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<羯南と古島一雄>(83) 私立大学評判記(その72)

 学校の存続にとって、次に重要なことは「共同体性」の確立である。
 それについて教育社会学者の天野郁夫氏が『大学の誕生(下)』(中央公論新社)で指摘しているが、ここではそれを敷衍して展開させていただく。

 「共同体性」とは、教職員・学生・卒業生による連帯感や一体感のことであり、学風に組み込まれている。学校はそれにより、永続的な組織体を維持することができる。

 その「共同体性」を支える要素が3つある。その最大のポイントは、専任の教員集団の存在である。学校の中心となるのは、やはり教員である。教員は言うまでもなく教育の担い手であるとともに、学風醸成の中心でもある。

 これまで触れたように、明治時代、慶応義塾大学・早稲田大学と明治大学等の他大学との評価が分かれたが、その要因は専任教員集団の存在にあった。慶応・早稲田は彼らに給与を支給し、海外留学へ派遣するなど、教員の養成に余念がなかった。したがって、彼らも給与によって生活が安定し、フルタイムで教育・研究に専念することができた。さらに彼らは学生と一緒に寄宿舎で生活し、日常生活が教育の場となっていた。

 一方、他大学の教員は、弁護士業や官吏等の本業を持ち、無給で、しかも夜間という限られた時間しか与えられていなかった。

 現在でも、専任教員集団の存在が共同体性の最大要素であることは言うまでもない。ただ、いかに優秀な専任教員をかかえることができるかが学校存続のカギとなる。さらには、経営や事務業務を担う事務職員も重要となっていることを指摘しておきたい。

 また、2つ目の要素は、長期間にわたるフルタイムの学生の存在である。長期間・フルタイムの学生の存在が、彼らを学校への帰属意識を植えつけ、愛校心を強めていく。さらに、学風醸成の担い手となり、それが学校の個性化へつながっていくのである。

 明治期の慶応義塾大学では、大学課程として5年間、授業時間は午前、午後であった。しかも学生は学校敷地内にある寄宿舎で生活していた。前述<羯南と古島一雄>(80、81)のように、そうした環境の中で「独立自尊」の学風が培われていったのである。

 他大学の学生を見ると、夜間のパートタイム学生が中心であり、しかも寄宿舎はなかった。慶応・早稲田と比較すると、後手に回らざるおえない。

 さて、ここで学風の重要性に触れておこう。学風は連帯感と一体感を生み、共同体性を支える。そして学風は教員と学生との相互作用から醸成される。教員が中心となって引っ張り、学生が担い手となって主体的な活動に表現していく。そして、学風が醸成される場が寄宿舎であった。寄宿舎は学生の自治組織で運営され、教員も学生の作ったルールにしたがって共に生活した。寄宿舎は学生に自律と自立を養う場として、重要な教育機能を担っていたのである。

 ちなみに、現在でも寄宿舎を取り入れている学校がある。国際教養大学は、1年間、全寮制であり、それが英語教育に効果を発揮し卒業生の評価も高い。京都大学では、グローバル人材を養成するための大学院「思修館」を創設したが、そこは全寮制である。世界のリーダーを育成する学校として注目されているインターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢も全寮制である。 

 共同体性を支える3つ目のポイントは、愛校心を持つ卒業生の存在である。明治期、慶応も早稲田も経営の危機に陥ったが、その危機を救ったのが卒業生からの寄付金であった。また、立命館大学では、大正時代に大学昇格問題が起こったとき、卒業生が全国組織を立ち上げ、募金運動を行った。そのことが卒業生の絆を強め、母校への愛校心を再確認させることになった。

 
 ここが企業と異なる点である。現在も卒業生の存在は重要であることに変わりはない。慶応義塾大学は、日本の全大学の中で最も充実した校友会組織を持ち、寄付金や募金につなげている。

 学校存続の本質は、過去も現在も同じである。その基本を外れないで、地道に積み上げて行くことが、学校の永続につながっていくのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-03-30 09:24 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで⑥

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」等によって、安重根(1879-1910年)についてみてみたい。

 安重根は、朝鮮の独立運動家で、1909年10月、満州ハルビン駅で初代韓国統監の伊藤博文を射殺した暗殺者である(1910年3月処刑)。陸羯南がソウルを訪ねてから8年後のことである。

 角田氏は、韓国の知識層においては、閔妃暗殺が日本の国家権力による犯罪であると理解している一例として、以下の通り伊藤博文暗殺事件を引用している(p.429)。

 「・・・裁判の記録を見ると、「伊藤博文をなぜ殺害したのか」という溝淵検察官の問いに対して、安重根は終始「東洋平和を妨げる人物であるから」と答え、伊藤の罪科15ヵ条を列挙している。その第1条に「今より10年ばかり前、伊藤さんの指揮にて韓国王妃を殺害しました」とある。閔妃暗殺事件当時の総理大臣だから彼が責任者である―というのではなく、伊藤が指揮をとって閔妃を殺させた、すなわち日本政府の犯罪であった、という解釈である。」

