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孤高の新聞「日本」企画展

開催一週間後の土曜午後、学生と思しき6~7名の男女混合チームなど、会場内は意外と若い年齢層が目立ちました。
展示も「自らの理念にのみ立脚した言論報道機関たる『独立新聞』をつくる」という羯南たちの若いエネルギーを感じる構成でした。
なにより当時の新聞をベンチャー産業という視点で捉えたことで、「日本」の数々の試みや、そこに集まってきた若者たちの姿が、前の時代への反骨精神と未知への挑戦という、今も変わらぬ青春劇として、妙に納得できた次第です。
司馬遼太郎から青木彰への手紙も、実物が初めて公開されています。写真は図録の一部です。本物は是非現地でご覧ください。
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やまだ
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# by kuga-katsunan | 2015-06-30 00:30 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(86) 私立大学評判記(その75)

 今回も「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」が続く。
 古島一雄は寄宿舎の様子を次のように述べる。

 「掲示場に於いて最も人の目を惹くものは其掲示の文なり。仮令ば『静粛にすべし』と言はずして『静粛を保ち処』と云ふが如く凡て命令的文字を用いずして一に其公共心に訴えんと欲するが如き其用意の太だ周到なるを見る」

 このように古島は上から一方的、強制的にやらせるのではなく、「公共心」を引き出そうとするところを評価する。
 次に、大食堂が自治制度の下で運営されていることを寄宿舎の特色だと述べ、そして消費組合の存在を以下のように関心を寄せる。

 「甚だしきは其筆墨紙、シャツ、靴下の類を売る西洋小物屋的の一小店が消費組合と号せられて寄宿舎の一部に在り。而して此組合が一株五十銭廿五銭の払込より成り、株は其売買を許さるるが如き、稍々滑稽の観あれども同舎の生徒は却て之を以って多大の成功と誇れるが如き偶ま以って三田風の飽くまで三田風なるやを見るに足るべし。」

 上述のように、当時、既に学校生活に必要な物品を販売する売店が寄宿舎内に設置され、消費組合として存在していたことがわかる。これは他の学校にはなかったようで、「三田風」と言うように慶応の特色であった。 
 古島は最後に結論として、次のようにまとめている。

 「之を要するに慶応義塾の寄宿舎は私立学校中多く其此を見ざるるものにして其設備は最も完全なものと云うべく其制度は最も発達したりと云うを得べく、義塾夫れ自身に於いても『慶応義塾より奇食者を取去れば慶応義塾は全然ゼロにして独立自尊の光輝を発揚すべき唯一の武器を失えるものなりと』云えるが如く其自任の大なるを見るべし」

 このように学校における寄宿舎の存在意味の重要性が指摘されている。すでに「慶応義塾の寄宿舎は慶応義塾其物である」との記述も紹介したように、寄宿舎こそが学風の醸成につながり、しいては学校存在のポイントとなる。実はこれは現代でも言えることである。
 古島は寄宿舎の存在という学校の本質を見抜いていた。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-06-26 09:26 | その他 | Comments(0)

孤高の新聞日本  展覧会始まる

 6月20日から横浜の日本新聞博物館で始まった。

産経新聞に紹介の記事が掲載されましたので、以下、再録させていただきます。

「明治の新聞「日本」企画展 横浜の博物館で開催

 明治のジャーナリスト陸羯南が創刊し俳人正岡子規らが参加した新聞「日本」を紹介する企画展「孤高の新聞『日本』-羯南、子規らの格闘」が20日、横浜市中区の日本新聞博物館で始まる。東奥日報社、愛媛新聞社との共催で、8月9日まで。

 政府や政党などから独立した新聞を目指して明治22(1889)年に創刊され、度重なる発行停止処分にも屈せずに政府を批判し続けた軌跡を紹介。記者の理念を説いた同紙社説のパネルや発行停止になった際の読者通知はがきなど200点以上の資料を展示する。

 博物館の赤木孝次学芸員は「独立という理念を掲げ、明治期の新聞界に大きな足跡を残した新聞を広く知ってほしい」と話している。」
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# by kuga-katsunan | 2015-06-22 19:38 | ニュース | Comments(0)

日本新聞博物館展覧今週20日開幕

 今週20日から、横浜の日本博物館で新聞日本の展覧会が開催されます。
同博物館のホームページでも、紹介が掲載されています。

 「「孤高の新聞『日本』 ―羯南、子規らの格闘」

  1889(明治22)年に陸羯南(くが・かつなん)は新聞「日本」を創刊し、政府や政党など特定の勢力の宣伝機関紙ではない「独立新聞」の理念を掲げ、頻繁な発行停止処分にも屈することなく、政府を厳しく批判し、日本の針路を示し続けました。また、初めて新聞記者の「職分」を明確に提示し、新聞発行禁止・停止処分の廃止を求める記者連盟の先頭にも立ちました。

また、羯南の高い理想、人徳にひかれて日本新聞社には正岡子規ら大勢の俊英が集い、羯南亡き後、内外の主要新聞に散り、こんにちの新聞の基礎づくりに貢献しました。

本企画展では、新聞「日本」の人々の、理想の新聞を追求した軌跡を200点を超す資料やパネルで紹介します。
  
[会  期]2015年6月20日(土)~8月9日(日)
[場  所]日本新聞博物館 2階企画展示室
[主  催]東奥日報社/愛媛新聞社/日本新聞博物館
[特別協賛]青森銀行/みちのく銀行
[後  援]青森県/愛媛県/青森県教育委員会/愛媛県教育委員会/弘前市/松山市/
 弘前市教育委員会/松山市教育委員会/神奈川県教育委員会/
 横浜市教育委員会/陸羯南会/陸羯南研究会/松山子規会/子規庵保存会」

(日本新聞博物館HPより)

http://newspark.jp/newspark/exhibition/index.html

 私ども研究会も後援させて頂いております。

 夏休みの前半に、会期が重なっておりますので、是非ご家族で御高覧頂ければと思います。

たかぎ

 
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# by kuga-katsunan | 2015-06-17 05:47 | ニュース | Comments(0)

横浜 日本新聞博物館 展覧会 続報

 今月20日から開催される、横浜の日本新聞博物館での展覧会は8月9日までの会期。

 8月1日の午後1時から、有山先生とご一緒にお話をさせていただく予定にしております。

 事前予約制、ということですので、ご興味持っていただける方は、日本新聞博物館までご連絡お願い致します。

      http://newspark.jp/newspark/

                                     たかぎ

                               
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# by kuga-katsunan | 2015-06-02 05:46 | ニュース | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(85) 私立大学評判記(その74)

 今回は引き続き「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」である。
 古島一雄は以下のように続ける。

