご参照頂ければと思う。

犬も歩けば、ではないが、こんな形で、羯南にからむ
北京を紹介していければ、と思っている。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-06-29 22:47 | 紀行 | Comments(0)

梁啓超の墓参  その1

家内が慰問に来てくれたので北京の郊外にある植物園に出かけた

香山という地域で北京の北西にあり、大学地域、頤和園を抜け更に北西に上がる
もともと秋の紅葉が有名な地域だ

香山紅葉好

かって留学した時に教科書にもその美しさを謳う文章が載っていた

広大な植物園の奥に臥仏寺という釈迦の涅槃像で有名な寺がある
今はその寺を覆い包むように、植物園が形成されている

雨上がりの早朝、まだ人もまばらな植物園を奥に進んでいくと
<梁啓超墓>の指示板があった。
こんなところに、という意外の思いもあり、指示板のさすままに
進むと石づくりの大きな墓である

建築家であった息子の設計による、という墓石だが、なにやら
20世紀初期のヨーロッパの建築様式も感じさせる。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-06-29 22:40 | 紀行 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(75) 私立大学評判記(その64)

 「私立大学評判記(二十二)慶応義塾と高等商業学校(下)(三井に於ける両校の混戦)」が続く。
 古島一雄は、中上川彦次郎と益田孝の派閥抗争を具体的にまず以下のように語る。

 「中上川氏は銀行を自家の本営となし、波多野氏を挙げて之が副将たらしめ、更に朝吹氏を護らしめ、高橋氏を挙げて呉服店を監せしむ」

 波多野氏とは波多野承五郎のことであり、三井銀行の理事であった。また、朝吹氏とは朝吹英二であり、三井財閥の鐘ヶ淵紡績や王子製紙の役員を歴任した。高橋氏は、三井銀行に入社後、三井呉服店(三越)に移り経営改革を断行した高橋義雄のことである。いずれも慶応義塾卒で、福沢諭吉の愛弟子である。

 次に古島は三井銀行には次のような慶応義塾卒の人材がいたとして紹介している。それは、大阪支店長平賀敏、横浜支店長矢田績、神戸支店長小野友太郎、広島支店長柳荘太郎、長崎支店長丹幸馬、三池支店長高山長幸、深川支店長、岩本述太郎である。
 さらに、三井呉服店に日比翁助、本店秘書係長に安富衆輔、本店出納係長に坪井仙次郎がいた。

 一方、益田の率いる三井物産については、高等商業学校卒業の以下の面々がいたとする。竜動支店長小室三吉、香港支店長犬塚信太郎、大阪支店長福井菊三郎、新嘉坡支店大野市太郎、横浜支店北村七郎、口ノ津支店河村貞二郎、京城支店小田切捨次郎、芝罘支店長平野寛一郎。

 また、本店石炭課長に河村良平、参事に藤瀬政次郎、福井邦太郎、東京支店に田村実、中山兵馬、大庭敏太郎、大井寛治、さらに芝浦製作所に太田黒重五郎、同族会に成瀬隆蔵がいる。

 そうして、以下のように語っている。

 「此の如く両軍の英士猛将綺羅星の如く各々其陣地を扼して砲列を敷きたりしが故に、中上川対益田の争は一転して慶応義塾対高等商業の争いとなり、三井なる大会社は今や此二校競争の犠牲に供せられんとするの奇観を呈したり」

 しかしこの派閥抗争が三井財閥にとって、決してマイナスにはならなかった。古島は次のように述べる。

 「然れども此競争は陰険なる卑劣の競争にあらずして、実力の競争となり、革新の競争となりしかば、大改新を要せし三井其物に取っては千載の好機たりしやも亦た知る可らず」

 中上川・益田抗争は正々堂々の、イノベーションの競走であり、三井財閥の発展期にあって大いにプラスに働いたのであった。

 
 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-06-28 11:14 | その他 | Comments(0)

〈北京〉

5月下旬に北京に赴任してから、1ケ月がたった。早くも盛夏が続いているが、その分、空気はまずまず。

羯南は、明治34年7月から8月にかけて 近衛篤麿と一緒に中国、朝鮮を歴訪している。

113年前の、彼らの旅の足どりを辿る試みは、2011年から続けてきた。

今度は腰を落ち着けて、これまで行けなかった足どりの細部を解き明かしてみたい。 

 たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-06-25 23:42 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(74) 私立大学評判記(その63)

 「私立大学評判記(二十二)慶応義塾と高等商業学校(下)(三井に於ける両校の混戦)」に突入する。

 今回は三井財閥における慶応義塾と高等商業学校の卒業生たちの派閥争いの話である。
 古島一雄は、まず次のように始める。

 「其義弟たる益田氏が三井家の重役として其枢機を握りたるは、矢野氏が桂庵事業を行うに至大の便益ありしは、高等商業学校出身者にして現に三井物産社に在るもの百十人の多きを算するを以て、其一班を知るべきなり」