 またウイッキペディアによれば、「伊藤の死により韓国併合(1910年8月)の流れは加速され、暗殺は大韓帝国の消失という皮肉な結果をもたらしたという見方もあるが、当時の朝鮮族、ならびに今日の韓国では、後の朝鮮独立運動(1919年3月の「3・1独立運動」)にもつながる抗日義士であったとして、安重根は英雄視されている。一方、北朝鮮においては、神話的に喧伝される金日成の抗日パルチザンに比して、まず安重根には両班(資産家)という出身に矛盾があり、愛国的ではあったものの解決策を持たず、手段も目標も誤った人物であったという評価に留まっている。」という。

 さらに、「地球の歩き方D13 ソウル(2014-15)」ダイヤモンド社によれば、ソウル市内にある「安重根義士記念館」のコメントとして
 「・・・市民の募金によって創建された。独立運動家として韓国人の間で尊敬されているが、当初は併合反対だった伊藤を無計画なテロで殺したため結果的には併合を速めたことなど、マイナス面についての展示は見当たらず、評価は分かれる。」とある。

 なお、日中、日韓関係の悪化からハルビン駅構内にも「安重根義士記念館」が2014年1月に完成・オープンしている。これに対し、菅官房長官は、平和に資するものではなく「極めて残念で遺憾だ」と述べ、「安重根は我が国の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだと認識している」との政府見解を示したが、その後「死刑判決を受けた人物」にトーンダウンしている。

 このように日韓での安重根の評価は、大きく異なっている。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-26 23:12 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで⑤

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」によって、三浦梧楼が閔妃暗殺を決意するに至った日本の事情等についてみてみたい。

 朝鮮は1876年に日本との間に日朝修好条規を結び、その後順次欧米諸国にも門戸を開放していった。

 一方日本は、朝鮮へ国権拡張を企図していたが、欧米諸国の朝鮮への利権獲得競争は、激しさを増していく。

 このような中、日清戦争(1894年7月~1895年3月)の勝利によって朝鮮での優位性を確保したはずの日本は、その後の三国(仏、独、露)干渉によって、朝鮮における立場が悪化していった。

 具体的には、以下のとおりであり、閔妃暗殺(1895年10月8日)後でも欧米列強の朝鮮進出は止まらず、日本の朝鮮における立場は一層厳しくなった。

1)1896年3月、京仁鉄道敷設権 アメリカモールスへ
*1894年日朝暫定合同条款によって日本に許可されたものを、朝鮮政府が勝手にアメリカ人に売却したものである。その後日本が譲受し、1900年京仁鉄道合資会社(社長:澁澤栄一)によって完成している。

2)1896年4月、威鏡北道慶源鐘城鉱山採掘権 ロシアへ

3)1896年7月、京義鉄道(ソウル=義州)敷設権 フランスへ
 *1905年、日露戦争の物資輸送のため、日本によって開通している。

4)1896年9月、茂山・鴨緑江・鬱陵島伐木権  ロシアへ

5)1897年3月、江原道金城郡堂峴金鉱採掘権 ドイツへ

 井上馨に代わって、在朝鮮公使となった三浦梧楼(1895年9月1日着任)は、着任以前から、日本の各界から朝鮮へかける期待に応えるのは、(ロシアへ傾倒を深めている)閔妃暗殺以外にないと心を決めていたという。

 なお、韓国のKSB・TVドラマ「明成皇后」では、伊藤博文が暗殺を指示(黙認)しているような筋立てになっている(第121話)が、角田氏は「伊藤博文が、閔妃暗殺を企てたとは考えられない。閔妃暗殺事件と日本政府との間に直接の関係はない」といっている。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-25 23:20 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで④

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」によって、閔妃のプロフィールをみてみたい。

 閔妃は、1851年閔致禄の娘として生まれ、8歳で両親を失っている。

 第26代高宗の王妃選定について、大院君に次ぎ発言権を持っていたのは、大院君夫人であった。大院君夫人の生家は第3代太宗夫人に起源を有する閔氏であり、その一族である閔妃を推薦した。