 「此寄宿舎が如何に完備の体を備ふるやは其階上を寝室となし其階下をを自習室となせるにても知らるべく。寝るには寝台あり。読書には椅子卓子あり。夜は電灯を点じて光を取るべく冬は蒸気を送って暖を取るべし。」

 寄宿舎は2階建てであり、2階にベッド、1階にはイス、机が備えられ、夜は電灯が灯り、冬も暖房設備が整っていた。学生が主体的に勉強できるようになっていた。
そして「寄宿舎に於ける規則は左の如し」として次のように記載されている。

 「起床 午前五時半
 朝餐 同六時半-七時半
 昼餐 正午十二時-午後一時
 晩餐 午後四時半-五時半
 門限 同七時
  但土曜日は午後八時
 自習 同七時-九時
 点検 同九時十分
 寝室消灯 同九時二十分
 自習室消灯 同十時」

 朝は早く、食事は3食付き、夕食時間が午後4:30~5:30とこちらも、消灯時間の午後9:30、10:00も、現在の感覚では早すぎるだろう。
そして、以下の内容から勉学の様子が伺える。

 「即ち午後七時より九時に至る自習の時間は、復習下調べを為すべき必要の時間にして普通部の一年生は特に大広間に於いて其後半の一時間を舎監が講話に面白く喋りつつゐるなり。其他修養機関には新聞クラブあり、演説討論会は毎土曜日の夜に開かれ、殊に其の討論会は所謂擬国会の元祖として誇る所なり。」

 熱心に学んでいた様子がわかる。舎監は卒業生が勤めた。舎監の話が面白かったとあるが、実は舎監にとっては講話が大変だったようだ。

 新聞クラブについては、「ここでは東京、大阪その他各地の諸新聞雑誌のうち修養に資すると思われるものを備え付けて舎生の閲覧に供していた」(『慶応義塾百年史中巻(前)』)ようである。

 また、演説討論会は三田演説会依頼の伝統でもあり、「普通生部と大学部生とが入り交じって大気焔を吐いたありさまはなかなかの偉観であった」(同上)とある。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-05-27 09:33 | その他 | Comments(0)

横浜 新聞博物館  いよいよ羯南展

 新聞研究の本家、横浜新聞博物館での展覧会の開催が迫ってきている。

6月20日のスタートに向け準備佳境のタイミング。

 同博物館のホームページにも、次回の企画展として予告が掲載されている。

 「  孤高の新聞「日本」

    羯南、子規らの格闘

  会期  2015年6月20日ー8月9日

  主催  東奥日報社、愛媛新聞社、日本新聞博物館」

http://newspark.jp/newspark/

 陸羯南研究会も、弘前の陸羯南会と共に、後援させていただいている。

 今年は、青木先生の十三回忌にあたり、会期中に先生の誕生日、7月4日を迎えることができる。

 関係のシンポジウムなど、順次お知らせさせて頂きたい。

   たかぎ 
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# by kuga-katsunan | 2015-04-26 21:03 | ニュース | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(84) 私立大学評判記(その73)

 前回、学校の存続にとって共同体性が重要であり、その共同体性を支えるためには、学風の醸成と確立がポイントであることを指摘した。そして、学風の醸成・確立にとって、寄宿舎の存在が大きな役割を果たすことにも触れた。

 今回から、慶応義塾大学の「独立自尊」の学風を醸成した寄宿舎を詳しく見てみよう。これでようやく「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」に入る。
 まず、古島一雄は次のように語る。

 「慶応義塾の寄宿舎は長さ六十間を有する三棟の建物より成る。建築は和洋を折衷し設備は全く洋風に倣う。舎を大別して六寮となし一寮各各々十八室より成る。室は三名乃至四名を容るべく、寮に長たる者を寮長と云い、室に長たる者を室長と曰う。皆な学生中の選挙に成る。其寮名を命じて友愛寮、清交寮、自信寮、確守寮と云うものは例の『修身要領』より適当の文字を選びたるものにして寄宿舎を監するものは三名の舎監なり」

 長さが六十間ということは約110メートルである。また、寮生数は全体で約400名となる。ちなみに、「学生生徒の在籍総数は明治30年前後が約1,000名で、33年から毎年2、300名ずつ増加し、38年には2,000名を超えている」(『慶応義塾百年史中巻(前)』)というから、寮生は、普通科や予科を含む全学生のおよそ3分の1から4分の1を占めていた。

 寮長、室長は学生から選挙で選ばれ、教員や外国人教師もいたが、寮生の一人として学生委員の指揮下にあった。当時、既に学生自治が確立していたのである。また、舎監は卒業生が勤めていたようである。なお、上記記事には、4つの寮名しか出てこないが、残りの2つは自立寮、進取寮である。【続く】

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-04-25 10:02 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(83) 私立大学評判記(その72)

 学校の存続にとって、次に重要なことは「共同体性」の確立である。
 それについて教育社会学者の天野郁夫氏が『大学の誕生(下)』(中央公論新社)で指摘しているが、ここではそれを敷衍して展開させていただく。

 「共同体性」とは、教職員・学生・卒業生による連帯感や一体感のことであり、学風に組み込まれている。学校はそれにより、永続的な組織体を維持することができる。

 その「共同体性」を支える要素が3つある。その最大のポイントは、専任の教員集団の存在である。学校の中心となるのは、やはり教員である。教員は言うまでもなく教育の担い手であるとともに、学風醸成の中心でもある。

 これまで触れたように、明治時代、慶応義塾大学・早稲田大学と明治大学等の他大学との評価が分かれたが、その要因は専任教員集団の存在にあった。慶応・早稲田は彼らに給与を支給し、海外留学へ派遣するなど、教員の養成に余念がなかった。したがって、彼らも給与によって生活が安定し、フルタイムで教育・研究に専念することができた。さらに彼らは学生と一緒に寄宿舎で生活し、日常生活が教育の場となっていた。

 一方、他大学の教員は、弁護士業や官吏等の本業を持ち、無給で、しかも夜間という限られた時間しか与えられていなかった。

 現在でも、専任教員集団の存在が共同体性の最大要素であることは言うまでもない。ただ、いかに優秀な専任教員をかかえることができるかが学校存続のカギとなる。さらには、経営や事務業務を担う事務職員も重要となっていることを指摘しておきたい。

 また、2つ目の要素は、長期間にわたるフルタイムの学生の存在である。長期間・フルタイムの学生の存在が、彼らを学校への帰属意識を植えつけ、愛校心を強めていく。さらに、学風醸成の担い手となり、それが学校の個性化へつながっていくのである。

 明治期の慶応義塾大学では、大学課程として5年間、授業時間は午前、午後であった。しかも学生は学校敷地内にある寄宿舎で生活していた。前述<羯南と古島一雄>(80、81)のように、そうした環境の中で「独立自尊」の学風が培われていったのである。