 三井財閥の重役で、三井物産の立役者である益田孝は高等商業学校出身者を採用し、一大派閥を築き上げた。一方の派閥の領袖、中上川彦次郎について、古島は以下のように語っている。

 「然るに慶応義塾の出身者たる中上川彦次郎が井上伯の推薦を以て一たび三井家に入るや、益田対中上川の暗闘は端なく此の大会社の中に始められたり」

 中上川は三井銀行のトップとして、慶応義塾出身者を採用し活用した。 
 現在にもつながる大卒の一括定期採用のルーツをここに見ることができる。
 

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-05-28 09:52 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(73) 私立大学評判記(その62)

 「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」も今回が最終回となる。

 矢野次郎は18年間にわたりトップとして高等商業学校の発展に尽力してきたが、しかしながら当校での最後は、不幸にも追い出されるように去ることとなった。

 直接の契機は明治24年(1891年)の定期試験騒動であった。試験科目の地理と簿記について、本科2年生がそれは本来、補習科の性質のものであるとし、試験科目から除外するよう陳情したが、学校側はこれを認めず、学生側全員の試験ボイコットに発展した。これが矢野校長の辞職勧告に及び、ついに明治26年(1893年)、校長を追われることになった。当時、49歳であった。

 実は、この事件の伏線には、次の2つのことがあった。ひとつは、矢野の独断専行への反発である。彼は初代校長就任以来、長年にわたって君臨し、学生の卒業許可や就職先を彼個人の意見で決定したので、それに対する学生側の反発が高まっていた。また、教員の中にも矢野の専制に不満を持つものもいた。

 もうひとつは、学生側の書生派と前垂派の対立があった。書生派は天下国家を論じようと気概のある一派であり、一方、前垂派とは商家の若旦那を気取った学生一派である。書生派は、当時の不平等条約の下での日本の貿易が外国人商人に壟断されていることに憤慨し、専門知識を得ることで対抗すべく商業教育の高度化を要求していた。

 だが矢野の教育方針は「あくまで前垂式商業教育の技術的方面に習熟した学生、人に使われる人間を養成すること」にあり、教育内容も実用中心であった。ここにも学生の不満が充満していたのである。

 矢野は初代校長から度重なる廃校の危機があったのにもかかわらず、私財を投じてその危機を乗り越え、当校を発展させてきた。彼にとって当校は自分の分身のような存在であったであろう。

 往々にして長期にわたりトップに居座ることは、独断専行となりがちであり、矢野もその例外ではなかった。その後、矢野は日本麦酒株式会社取締役など歴任し、明治39年(1904年)には貴族院議員となっている。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-04-28 10:16 | その他 | Comments(0)

劉鉄雲と羯南

 樽本照雄先生に、

 <劉鉄雲「三代瓦豆文」「秦漢瓦当文」跋について>

という文章がある。

少し長くなるが、引用させていただく。

「前に掲げたのは、劉鉄雲に関する新出資料である。
日比野丈夫氏よりご提供いただいたものだ。
氏のお手紙に次のようにある。

 陸羯南が中国へ行った時、劉鶚から贈られた「三代瓦豆文」「秦漢瓦当文」の二冊をもっております。
鈴木豹軒先生旧蔵のもので、辛丑六月(明治三十四年)とあり、一度、羯南全集などを調べたいと思いながらそのままになっておりました。
『清末小説』10号のリストにはその名が載っておりませんので、一文したためました。

 瓦豆文、瓦当文ともに一冊で、それぞれ拓本を綴じたものです。瓦当文の方は一つひとつ自筆の解説がついております。ともに開巻第一葉に自筆で書いたもので、瓦豆文の方には年記がありませんが、瓦当文と同時の筆であることは間違いないと思います。

 以上の説明で充分のような気がするが、最小限の補足をしておく。」

 日比野丈夫先生は、京都大学に学ばれたので、羯南の娘婿の豹軒鈴木虎雄の教授も受けていたと思われる。
 虎雄は、この書を羯南の形見として、もらったのだろうか。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-04-26 07:54 | トピックス | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(72) 私立大学評判記(その61)

 「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」が続く。

 古島一雄は次に、矢野次郎を福沢諭吉と比較し、それぞれの特徴を浮き彫りにする。
 まず体つきについて。

 「彼(矢野)の体格は福沢氏の如く偉大ならざるも、其長身痩骨嶄々(ざんざん)として厳角の孤松の如きもの却て其清峭(せいしょう)を見る」

 福沢の身長は173㎝、体重も70.25㎏であり、当時としては筋骨たくましい大男であった。一方、矢野は細身で長身と、“かっこいい”スマート体型だった。
 そして彼らの表現力を以下のように語る。