 大院君は、嘗て金氏の勢道政治によって国運が傾いたことから、名門の出身だが親も兄弟もなく、勢道政治の危険性が低いと考えられる閔妃を気に入った。

 1866年、閔妃は15歳で大妃となった(高宗は14歳)。

 1873年高宗21歳(閔妃22歳)の時点で大院君は失脚、高宗の親政が始まった。同時に閔氏一族による勢道政治の幕開けとなった。これ以降、大院君と閔氏一族は20年以上にわたり権力闘争を繰りひろげ、これに改革派(開化派)と守旧派(事大党)の路線闘争も加わった。

 閔妃は小柄で華奢な体つきの美女で、物腰は優雅、頭脳明晰、学識抜群といわれた。しかし彼女は自分の意見に従わないものを許せない、愛憎とも激しい女性であり、反対派は徹底した弾圧を受けた。

 一方、高宗は、我儘で気弱で閔妃に寄りかかっていった。閔妃は相手が高宗だからこそ、思うがままに生きて、歴史に名を残す王妃となった。

 1876年の日朝修好条規(江華条約)を始め、欧米と修好通商条規を締結、高宗と閔妃は門戸開放政策を推進していった。

 1882年の壬午軍乱(興宣大院君らの煽動による兵士の反乱で、閔妃一族や日本公使館の襲撃等を行った事件)で、命を救われた閔妃一派は清国へ傾斜していった。

 1894~95年の日清戦争後の三国干渉による日本の威信低下により、閔妃は今度は親露政策に傾き、95年10月8日暗殺された(韓国では「乙未事変」という)。殺害された時、閔妃は43歳であったが、25~6歳にしかみえなかったという。

 1897年1月に閔妃の諡号を「明成」に、同10月に国号が大韓帝国に、閔妃は皇后となった。そして同11月に明成皇后の国葬が挙行された。

 当時の日本としては、殺害もやむなしかもしれないが、韓国国民が怒る気持ちも分かるような気がする。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-21 10:42 | Comments(0)

弘前 郷土文学館  陸羯南展

 中国の旧正月の休みを利用して拝見した。

 日頃資料として所蔵はされていますが、なかなか展示される機会のない羯南関係の資料が数多く展示されており壮観です。

 「明治維新後、のちに陸羯南を名乗る中田實は、身を立てるために、東奥義塾、宮城師範学校、司法省法学校に学びました。そこで得た経験が、新聞『日本』で生かされました。国民主義を唱える『日本』は、政府の政策に反対して、しばしば発行停止処分を受けましたが、これに屈することなく、 『日本』は発行を続けました。この日本新聞社には羯南の人物と仕事に共感し、全国から秀才が集まりました。正岡子規がその一人で、羯南は病床にある子規に惜しみなく援助を続けました。子規は夏目漱石に、羯南のことを「徳の上から言ふて此のような人は余り類がない」と伝えています。羯南と子規の間には文人同士の深い繋がりがありました。  羯南は、晩年に清韓視察や世界一周の旅をし、50歳で亡くなっています。今回の展示では『日本』での業績をはじめ、世界一周の足跡を、当時の書簡や写真で紹介しています」(同館ホームページより)

  http://www.hi-it.net/~bungaku/

 本展は、来年1月3日まで開催。春の桜、夏のねぷた、秋の紅葉、冬の雪と四季を通じて、羯南の展示が楽しめます。

 6月からの横浜の日本新聞博物館での展覧会、その後、弘前市立博物館へと移動する予定になっています。まさに来年に向けて羯南イヤーの幕開けとなりました。

 郷土文学館の展示は、3月31日まで増設コーナーも含め展示されています。

「 新聞『日本』のダイジェスト版『日本附録週報』の俳句欄では、正岡子規自ら選句をするというので人気がありました。日本新聞社に籍を置いた正岡子規は、『小日本』廃刊後も『日本』第一面の俳句欄を受け持ち、河東碧梧桐や佐藤紅緑らの俳句、短歌も掲載されました」
                         (同館ホームページより)

 全貌をご覧になりたい方はお急ぎください。

 これまで全体を見ることが難しかった羯南が欧米視察の旅先から家族に送った世界各地の絵葉書も掲載した図録も必読。

  たかぎ
 

  
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by kuga-katsunan | 2015-03-21 09:26 | 紀行 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで③

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」によって、高宗(閔妃の夫)の実父である大院君(興宣君是応、1820-1898年)が権力を握る迄の朝鮮王朝の権力構造の歴史について、概観してみたい。

 1392年李氏朝鮮・李成桂(太祖)が高麗を滅ぼし、首都をソウルに定めた。国教を仏教から儒教・朱子学へ転換した。この儒教の教えが先祖を敬うという風習を残したといえる。