 他大学の学生を見ると、夜間のパートタイム学生が中心であり、しかも寄宿舎はなかった。慶応・早稲田と比較すると、後手に回らざるおえない。

 さて、ここで学風の重要性に触れておこう。学風は連帯感と一体感を生み、共同体性を支える。そして学風は教員と学生との相互作用から醸成される。教員が中心となって引っ張り、学生が担い手となって主体的な活動に表現していく。そして、学風が醸成される場が寄宿舎であった。寄宿舎は学生の自治組織で運営され、教員も学生の作ったルールにしたがって共に生活した。寄宿舎は学生に自律と自立を養う場として、重要な教育機能を担っていたのである。

 ちなみに、現在でも寄宿舎を取り入れている学校がある。国際教養大学は、1年間、全寮制であり、それが英語教育に効果を発揮し卒業生の評価も高い。京都大学では、グローバル人材を養成するための大学院「思修館」を創設したが、そこは全寮制である。世界のリーダーを育成する学校として注目されているインターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢も全寮制である。 

 共同体性を支える3つ目のポイントは、愛校心を持つ卒業生の存在である。明治期、慶応も早稲田も経営の危機に陥ったが、その危機を救ったのが卒業生からの寄付金であった。また、立命館大学では、大正時代に大学昇格問題が起こったとき、卒業生が全国組織を立ち上げ、募金運動を行った。そのことが卒業生の絆を強め、母校への愛校心を再確認させることになった。

 
 ここが企業と異なる点である。現在も卒業生の存在は重要であることに変わりはない。慶応義塾大学は、日本の全大学の中で最も充実した校友会組織を持ち、寄付金や募金につなげている。

 学校存続の本質は、過去も現在も同じである。その基本を外れないで、地道に積み上げて行くことが、学校の永続につながっていくのである。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-03-30 09:24 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで⑥

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」等によって、安重根(1879-1910年)についてみてみたい。

 安重根は、朝鮮の独立運動家で、1909年10月、満州ハルビン駅で初代韓国統監の伊藤博文を射殺した暗殺者である(1910年3月処刑)。陸羯南がソウルを訪ねてから8年後のことである。

 角田氏は、韓国の知識層においては、閔妃暗殺が日本の国家権力による犯罪であると理解している一例として、以下の通り伊藤博文暗殺事件を引用している(p.429)。

 「・・・裁判の記録を見ると、「伊藤博文をなぜ殺害したのか」という溝淵検察官の問いに対して、安重根は終始「東洋平和を妨げる人物であるから」と答え、伊藤の罪科15ヵ条を列挙している。その第1条に「今より10年ばかり前、伊藤さんの指揮にて韓国王妃を殺害しました」とある。閔妃暗殺事件当時の総理大臣だから彼が責任者である―というのではなく、伊藤が指揮をとって閔妃を殺させた、すなわち日本政府の犯罪であった、という解釈である。」

 またウイッキペディアによれば、「伊藤の死により韓国併合(1910年8月)の流れは加速され、暗殺は大韓帝国の消失という皮肉な結果をもたらしたという見方もあるが、当時の朝鮮族、ならびに今日の韓国では、後の朝鮮独立運動(1919年3月の「3・1独立運動」)にもつながる抗日義士であったとして、安重根は英雄視されている。一方、北朝鮮においては、神話的に喧伝される金日成の抗日パルチザンに比して、まず安重根には両班(資産家)という出身に矛盾があり、愛国的ではあったものの解決策を持たず、手段も目標も誤った人物であったという評価に留まっている。」という。

 さらに、「地球の歩き方D13 ソウル(2014-15)」ダイヤモンド社によれば、ソウル市内にある「安重根義士記念館」のコメントとして
 「・・・市民の募金によって創建された。独立運動家として韓国人の間で尊敬されているが、当初は併合反対だった伊藤を無計画なテロで殺したため結果的には併合を速めたことなど、マイナス面についての展示は見当たらず、評価は分かれる。」とある。

 なお、日中、日韓関係の悪化からハルビン駅構内にも「安重根義士記念館」が2014年1月に完成・オープンしている。これに対し、菅官房長官は、平和に資するものではなく「極めて残念で遺憾だ」と述べ、「安重根は我が国の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだと認識している」との政府見解を示したが、その後「死刑判決を受けた人物」にトーンダウンしている。

 このように日韓での安重根の評価は、大きく異なっている。

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2015-03-26 23:12 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで⑤

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」によって、三浦梧楼が閔妃暗殺を決意するに至った日本の事情等についてみてみたい。

 朝鮮は1876年に日本との間に日朝修好条規を結び、その後順次欧米諸国にも門戸を開放していった。

 一方日本は、朝鮮へ国権拡張を企図していたが、欧米諸国の朝鮮への利権獲得競争は、激しさを増していく。

 このような中、日清戦争(1894年7月~1895年3月)の勝利によって朝鮮での優位性を確保したはずの日本は、その後の三国(仏、独、露)干渉によって、朝鮮における立場が悪化していった。

 具体的には、以下のとおりであり、閔妃暗殺(1895年10月8日)後でも欧米列強の朝鮮進出は止まらず、日本の朝鮮における立場は一層厳しくなった。

1)1896年3月、京仁鉄道敷設権 アメリカモールスへ
*1894年日朝暫定合同条款によって日本に許可されたものを、朝鮮政府が勝手にアメリカ人に売却したものである。その後日本が譲受し、1900年京仁鉄道合資会社(社長:澁澤栄一)によって完成している。

2)1896年4月、威鏡北道慶源鐘城鉱山採掘権 ロシアへ

3)1896年7月、京義鉄道(ソウル=義州)敷設権 フランスへ
 *1905年、日露戦争の物資輸送のため、日本によって開通している。

4)1896年9月、茂山・鴨緑江・鬱陵島伐木権  ロシアへ

5)1897年3月、江原道金城郡堂峴金鉱採掘権 ドイツへ

 井上馨に代わって、在朝鮮公使となった三浦梧楼(1895年9月1日着任)は、着任以前から、日本の各界から朝鮮へかける期待に応えるのは、(ロシアへ傾倒を深めている)閔妃暗殺以外にないと心を決めていたという。

 なお、韓国のKSB・TVドラマ「明成皇后」では、伊藤博文が暗殺を指示(黙認)しているような筋立てになっている(第121話)が、角田氏は「伊藤博文が、閔妃暗殺を企てたとは考えられない。閔妃暗殺事件と日本政府との間に直接の関係はない」といっている。

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2015-03-25 23:20 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで④

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」によって、閔妃のプロフィールをみてみたい。

 閔妃は、1851年閔致禄の娘として生まれ、8歳で両親を失っている。

 第26代高宗の王妃選定について、大院君に次ぎ発言権を持っていたのは、大院君夫人であった。大院君夫人の生家は第3代太宗夫人に起源を有する閔氏であり、その一族である閔妃を推薦した。