 「彼は福沢氏の文章なきも、其談論は却て之に優るものあり、彼は福沢氏の如く用意周到ならざるも、其襟懐の洒脱は却て之に優るものあり」

 矢野は福沢に文筆でかなわなかったが、弁がさわやかで、あかぬけていた。
 語り口にも次のような特徴があった。

 「福沢氏は其平民主義を鼓吹せんと欲してか好んでベランメー語を遣ひし、或はゲンコ、ドテなど車夫の符号を口にし、或は『親父橋の矢大臣を知らネーカ』と誇り却て其野卑たるを知らず、彼は純粋の江戸語を行るに三分の英語を用ひて其の粋気を示す」

 福沢の口調は、ベランメー調で、気の荒い車夫の言葉を使用し、ずいぶん威勢のいい、ある意味、乱暴にも聞こえる話し方であったようだ。他方、矢野は、東京弁に英語を交えて話をするという江戸っ子の洗練さがある。しかし、これは相当キザにもみえただろう。

 最後に、古島は矢野を「豈に江戸ッ子の好標本にあらずや」とまとめている。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-03-29 09:55 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(71) 私立大学評判記(その60)

 さらに今回も「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」である。

 「彼が初め此の養成所を作らんとするや富豪岩崎氏に謀る。岩崎氏之を諾して其管理を専にせんとするや彼頑として応ぜず。遂に森有礼子に謀りて今の高等商業学校(現・一橋大学)を興せリ」

 と、古島一雄は高等商業学校創設の顛末を語る。実は、これは新たな発見である。高等商業学校は、前述(<羯南と古島一雄>(68))のように、定説では、森が主導し私塾として設立したとされている。しかし、古島はそもそも矢野次郎自身が設立を構想し、森に働きかけて実現したものであると言う。しかも森の前に岩崎弥太郎のところへ話を持って行ったとも語るのである。

 このことは過去の資料を調べても出てこない。明治36年(1903年)に出版された実業之日本社編『当代の実業家人物の解剖』に掲載されている「矢野二郎を論ず」にもその記述はない。

 そこで記述されているのは、次のことである。
 当時、商法講習所(高等商業学校の前身)の所長であった森が外交官として海外に出向しなければならなくなり、後任探しで、東京会議所会頭の渋沢栄一が、副会頭の益田孝に相談し、益田の盟友であった矢野が推薦され所長に就任した。矢野は、当時、代理公使としてアメリカに駐在した後、帰国し外交官を辞職したばかりであった。

 上記の古島の説によれば、矢野こそが高等商業学校の創設を主導したということになるのであるが、この記述だけでは判断が難しい。

 なお、矢野次郎の「次郎」の表記について、現在は、「二郎」と表記されている。これは、彼の幼名が次郎吉であり、当初、「次郎」と名乗っていたが、通称として「二郎」を署名に使用し、それが、晩年になって「二郎」に統一するようになったということである。 

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-02-27 11:07 | その他 | Comments(0)

書家 吉澤秀香氏 羯南漢詩 展覧会

 弘前の陸羯南会の理事でもある、書家の吉澤秀香氏の羯南漢詩の書作品が、同氏の展覧会に出品される。

  作品は、同氏のホームページにも掲載されている、羯南の漢詩の代表作である所謂「名山詩」。

    http://syukoh.com/act/act.html

  写真からもわかるように、大幅の作品であり、画面からもその雄渾な魂が伝わってくる。

  展覧会は、来月3月25日から30日まで。(11時から19時まで)

      「吉澤秀香  書の世界Ⅵ 女一代記」

   場所      鳩居堂画廊(東京鳩居堂ビル3階)

         東京都中央区銀座5-7-4

         TEL:03-3574-0058

   http://www.kyukyodo.co.jp/gallery/index.html


   多数の来場が期待される。

たかぎ




 
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# by kuga-katsunan | 2014-02-27 06:36 | ニュース | Comments(0)

東奥日報 「道理と真情の人 陸羯南」連載開始

 今年1月1日元旦の東奥日報の紙面は、見開き全面で陸羯南の特集を組んだ。

 子規が漱石に送った手紙や拓川の手紙、佐藤紅緑のエピソードをひいて、羯南がいかにまわりの人々に敬慕されたかを紹介し、松田編集委員は

 「落涙するほど敬慕される人とはどんな人物であったのか。
  人々との深い交わりを通して人間・羯南を探ってみたい。」

としている。

  羯南のライフストリーに従って、彼に大きな影響を及ぼした人物を中心に生涯をたどる、これまでにあまりスポットのあたってこなかった人物の登場が期待される。
これまで、父の中田謙斉、父のいとこ、・佐々木元俊が取り上げられた。

  毎週金曜日の夕刊に連載中。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-02-02 07:58 | ニュース | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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