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<羯南と古島一雄>(91) 私立大学評判記(その80)

 今回で「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」も3回目となる。
 前回から時代が下り、町人主義批判への反論を、古島一雄は次のように加える。

 「更に下って牛場時代となり、鎌田、谷井時代となり、豊川時代となり、柏田時代となるや。塾規は漸く整頓し、福澤氏亦矢野等の官途に就くを許すに至り。人生官吏となるの必ずしも罪悪にあらざるを知りと雖も、民間政論の勃興と共に藩閥の官吏たるは隆参の意味に於いて解せられ。」

 牛場とは牛場卓蔵のことであり、時事新報の記者、山陽鉄道総支配人となり、実業家、政治家として活躍した。また、鎌田は鎌田栄吉であり、第4代の塾長である。後に政治家となって文部大臣に就任したこともあった。谷井は谷井保のことだと思われる。紀州藩出身で、鎌田と共に慶応義塾に入学したという記述が見られたが、それ以上のことはよくわからなかった。

 豊川とは、豊川良平のことであり、第百十九銀行(現在の三菱東京UFJ銀行の前身)の頭取、三菱合資会社の支配人を歴任し、実業家、後に政治家として大いに活躍した。柏田は柏田盛文であり、東洋自由新聞の創刊にかかわり、後、政治家、さらに第四高等学校校長となった。
 
 この頃には、福澤諭吉も塾生が官吏の道へ進むことを許していた。しかし、自由民権論が活発になるにしたがって、やはり官吏への就職は、「降参」といわれるほど慶応義塾内では嫌われた。
そして、古島は以下のようにつなげる。

 「ミル、スペンサー、ベンザム、ボックル、ギゾーの著書に養われたる彼等は、講堂に出ては民権の大義を説き、稲葉山の老木に攀じては自由の真理を論じ、慶応義塾は純然たる政治学校として其面目を発揮したるにあらずや。」

 もちろんミル、スペンサー、ベンザムは現在でも哲学者としてよく知られている。また、ボックルは『イギリス文明史』の歴史学者、ギゾーは歴史学者、政治家として当時活躍していた。こうした西欧理論を学んだ学生は、それを活かして大いに政論を戦わせていた。さながら慶応義塾は政治学校であったという

 一方、次のような福澤のエピソードもあった。

 「当時美澤某なるものあり入塾して始めて福澤氏に見るや、氏突如として其族籍を問う。某答ふるに農家の産なるを以ってす。氏手を激して曰く休めよ休めよ帰ってドブロクを造るに如かずと。顧みて傍人に言って曰く『百姓の子は学問しても役に立たぬ理』と。当時福澤は米人某氏の遺伝論を信ぜしなり。此時に当たって彼の塾中果たして一人の町人主義ありし乎。」

 この逸話のように福澤には、この当時、遺伝子論の影響で、農民に対して偏見があった。
 したがって、以上のようなことを鑑みると、古島は慶応義塾が町人主義にはあたらないというのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-11-21 09:01 | その他 | Comments(0)

日本鉄道史

老川慶喜著(2014)「日本鉄道史 幕末・明治編」中公新書のpp.176-178に、「青森県人 陸羯南の予言」という項があるので、ポイントを紹介したい。

・1891年9月に日本鉄道が全通するまで、青森-東京間の移動は
陸路・徒歩:20日
馬車:12日(運賃は22~23円)
海路(函館経由):4~5日(1日1便で輸送力に限度あり)

・日本鉄道(青森-東京間)では
26時間40分
運賃:下等=4円55銭、中等=9円10銭、上等=13円65銭

以下p.177をそのまま引用する。

「・・・陸羯南は『東奥日報』(1890年7月13日)に「鉄道敷設後の陸奥国(承前)」を寄稿している。そのなかで、日本鉄道の全通によって東北地方は「利益を享受」するが、「利益の傍らには必ず弊害」があると警鐘を

鳴らしていた。陸によれば、その弊害とは「生産と消費の不釣合」に他ならなかった。すなわち、鉄道が開通し交通の便がよくなると人々の需要が増加する。しかし東北地方は「農産水産」の地なので、需要を他の地方

に仰がねばならない。試みに「農産水産」の年額を150万円、他の地方に仰ぐ「需要品の総額」も150万円とし、前者は増加しないが、後者は2割ほど増加すると仮定する。すると「需要品の総額」は180万円となり、青

森県は30万円を失うことになる。・・・」

と予言したという。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-11-12 23:41 | その他 | Comments(0)

合肥  李鴻章故居

 北京の李鴻章の邸宅が特定出来ないでいる。
彼の故郷、合肥に行く機会があったので、その家を訪ねた。
 合肥は、安徽省の省都、北京からは、高速鉄道で4時間、北京を出て、天津、済南を通って、次の停車駅が合肥だった。
 以前、上海に駐在していた頃、仕事で二回ほど行ったことがあったが、そのころ、2000年前後には、省都といえども、本当の田舎街で、外国経営のホテルもノボテルが出来て画期的、と騒がれていたレベルであった。それから12年、今回、高速鉄道の駅からタクシーでホテルに向かって驚いた。
 今や、高層ビルが立ち並び、高架道路も完備された近代都市となっていた。
 李大人の故居は、旧市街の中心地、観光客向けの歩行者天国の一角にあった。
 故居に行ってくれと頼んだタクシーの運転手は、歴史が好きなのかと聞いてくる。
下関の講和条約の時に、李大人を狙撃した男は、日本では英雄になっているのか、と厳しい質問をしてくる。講和交渉の使者を狙撃するのは、日本の感覚では英雄とはいえない、と答えると、日本の攻撃は奇襲が多いからな、と切り返してくる。
 一理あるので、つまっていると、目的地についた。
「ここで、よく歴史を勉強してくれ」
 と送り出してくれた。
 歩行者天国を歩いてゆくと、雨の朝とは思えない位、名所の前は人だかり。やはり合肥といえばここなのだろうか。
 どんな場所かは、昨年6月に行かれた方が、写真入りの詳細な旅行記を書いていらっしゃる。

http://4travel.jp/travelogue/10902052

 中国語のわかる方はこちらもご覧下さい

http://www.anhuitravel.com.tw/Anhui_Scenery/Anhui_Attractions/Attractions.aspx?cid=54&id=2967&t=1


 改めて、彼の生涯を振り返ると、清末の苦しい時期に、渾身の力を振り絞った政治家だったことがよくわかる。
 羯南たちが、北京で会った時も、義和団の乱、北清事変の後始末で苦悶している時期で、会談の内容が残っているわけではないが、実質的に明治天皇の名代でもある近衛篤麿一行をむかえ、日清戦争、北清事変と負けが連続している老大国を背負いながら苦渋の面談ではなかったかと思えてくる。
 羯南たちに会ったのが8月、9月に北京議定書を締結し、10月30日には大喀血、11月7日に亡くなった。78歳という長命、民族に尽くした生涯といえる。
 彼の伝記を書かれた岡本隆司先生が、彼の絶唱を引用している。
    「秋風の宝剣
     孤臣涙す
     落日の旌旗
     大将の壇
     海外の塵氛
     なお未だやまず
     諸君作す莫かれ
     等閑に看るを」   (岡本隆司 「李鴻章」 岩波新書 2011年11月)

 上海時代に、李大人の愛姫、丁香の邸宅だったレストランに何回か行ったことがある。
当時はその広壮さに、李大人を羨んだものだが、改めてその生涯を見る時、此の位はかるいものだと想い直してしまった。

たかぎ 

  

   
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by kuga-katsunan | 2015-11-07 23:05 | 紀行 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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