 大院君は、嘗て金氏の勢道政治によって国運が傾いたことから、名門の出身だが親も兄弟もなく、勢道政治の危険性が低いと考えられる閔妃を気に入った。

 1866年、閔妃は15歳で大妃となった(高宗は14歳)。

 1873年高宗21歳(閔妃22歳)の時点で大院君は失脚、高宗の親政が始まった。同時に閔氏一族による勢道政治の幕開けとなった。これ以降、大院君と閔氏一族は20年以上にわたり権力闘争を繰りひろげ、これに改革派(開化派)と守旧派(事大党)の路線闘争も加わった。

 閔妃は小柄で華奢な体つきの美女で、物腰は優雅、頭脳明晰、学識抜群といわれた。しかし彼女は自分の意見に従わないものを許せない、愛憎とも激しい女性であり、反対派は徹底した弾圧を受けた。

 一方、高宗は、我儘で気弱で閔妃に寄りかかっていった。閔妃は相手が高宗だからこそ、思うがままに生きて、歴史に名を残す王妃となった。

 1876年の日朝修好条規(江華条約)を始め、欧米と修好通商条規を締結、高宗と閔妃は門戸開放政策を推進していった。

 1882年の壬午軍乱(興宣大院君らの煽動による兵士の反乱で、閔妃一族や日本公使館の襲撃等を行った事件)で、命を救われた閔妃一派は清国へ傾斜していった。

 1894~95年の日清戦争後の三国干渉による日本の威信低下により、閔妃は今度は親露政策に傾き、95年10月8日暗殺された(韓国では「乙未事変」という)。殺害された時、閔妃は43歳であったが、25~6歳にしかみえなかったという。

 1897年1月に閔妃の諡号を「明成」に、同10月に国号が大韓帝国に、閔妃は皇后となった。そして同11月に明成皇后の国葬が挙行された。

 当時の日本としては、殺害もやむなしかもしれないが、韓国国民が怒る気持ちも分かるような気がする。

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2015-03-21 10:42 | Comments(0)

弘前 郷土文学館  陸羯南展

 中国の旧正月の休みを利用して拝見した。

 日頃資料として所蔵はされていますが、なかなか展示される機会のない羯南関係の資料が数多く展示されており壮観です。

 「明治維新後、のちに陸羯南を名乗る中田實は、身を立てるために、東奥義塾、宮城師範学校、司法省法学校に学びました。そこで得た経験が、新聞『日本』で生かされました。国民主義を唱える『日本』は、政府の政策に反対して、しばしば発行停止処分を受けましたが、これに屈することなく、 『日本』は発行を続けました。この日本新聞社には羯南の人物と仕事に共感し、全国から秀才が集まりました。正岡子規がその一人で、羯南は病床にある子規に惜しみなく援助を続けました。子規は夏目漱石に、羯南のことを「徳の上から言ふて此のような人は余り類がない」と伝えています。羯南と子規の間には文人同士の深い繋がりがありました。  羯南は、晩年に清韓視察や世界一周の旅をし、50歳で亡くなっています。今回の展示では『日本』での業績をはじめ、世界一周の足跡を、当時の書簡や写真で紹介しています」(同館ホームページより)

  http://www.hi-it.net/~bungaku/

 本展は、来年1月3日まで開催。春の桜、夏のねぷた、秋の紅葉、冬の雪と四季を通じて、羯南の展示が楽しめます。

 6月からの横浜の日本新聞博物館での展覧会、その後、弘前市立博物館へと移動する予定になっています。まさに来年に向けて羯南イヤーの幕開けとなりました。

 郷土文学館の展示は、3月31日まで増設コーナーも含め展示されています。

「 新聞『日本』のダイジェスト版『日本附録週報』の俳句欄では、正岡子規自ら選句をするというので人気がありました。日本新聞社に籍を置いた正岡子規は、『小日本』廃刊後も『日本』第一面の俳句欄を受け持ち、河東碧梧桐や佐藤紅緑らの俳句、短歌も掲載されました」
                         (同館ホームページより)

 全貌をご覧になりたい方はお急ぎください。

 これまで全体を見ることが難しかった羯南が欧米視察の旅先から家族に送った世界各地の絵葉書も掲載した図録も必読。

  たかぎ
 

  
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# by kuga-katsunan | 2015-03-21 09:26 | 紀行 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで③

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」によって、高宗(閔妃の夫)の実父である大院君(興宣君是応、1820-1898年)が権力を握る迄の朝鮮王朝の権力構造の歴史について、概観してみたい。

 1392年李氏朝鮮・李成桂(太祖)が高麗を滅ぼし、首都をソウルに定めた。国教を仏教から儒教・朱子学へ転換した。この儒教の教えが先祖を敬うという風習を残したといえる。

 15世紀頃から、官僚機構は両班(武班と文班)に分かれ、この家に生まれたもののみ科挙の受験資格が認められ、この両班が権力闘争を繰り返した。

 22代正祖の時代には両班の争いが下火になったが、代わって勢道(セド)政治が横行した。勢道政治とは、王の信任を得た人物あるいは集団が政権を独占する状態をいう。日本の藤原家が実権を握った摂関政治に似ているかもしれない。

 この勢道政治の中心になったのが、安東金氏一族である。23~25代の王后は、金氏一族から選ばれ国家の要職を独占し、王族を虐待した。

 そして25代哲宗が亡くなった瞬間、王室の最高位は、23代王純宗の子であり、24代王憲宗の父である翼宗(孝明世子)の妃である趙大王王妃(神貞王后)となった。

 趙大王王妃は金氏でなく趙氏であったため、大院君と組んで大院君の第2子である命福を、1864年第26代の王(高宗)に就任させることに成功した。高宗はこの時11歳であったため、大院君が権力を掌握することができた。

 形式的には1864~1866年までは趙大王王妃の垂簾政治(簾の内で摂政として政治を行うこと)後、大院君が実権を握った。

 大院君の業績として、プラス面では、有能な人材の登用、官制改革、小作人制度撤廃等がある。一方、マイナス面では、1865年~多額の財源を使い、景福宮の再建工事の実施、1866年のキリスト教徒大弾圧、極端な鎖国政策等である。大院君には権限の濫用、独裁が認められた。

 このため、高宗が21歳になった時(1873年)、大院君は失脚した。代わって実権を握り、勢道政治を行ったのが、閔妃とその一族である閔氏である。

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2015-03-16 23:15 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで②

