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<羯南と古島一雄>(79) 私立大学評判記(その68)

 今回は「私立大学評判記(二十三)慶応義塾の講堂と食堂」の最終回である。
 学生自治による食堂の運営は以下のように行われていた。

 「賄方に於ける十数名の行政官(名ヅケテ炊事委員ト云フ)は凡て寄宿舎生の選挙より成るものにして、之を分かちて仕入係、消費係、器物保管係、会計検査係、食事衛生係の五課と為す。仕入係は米肉野菜薪炭其の他一切の原料の仕入れを司り、消費係は原料の如何に消費されつつあるやを監督す。器物保管係、会計検査係は読んで字の如く。食事衛生係は食物器物食堂の清掃を保持するの責を有す」

 当時すでに学生による選挙という民主的制度が導入されていたことは注目に値する。
 さらに次のように続く。

 「此の五係の下数名の炊夫、ボーイ及び炊事監督人一名、書記二名を雇入れ、炊事監督人は水夫ボーイを監督すると同時に原料の買出し炊事一切の実務を指摘統括し、食事の献立は一週一回炊事委員会の議決に依て行はる」

 このように食堂の運営は学校側による管理ではなく、学生たち自らの手によってみごとに組織化され、経営されていたのであった。当時としては画期的であり、しかも慶応義塾が標榜する「独立自尊」が学風となって表れている。
 古島一雄は以下のように最後をまとめている。

 「是れ自治制度の大要にして、此制度が円満に行はれつつあるは一は塾風に適せるが為めなりと雖も、講堂に在て最も平凡なりし塾風が食堂に於いて著しく其特色を発揮せるは争う可らざる事実たりしなり」

 食堂の運営は明治33年(1900年)に寄宿舎が新築されて一層、整ったようである。その背景には、明治30年前後の学制改革をめぐっての若手教員の革新機運をきっかけに、学生にも活気が伝播し学生の自主的活動が盛んとなった。それは学生の学会やクラブの誕生、学生自治会の結成、野球部の活躍などに表れている。そして、その中心となったのが寄宿舎であった。(『慶応義塾百年史中巻(前)』)  

 次回はその寄宿舎を取り上げよう。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-11-27 09:15 | その他 | Comments(0)

煙台秋景

羯南と篤麿の中国訪問の最後の地は、山東半島の港街煙台だった。
明治34年8月10日、ロシア側の勧めで、大連から煙台まで二等巡洋艦  サビアカ号で送ってもらっている。
この巡洋艦は3年後の日露戦争の海戦にも参加することになるが、この時はその後の運命を日露両側の人々とも知らない、のどかな交歓の船旅であった。

煙台は当時、東に位置する島の芝罘が港となっており、翌11日その港に上陸した。
煙台という名前も、明の時代に倭寇襲来の報せを狼煙をあげてつげる台があったことから由来している。
侵略者としての日本の名残が地名に残っているという皮肉を感じる。
篤麿は、同地の日本領事館に一泊。
別便できた羯南、松崎、坂東らは、12日に到着している。
製糸工場を見学したり、地元の日本人会の招待を受け日本食の饗応だったという。
13日は、煙台を見学、14日、立神丸で朝鮮に向け出帆、三泊四日の滞在だった。

ここは、遼東半島を臨む対岸であり、日露戦争に向けての海戦が想定された地域の一つだったのであろう。

今回は、空気の悪い北京から飛行機に乗って50分で着いてしまう。
海岸の街の、綺麗な空気を満喫した。
最近の北京で流行っている、中国語に、洗肺という言葉がある。
読んで字の如く、転地して空気の良いところに行くことだ、という。
中国ワインの故郷でもある、煙台は、そうした北京からの旅行客でにぎわっていた。
久しぶりの波の音に、肺とともに心も洗われる新鮮さだった。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-11-16 16:27 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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