 15世紀頃から、官僚機構は両班(武班と文班)に分かれ、この家に生まれたもののみ科挙の受験資格が認められ、この両班が権力闘争を繰り返した。

 22代正祖の時代には両班の争いが下火になったが、代わって勢道(セド)政治が横行した。勢道政治とは、王の信任を得た人物あるいは集団が政権を独占する状態をいう。日本の藤原家が実権を握った摂関政治に似ているかもしれない。

 この勢道政治の中心になったのが、安東金氏一族である。23~25代の王后は、金氏一族から選ばれ国家の要職を独占し、王族を虐待した。

 そして25代哲宗が亡くなった瞬間、王室の最高位は、23代王純宗の子であり、24代王憲宗の父である翼宗(孝明世子)の妃である趙大王王妃(神貞王后)となった。

 趙大王王妃は金氏でなく趙氏であったため、大院君と組んで大院君の第2子である命福を、1864年第26代の王(高宗)に就任させることに成功した。高宗はこの時11歳であったため、大院君が権力を掌握することができた。

 形式的には1864~1866年までは趙大王王妃の垂簾政治(簾の内で摂政として政治を行うこと)後、大院君が実権を握った。

 大院君の業績として、プラス面では、有能な人材の登用、官制改革、小作人制度撤廃等がある。一方、マイナス面では、1865年~多額の財源を使い、景福宮の再建工事の実施、1866年のキリスト教徒大弾圧、極端な鎖国政策等である。大院君には権限の濫用、独裁が認められた。

 このため、高宗が21歳になった時(1873年)、大院君は失脚した。代わって実権を握り、勢道政治を行ったのが、閔妃とその一族である閔氏である。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-16 23:15 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで②

 閔妃暗殺の首謀者で駐韓公使の三浦梧楼と陸羯南の関係についてみてみたい。

 三浦梧楼(1847-1926年)は、長州出身ながら藩閥政治に反対の立場をとった政治家である(西南戦争で城山を陥落させた元軍人、最終階級は陸軍中将、学習院院長、枢密院顧問官等を歴任)。

 有山輝雄(2007)「陸羯南」吉川弘文館,pp.92-95によれば、陸羯南は、『東京電報』(新聞『日本』の前身)入社の経緯について、(領事裁判権を残すような)条約改正交渉への反対運動などで「浪人仲間に入らんとの念」を抱いたという。

 浪人仲間とは「不平将軍」と呼ばれていた陸軍フランス派の谷干城、三浦梧楼らのグループと若手知識人の杉浦重剛、高橋健三、宮崎道正ら乾坤社同盟のことである。

 乾坤社、不平将軍、実業者は『東京電報』のパトロン(資金提供者)であり、一方彼等は自分達の機関紙を求めていたという。

 また、春原昭彦(2001)「陸羯南」『日本の新聞人⑩』日本新聞博物館,11号によれば、「この新聞には条約改正問題をめぐり、政府の欧化政策に反対する三宅雪嶺、志賀重昴、杉浦重剛、三浦梧楼、谷干城らの支援があったが、その立場は単なる西洋排撃ではなく、日本の主体性を保持しつつ欧州の文明を取り入れるべきだとするもので、陸は"国民旨義”と言っている」とある。

経営学的にいえば、経営者(陸羯南)と株主(三浦梧楼、谷干城ら)の関係といえよう。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-13 03:13 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで①

 たかぎ主筆と本年1月にソウルを往訪、陸羯南の足跡を辿った。それに関連して、角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」新潮文庫,1993年を読んだのでその内容の紹介と若干の感想を述べてみたい。

 結論として角田氏は、「謎が多い事件ではあるが、資料に基づく限り、1895(明治28)年10月8日、第26代王・高宗の王妃である“閔妃”を暗殺したのは、駐韓公使の三浦梧楼である。」(p.430)としている。そして閔妃暗殺(乙未)事件と日本政府(含む伊藤博文、陸奥宗光)との間に直接の関係はないという(p.439)。

 一方、韓国知識層の今日までの一貫した見解は、「暗殺隊の主力は日本軍で、その総指揮は日本の公使であり、国家権力による犯罪である」という。また伊藤博文を射殺した安重根は、伊藤博文の罪状の第一に韓国王妃の殺害を挙げている(pp.428-429)。なお、韓国のKSB・TVドラマ「明成皇后」でも伊藤博文が暗殺を指示しているような筋立てになっている(第121話)。

 この辺りが日韓の歴史認識の“ズレ”と言えるかもしれない。

 さて、次稿以降、②三浦梧楼と陸羯南の関係、③高宗の実父である大院君(興宣君是応)が権力を握る迄の朝鮮王朝の権力構造、④閔妃、⑤三浦梧楼が閔妃暗殺を決意するに至った日本の事情、⑥安重根について、順にみてみたい。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-10 22:23 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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