 閔妃暗殺の首謀者で駐韓公使の三浦梧楼と陸羯南の関係についてみてみたい。

 三浦梧楼(1847-1926年)は、長州出身ながら藩閥政治に反対の立場をとった政治家である(西南戦争で城山を陥落させた元軍人、最終階級は陸軍中将、学習院院長、枢密院顧問官等を歴任)。

 有山輝雄(2007)「陸羯南」吉川弘文館,pp.92-95によれば、陸羯南は、『東京電報』(新聞『日本』の前身)入社の経緯について、(領事裁判権を残すような)条約改正交渉への反対運動などで「浪人仲間に入らんとの念」を抱いたという。

 浪人仲間とは「不平将軍」と呼ばれていた陸軍フランス派の谷干城、三浦梧楼らのグループと若手知識人の杉浦重剛、高橋健三、宮崎道正ら乾坤社同盟のことである。

 乾坤社、不平将軍、実業者は『東京電報』のパトロン(資金提供者)であり、一方彼等は自分達の機関紙を求めていたという。

 また、春原昭彦(2001)「陸羯南」『日本の新聞人⑩』日本新聞博物館,11号によれば、「この新聞には条約改正問題をめぐり、政府の欧化政策に反対する三宅雪嶺、志賀重昴、杉浦重剛、三浦梧楼、谷干城らの支援があったが、その立場は単なる西洋排撃ではなく、日本の主体性を保持しつつ欧州の文明を取り入れるべきだとするもので、陸は"国民旨義”と言っている」とある。

経営学的にいえば、経営者(陸羯南)と株主(三浦梧楼、谷干城ら)の関係といえよう。

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2015-03-13 03:13 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで①

 たかぎ主筆と本年1月にソウルを往訪、陸羯南の足跡を辿った。それに関連して、角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」新潮文庫,1993年を読んだのでその内容の紹介と若干の感想を述べてみたい。

 結論として角田氏は、「謎が多い事件ではあるが、資料に基づく限り、1895(明治28)年10月8日、第26代王・高宗の王妃である“閔妃”を暗殺したのは、駐韓公使の三浦梧楼である。」(p.430)としている。そして閔妃暗殺(乙未)事件と日本政府(含む伊藤博文、陸奥宗光)との間に直接の関係はないという(p.439)。

 一方、韓国知識層の今日までの一貫した見解は、「暗殺隊の主力は日本軍で、その総指揮は日本の公使であり、国家権力による犯罪である」という。また伊藤博文を射殺した安重根は、伊藤博文の罪状の第一に韓国王妃の殺害を挙げている(pp.428-429)。なお、韓国のKSB・TVドラマ「明成皇后」でも伊藤博文が暗殺を指示しているような筋立てになっている(第121話)。

 この辺りが日韓の歴史認識の“ズレ”と言えるかもしれない。

 さて、次稿以降、②三浦梧楼と陸羯南の関係、③高宗の実父である大院君(興宣君是応)が権力を握る迄の朝鮮王朝の権力構造、④閔妃、⑤三浦梧楼が閔妃暗殺を決意するに至った日本の事情、⑥安重根について、順にみてみたい。

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2015-03-10 22:23 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(82) 私立大学評判記(その71)

 学校の存続にとって、何がポイントなのかをまとめてみたい。

 まず、押さえておかなければならないのは、「学校は社会的存在」ということである。つまり、学校は人間の幸福のため、社会に必要な教育を提供することが求められる。

 したがって、学校そのものが、その時代の世界観・価値観の反映であり、いわば、時代を映し出す鏡でもあるのだ。

 さらに、社会的存在ということは、社会の要請、ニーズの変化によって、学校も変わることが求められる。

 未来学者のドラッカーは、会社は社会のために存続し、利益のためではなく、人間の幸せに導くために存在している、と述べているが、学校も同様である。いや、むしろそれ以上に学校こそが、人間の幸福のための根本的基盤として存在しているのである。

 歴史を振り返れば、明治時代前期、明治維新という時代転換期に存在した学校は、江戸時代、教育の中心であった儒学中心の藩校や私塾ではなく、西洋の学問や外国語を教える、新たに設立された私塾であった。もちろんその中には、慶応義塾も含まれている。
 

 明治中期には、日本が立憲国家となり、法律制度を支える人材が求められ、その養成機関として数々の法律学校が設立された。それが現在の中央大学、明治大学、専修大学等の前身であった。

 明治後期の法律系大学では、棲み分けが行われていた。それが、英米法の中央大学、フランス法の明治大学であり、専修大学は、当初、英米法の法律科が中心であったが、志願者激減のため、経済科中心に移って行った。

 大正時代になると、第一次大戦による経済発展を迎え、大学、専門学校卒業生への企業による需要が増大したため、官公私立の大学、専門学校が増設された。

 また、それまで大学の呼称を使用していたにもかかわらず、制度としては専門学校であった慶応義塾大学、早稲田大学等の私学は、大学令によりようやく正式な大学と認められた。 
 
 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-02-26 09:36 | その他 | Comments(0)

京城の幻影

羯南と篤麿の一行は、中国の旅の後に朝鮮半島に上陸している。

今回の私の旅では、北京からソウルに飛びその足跡をめぐったが、奇しくも中国文明の伝播の道と同じように歩いたともいえる。

民芸運動で有名な柳宗悦は、朝鮮美術の核心をいちはやく見出だし、その文化の象徴ともいえる光化門の日本人による破壊に反対した。

「光化門よ、光化門よ、お前の命がもう旦夕(たんせき)に迫ろうとしている。
お前がかつてこの世にいたという記憶が、冷たい忘却の中に葬り去られようとしている。
どうしたらいいのであるか。

光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終ろうとしている。
お前は苦しくさぞ淋しいであろう。
私はお前がまだ健全である間、もう一度海を渡ってお前に逢(あ)いに行こう。」
(失われんとする一朝鮮建築のために、1922年)

この20年前に羯南たちは、この門をくぐり、その110年後に私たちはその美と風格に圧倒された。
けだし宮殿は、中国文明の同根の観はぬぐえないが、一方この門は不思議なことに朝鮮独特の風合を持ったものであった。

この巨大な文明の灯台の光が我が国をどのように照らしたか、もう一度、京都御所等を歩き考えてみたいと思う。

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2015-02-06 22:23 | 紀行 | Comments(0)

羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る(最終)

「近衛篤麿日記」(第4巻)pp.245.によれば、羯南ら一行は、8月21日は京城学堂に行き、漢城新報館落成式に出席している。

京城学堂は、漢城病院の向かい側にあった模様で(1903年5月30日京釜鉄道㈱作成の「韓国京城全図」で確認できる。)、今の明洞の繁華街にあったことになる。

 平和政策研究所の2014.6.13付レポート「日韓歴史認識の構造」によれば、

「京城学堂は1896年に日本組合教会(キリスト教)系の大日本海外教育会が朝鮮に創設したものである。この団体は朝鮮半島のみならず中国大陸にも近代教育振興のために学校を建設している。

その資金は、日本政府の補助金に加えて、当時の政財界(伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一など)からの寄付によって賄われた。

 特に、渋沢栄一は熱心な支援者であったようで、彼に提出されたと思われる京城学堂の報告書が『渋沢栄一伝記資料集』に残されている。

その資料によれば、入学者の中には、没落した両班家系の子弟が多く含まれていたと報告されている。つまり当時の朝鮮の支配層から疎外され不満を抱いていた人々の子弟である。

このような疎外感や不満が、彼らをして日本を背景に官界への進出を後押ししたであろうし、また日本も親日派の育成にそれを利用したものと思われまる。

 京城学堂の卒業生は200名ほどだったが、そのうち履歴書で確認される範囲だけでも40名が親日派官僚として朝鮮総督府に入っている。

そして、この学校は民間で設立されたが、日本にとっても重要な位置づけの学校であったことから、1906年には官立第二日語学校に格上げされた。

 このようなことから、日本の支配層もこの京城学堂を大きな関心を持って見ていたようである。まず、先ほども触れた渋沢栄一は次のように述べている。

「商業上より観察して、京城学堂の拡張をはかるの今日の急務なるを認むる者なり」(『太陽』5巻5号)。

渋沢は単に資金援助を行うだけでなく、直接、韓国に訪問した際、京城学堂に立ち寄り、学生に奨学金を手渡して未来を語りつつ励ましたという。

 また、大隈重信は「京城学堂出身者の者にして京城、或は仁川に於ける日本商估の店頭に、或は朝鮮人に接し、或は日本人を迎へて商業を営める者を見るは、現に利益の点よりも得る所頗る大なるのみならず、政治上の関係に於て、亦た極めて利益あるを疑はざるなり」(『渋沢栄一伝記資料集27』)と述べている。

 伊藤博文に至っては「日本人の事業にして真に奏効したのは京城学堂のみ」(岡田哲蔵『本多庸一伝』)と語り、その意義を高く評価している。・・・」

ということで、この学校に対するわが国の期待の大きさが伺えるとともに、統治にはやはり現地の優秀な人材が必要であったことが確認できた。

漢城新報本社の場所は特定できなかった。漢城新報は、1906年に大同新報と合併し、京城日報(1930年の地図「京城附近」によれば、京城日報本社は現ソウル新聞社辺りにあった模様。)となったが、1945年に廃刊。

廃刊時の社員がソウル新聞となって、事業を引き継いでいる。

翌22日16:40京城を後にし、18時過ぎに仁川到着、23日は仁川市内で教育衛生大会参加、歓迎会等で過ごし、24日の13時仁川を出帆し、木浦に向かっている。

しぶさわ

写真:京城学堂があった明洞地区の現況(小澤教授と)
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# by kuga-katsunan | 2015-02-05 22:50 | 紀行 | Comments(0)

羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る⑤

「近衛篤麿日記」(第4巻)pp.244-245.によれば、羯南ら一行は、8月20日は京釜鉄道の起工式に出席している。

京釜鉄道起工式は、京仁鉄道線の永登浦(ソウル駅から南西約8km)で行われた。

ウイッキペディアによれば、京仁鉄道は、当初、アメリカ人モーリスが、朝鮮政府から敷設権を獲得し建設を開始したが、労働争議、支払い争議問題で頓挫した。そこで、建設半ば180万円で日本の澁澤栄一らの京仁鉄道合資会社に売却された。これを澁澤栄一らが完成にこぎつけ、朝鮮半島最初の鉄道となったという。

モーリスは京城=釜山の鉄道敷設権も獲得していたが、資金難のために敷設権を日本が譲り受け、京釜鉄道を設立し、1901年に着工した。羯南らはこの起工式に出席していたことになる。

その後、京釜鉄道は、建設中の1904年に日露戦争が勃発すると、軍事物資の決戦輸送のために突貫工事で建設され、一部河川などはフェリーで輸送する暫定的なものながら1905年に全線開通し、日本の対露戦勝に貢献した(なお、同社は1908年に韓国統監府に売却、清算されている)。

この鉄道は戦略的に大変重要な地位を占めていたこととなり、この起工式典出席は今回の一連の旅行の大きな目玉の一つだったのかもしれない。

しぶさわ

写真上:旧ソウル駅舎

写真中:KTX(韓国高速鉄道、仏TGVの技術導入、最高速度305km/h)とたかぎ主筆

写真下:2014年5月~運行開始したITX-セマウル(主要幹線で運行、最高速度150km/h)

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# by kuga-katsunan | 2015-02-04 23:00 | 紀行 | Comments(0)

羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る④

「近衛篤麿日記」(第4巻)p.243.によれば、羯南ら一行は、8月19日に漢城病院、慶運宮(皇帝、皇太子に拝謁)に行っている。

南山図書館のホームページの沿革を見ると、
「1922/10 京城府立図書館開館(中区明洞2街25所在、旧漢城病院の建物を図書館として改修)」
とあった。現在25番地は、明洞地区の繁華街(原宿の竹下通りのような感じ)の一角になっていた。

次に「慶運宮」は、李氏朝鮮第14代国王・宣祖(ソンジョ)が、1593年に荒廃した景福宮のかわりの臨時の王宮とし、第15代国王・光海君が「慶運宮」と命名した。しかし光海君が昌徳宮に移ると廃墟となった。

1895年に第26代国王・高宗の妃・閔妃の暗殺された後、高宗は慶運宮を改修し、居住した(1897~1907年は初代大韓帝国皇帝)。そして第2代皇帝純宗が「慶運宮」を「徳寿宮」と改名し、現在に至っている。

羯南らはこの初代皇帝・高宗と皇太子(第2代皇帝純宗)に拝謁していたことになる。高宗はあまり政治に関心がなかったようなので、羯南らも心もとなく感じたことであろう。

しぶさわ

写真:明洞地区25番地の漢城病院跡(小澤教授とともに)
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# by kuga-katsunan | 2015-02-03 22:35 | 紀行 | Comments(0)

羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る③

 「近衛篤麿日記」(第4巻)p.243.によれば、羯南一行は、8月18日昌徳宮(仁政殿他)、景福宮(勤政殿他)、慶会楼等を巡っている。

たかぎ主筆と小生も、順に巡ってみた。

昌徳宮は、李氏朝鮮第3代王太宗(テジョン)が1405年に建てた離宮。1592~1598年の文禄慶長の役で焼失し、1615年に第15代王の光海君が宮廷として再建した。景福宮が再建される迄、歴代の王が政務を執ったという。1997年ユネスコ世界遺産に登録された。仁政殿は昌徳宮の正殿。

景福宮は、李氏朝鮮初代の李成桂(イソンケ)が1394年に建てた王宮。16~19世紀までの270年間は、文禄慶長の役や満州王朝(後金、清)の侵入により焼失し放置された。その後1995年に光化門と興礼門の間にあった旧朝鮮総督府庁舎(1910年築)の解体を含め復元・補修が進んでいる。

南側の光化門、興礼門と続く北側に韓国最大の木造建築物である勤正殿がある。勤政殿で王の即位式、大礼が行われた。その奥に王が政務を執った思政殿があり、更にその奥に②でも述べた香遠亭・閔妃の乾清宮がある。

慶会楼は北に向かって思政殿の左奥にあり、韓国最大の楼閣である。科挙の最終試験にも使われ、景福宮随一の美しさと言われている。

篤麿のこれらの宮に関する記述は淡々と描かれているが、この時期景福宮はまだ復興が不十分なものと推定され、このままではあっという間にロシアに占拠されてしまうと感じたに違いない。

また、景福宮、昌徳宮、宗廟(李氏朝鮮歴代19代の王と王妃の廟)などは、ソウル市街の北部にあり、日本の平城京・平安京の大内裏が都の北部にあったこと(北けつ型)と共通するところがあると感じた。

なお、光化門から南へ延びる大通りには、第4代世宗大王(セジョンデワン)の銅像、李舜臣将軍の像(文禄慶長の役の際に水軍を指揮)があり、この二人が、現代でも韓国の英雄であることが分かった。

しぶさわ

写真上は、昌徳宮の仁政殿

写真中は、景福宮の勤政殿

写真下は、慶会楼
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# by kuga-katsunan | 2015-02-01 11:52 | 紀行 | Comments(0)

羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る②

 「近衛篤麿日記」(第4巻)pp.242-243によれば、篤麿、羯南一行は、明治34(1901)年8月14日芝罘(チーフー,中国・山東省・煙台市)を午後4時に出帆。15日午後4時に仁川に上陸している。

16日支那・日本・各国居留地・朝鮮市街地を一覧後、16:45仁川発の列車で、18時過ぎに京城(ソウル)に到着している(なお、現在の高速鉄道では、仁川空港=ソウル間は43分である)。

17日(同書p.243)は、「・・・電気鉄道にて東大門に赴き、・・・閔妃の廟に至り、・・・」とある。

そこで我々は、まず東大門(興仁之門)を訪れた。北側にはソウル城壁の後も残っており、京城が城壁に囲まれた都市であったことが推認できた。

次に、「閔妃の廟」については、1919年に京畿道南楊州市金谷洞の洪陵(高宗と合葬)に移されているということで、跡地の確認ができなかった。そこで我々は、景福宮内部の香遠亭の北側にある閔妃が居住していた乾清宮をみることで甘んじた。

更に電気鉄道については、ソウル歴史博物館前に1968年11月の廃線直前のものと思われる路面電車があった。運転台の駆動部に「三菱電機製」と視認できた。1901年当時は、それまで京都市電から出向の日本人運転手からアメリカ人運転手に移行していた時期にあたる。

 なお、九州大学松原教授の研究室の1901年京城地図(http://matsu.rcks.kyushu-u.ac.jp/lab/?page_id=847)によれば、17日の記述に出てくる「日本領事館」は、南大門(崇礼門)北東部に、日本公使館は、明洞駅の南部、南山の近くにその存在が確認できた。

(注1)裵賢美(1997)「韓国と日本における都市中心部形成過程における比較研究」東大農学部演習林報告pp.31-32において、1903-1904年頃の鐘路の路面電車や忠部路の街の様子が伺える。

(注2)閔妃については、角田房子(1993)「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」新潮文庫が詳しい。

写真上は、東大門

写真中は、香遠亭の奥に乾清宮を望む。

写真下は、ソウル歴史博物館前の路面電車

しぶさわ

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# by kuga-katsunan | 2015-01-26 23:09 | 紀行 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(81) 私立大学評判記(その70)

 引き続き「慶応義塾の寄宿舎」(天耳生『慶応義塾学報』第70号)からである。本来、教育の中心であるはずの講堂(当時はここで授業をしていた。)について、以下のように批判されている。大事なところなので、少し長くなるが引用する。

 「元来学校の学風というものは、殺風景な講堂内の机の上で製造せらるべきものではない、もともと講堂といふものが学芸の売買場なので、理屈家は種々の鹿爪らしい理屈を付けて、講堂は神聖だのと、一応は有難いことをいって見るものの、実は矢ッ張り勧工場の様なもので、教師は売手で、生徒は買手、教師は講堂へ店を張て、生徒が之を買ひに来るといふ仕掛なのである。」

 「勧工場から学風が出たためしがない以上、また講堂から学風が湧て来る道理はあるまい。ケンブリツヂ大学や、オツクスフオード大学の学風はその寄宿舎に存するといふではないか、本来寄宿舎は学校の中心たるべき所なので、所謂品性の陶冶は、即ち此処で成就さるべきものである。」

 上記に語られているように「学風」が学校の存続にとって重要な要素となる。学風が学生間、また教員との一体感を生み、連帯感を強化する。また、それが学校の個性ともなのである。この「学風」という組織風土こそが学校の本質とでも言ってよいのかもしれない。

 学風は寄宿舎という学生同士が毎日、顔を突き合わせる場で、勉学に切磋琢磨するだけでなく、日常生活や“釜の飯”を共にし、全人的なかかわりのなかで育まれて行くものなのである。

 既に古島一雄が当時の授業をルポルタージュして述べていた(<羯南と古島一雄>(77))ように、講堂では教師が講義ノートを一方的に読み上げるだけの授業が行われていた。ここからは学風は生まれない。慶応の学風である「独立自尊」が醸成されたのは講堂ではなく、寄宿であった。
 天耳生は、以下のように述べている。

 「慶応義塾の本色がその寄宿舎に在るといふのは取りも直さず之なので、学校を一家と見れば、講堂はその店頭で、寄宿舎はその家庭である。慶応義塾が五十年来の教育主義は即ち此処で実現せられたので、慶応義塾の寄宿舎は慶応義塾其物であるといふことが出来る。若しも今此慶応義塾からその寄宿舎を取去れば、慶応義塾は最早ゼロで、今の偏狭固陋の教育主義に抗戦して『独立自尊』の光輝を発揚すべき唯一の武器を失ったものといわねばならぬ。」

 学校にとって「学風」の重要性というのは現在でも変わらない。次回、学校の存続にとって何がポイントなのか、もう少し深く掘り下げてみようと思う。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-01-21 10:16 | その他 | Comments(0)

羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る①

 有山輝雄『陸羯南』p.225によれば、明治34年7月10日~8月30日までの間、近衛篤磨・陸羯南等5名は清国・韓国旅行を行っている。
 そして『近衛篤磨日記』pp.242~255によれば、上記旅行のうち、一行は同年8月15日~24日に仁川・京城(ソウル)に滞在している。

 同日記などによって主な見学先・訪問先を見れば以下の通り。
8月15~16日 仁川市内
17日 東大門、閔妃廟等
18日 昌徳宮(仁政殿等)、景福宮(勤政殿、思政殿、慶会楼等)
19日 漢城病院、慶運宮(皇帝、皇太子に拝謁)
20日 京釜鉄道起工式
21日 京城学堂、漢城新報館新築落成式 
22~24日 仁川市内

 以上の内容に基づき、北京在住のたかぎ主筆とともに、また韓国外国語大学の小澤康則教授の協力・情報提供も得て、羯南の京城(ソウル)での足跡をトレースしてみた。
 内容詳細については次稿以降で述べたい。
 
しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2015-01-20 22:09 | 紀行 | Comments(0)

横浜 日本新聞博物館<孤高の新聞日本 羯南、子規たちの格闘(仮題)>

 来年は、青木先生の十三回忌にあたります。

 青木先生の誕生日である7月4日をはさんで、新年2015年6月20日から8月9日まで、横浜の日本新聞博物館で、

     <孤高の新聞日本>

    羯南、子規たちの格闘(仮題)

 と題する展覧会が開催される予定です。

  主催、東奥日報、愛媛新聞、日本新聞博物館

 弘前の陸羯南会さんとならんで、私どもの陸羯南研究会も協力させていただく予定です。

http://newspark.jp/newspark/

 これまで、発表されてこなかった資料等を含め、新聞日本とその周辺環境、国際情勢を含め、新たな視角を切り開ければと思っております

 乞う、御期待

たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-12-30 17:04 | ニュース | Comments(0)

弘前郷土文学館  陸羯南展 新年開幕 

  陸羯南の故郷の弘前で、新年1月から展覧会が開かれる予定です。 

http://www.hi-it.net/~bungaku/contents/tenjiannai.htm

  詳細は、HPでのご案内を確認して、ご紹介させていただきます。

  たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2014-12-30 16:53 | ニュース | Comments(0)

子規博だより  

 今年、8月に松山の子規博物館で、新聞日本と子規が編集長を務めていた小日本についての講演をさせていただきました。

 先週、発行された<子規博だより>に内容が掲載されましたので、是非ご覧頂ければと存じます。

(上)、(下)二回にわけての掲載ですので、後半は、新年の春の号に掲載される予定です。

 来年は、青木先生の十三回忌、記念になるような一年にできれば、思っております。

たかぎ
 
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# by kuga-katsunan | 2014-12-30 16:43 | トピックス | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(80) 私立大学評判記(その69)

 「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」に入る前に、今回は『慶応義塾百年史中巻(前)』から、明治36年(1903年)10月刊の『慶応義塾学報』第70号に紹介された「慶応義塾の寄宿舎」を取り上げよう。

 これはその年4月に大学部政治学科を卒業し、普通部教員兼寄宿舎舎監となった板倉卓造が、天耳生というペンネームで記述したものである。当時、慶応義塾の寄宿舎とはどのような意味があったのだろうか。実は、それが学校教育の本質につながるとらえ方なのである。
 まず、次のように始まる。

 「偏狭固陋の教育主義が横行する今の世に、若し私立学校存立の必要がありとすれば、そはこの偏狭固陋の教育主義に対して反旗を翻へすものでなくてはならぬ。是れ即ち私立学校の天職で、またその主たる存立条件である。慶応義塾が五十年来、『独立自尊』を標榜して、新教育主義を鼓吹しつつある所以のものは、即ちこの天職を全うせんが為めである。」

 「偏狭固陋の教育主義」とは、官立学校のように国家に奉仕する人間を養成するための教育を意味すると思われるが、それに対し、私立学校の雄を自負する慶応には、「独立自尊」という個人の自主独立の精神を 学風として培ってきたとする心意気を感じさせる。
 そして、以下のように続く。

 「しかしながら、一言に慶応義塾といへば何人も三田の丘頭に聳ゆる巍たる赤煉瓦の建物を連想するであろうが、慶応義塾の本色は、蓋しこの中央の建物よりも、寧ろ丘の北隅に横臥せる長方形の寄宿舎に存するのである。」
 

 慶応の教育の本質は、授業をする講堂にあるのではなく、生活の場である寄宿舎にあるという。古島一雄も同様な見方をしていた。
 次回はさらに掘り下げられていく。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-12-28 07:38 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(79) 私立大学評判記(その68)

 今回は「私立大学評判記(二十三)慶応義塾の講堂と食堂」の最終回である。
 学生自治による食堂の運営は以下のように行われていた。

 「賄方に於ける十数名の行政官(名ヅケテ炊事委員ト云フ)は凡て寄宿舎生の選挙より成るものにして、之を分かちて仕入係、消費係、器物保管係、会計検査係、食事衛生係の五課と為す。仕入係は米肉野菜薪炭其の他一切の原料の仕入れを司り、消費係は原料の如何に消費されつつあるやを監督す。器物保管係、会計検査係は読んで字の如く。食事衛生係は食物器物食堂の清掃を保持するの責を有す」

 当時すでに学生による選挙という民主的制度が導入されていたことは注目に値する。
 さらに次のように続く。

 「此の五係の下数名の炊夫、ボーイ及び炊事監督人一名、書記二名を雇入れ、炊事監督人は水夫ボーイを監督すると同時に原料の買出し炊事一切の実務を指摘統括し、食事の献立は一週一回炊事委員会の議決に依て行はる」

 このように食堂の運営は学校側による管理ではなく、学生たち自らの手によってみごとに組織化され、経営されていたのであった。当時としては画期的であり、しかも慶応義塾が標榜する「独立自尊」が学風となって表れている。
 古島一雄は以下のように最後をまとめている。

 「是れ自治制度の大要にして、此制度が円満に行はれつつあるは一は塾風に適せるが為めなりと雖も、講堂に在て最も平凡なりし塾風が食堂に於いて著しく其特色を発揮せるは争う可らざる事実たりしなり」

 食堂の運営は明治33年(1900年)に寄宿舎が新築されて一層、整ったようである。その背景には、明治30年前後の学制改革をめぐっての若手教員の革新機運をきっかけに、学生にも活気が伝播し学生の自主的活動が盛んとなった。それは学生の学会やクラブの誕生、学生自治会の結成、野球部の活躍などに表れている。そして、その中心となったのが寄宿舎であった。(『慶応義塾百年史中巻(前)』)  

 次回はその寄宿舎を取り上げよう。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2014-11-27 09:15 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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