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羯南の北京での足跡を辿る⑥

***27日恭親王訪問、醇親王訪問(不在)、粛親王訪問***

 恭親王とは、愛新覚羅 溥偉(あいしんかくら ふい、1880-1936年)のことで、愛新覚羅 奕訢(あいしんかくら えききん、道光帝の第6子)の孫。溥儀(宣統帝)が即位し、政権を担当した醇親王体制下では冷遇され、満州国においては役職に就かず。

 醇親王とは、愛新覚羅 載ほう(あいしんかくら さいほう、1883-1951年)のことであり、清朝最後の皇帝である第12代宣統帝・溥儀とその弟・溥傑の実父、第11代皇帝・光緒帝の弟。

羯南らが、訪ねた時、義和団の乱によるドイツ公使殺害に対する謝罪使としてドイツへ派遣されていた。

溥儀が満州国皇帝になることに反対したため、漢奸とならず中国共産党政権下でも生活が保障された。

邸宅である醇親王府は、西側の庭園(明珠花園)が後に宋慶齢(孫文の妻、中華人民共和国名誉主席)の公邸(現在は「宋慶齢故居」)。東側邸宅部分は国家宗教事務局に転用されているが、清朝の大規模皇族邸がほぼ完全な形で残されている稀少な例となっているという。

 粛親王とは、愛新覚羅 善耆(あいしんかくら ぜんき、1866-1922年)のことであり、太祖ヌルハチから数えて10代目の子孫。義和団の乱から辛亥革命勃発までの10年間に枢要大臣を歴任し、近代化改革を促進。日本より招聘した川島浪速を北京警務学堂の創設にあたらせるなど親日家。川島浪速とは義兄弟の関係を結び、第14王女顕玗(けんし)を川島の養女(日本名川島芳子)とした。

羯南らが、歴史上の重要となる人物や関係者に会う、または合おうとしていたことがよく分かる。

下写真(上)
恭王府

下写真(中)
宋慶齢故居

下写真(下)
醇親王府の碑

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2014-07-31 23:31 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る⑤

***25日/頤和園(万寿山、昆明湖など)、円明園***

 近衛篤麿日記p.232.によれば、25日は「万寿山に赴く・・・船形石造の楼閣上に於て午餐を喫し、・・・イタリヤ守備兵に小船を出さしめ、湖上(昆明湖)を一周し、・・・玉泉山に至り、冷水を汲み・・・円明園の古跡を訪ね・・・ドイツ兵の占領したる万寿寺をみる・・・」とある。

羯南が訪れた1901年は、義和団事件が起こった翌年であり、外国兵が各地区を占拠していたことが文面からも分かる。

万寿山、昆明湖を含む頣和園は、総面積290万㎡で、全面積の3/4が昆明湖。北京最大の皇家園林(皇室とその一族の庭園)で、世界遺産である。1750年に第6代皇帝の乾隆帝が造成したが、1860年の第二次アヘン(アロー)戦争で、英仏連合軍が破壊した。

1884~1894年、第11代光緒帝(西太后の甥で、西太后の傀儡といわれている。)が再建した。再建には、海軍経費の15年分を要したため、北洋艦隊の再建予算を流用し、このことが日清戦争敗戦の要因の一つとも言われている。

西太后が、頣和園(穏やかさを養うの意)と名づけた。
しかし、1900年に8ヶ国連合軍で再び破壊され、西太后が1902年に再度再建した。

従って、1901年に羯南たちの観た万寿山付近はかなり破壊されていたか、再建中であったものと推測される。

羯南たちが、昼食をとった船形石造の楼閣は、「清晏舫(せいあんぼう)」と呼ばれ、全長36mの石の船である。神仙世界の蓬莱島へ向かう宝船だという(現在は立ち入り禁止)。

玉泉山は、昆明湖から西に1km足らずのところにあり、昆明湖の水源。乾隆帝が、「天下第一泉」と賞賛したという(周辺は静明園という)。

円明園は、皇家園林である3山(万寿山、玉泉山、香山)、5園(円明園、頤和園、静明園、暢春園、静宣園)の内、第一といわれたが、1860年の第二次アヘン戦争で、英仏軍から徹底的な破壊と略奪と放火を受け廃墟となっている。この時に大量の書画骨董、宝石、黄金とともに、乾隆帝編纂の「四庫全書」(中国最大の漢籍叢書36000冊=10億文字)も失われたという。

羯南たちはきっと欧州列強、とりわけロシアの脅威を改めて再確認したであろうと想像される。

しぶさわ

下写真(上)
昆明湖にある清晏舫(石船)

下写真(中)
昆明湖畔から万寿山を望む。

下写真(下)
円明園内の西洋楼遺址区
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by kuga-katsunan | 2014-07-30 20:50 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る④

***23日故宮(大雨のため景山には行かず)***

たかぎ主筆と私は天安門(故宮の南側)から故宮に向かった。

故宮(古い宮殿の意)は、かつて紫禁城と呼ばれた。紫禁城とは、天帝が住んでいる星(北極星)を紫微星ということから紫宮と呼び、禁城(庶民が出入りできない城)との2語を掛け合わせたものだという。

1406年に建設を開始、1421年に明の永楽帝が南京から北京へ遷都した。その後1644年に清に引き継がれた(現在の建物は清朝時代のもの)。北京の故宮(博物院)には93万点(この他台北の故宮博物院に64万点)の宝物がある。

故宮は、乾清門を境に、外朝(オフィシャルスペース)と内廷(皇帝一家のプライベートスペース)に分けられる。72万㎡の敷地に15万㎡の建物、周囲には幅52mの筒子河(とうこが)という濠、高さ10m城壁に囲まれている。

羯南が故宮をどのように詳しく観たかは不明だが、1933年からの中華民国政府による宝物の南方への疎開前なので、豪華な宝物を十分堪能できたのではないだろうか?

下写真(上)
外朝入口の午門、両側は修理中であった。

下写真(中)
北東角の楼閣(遠く北西角の楼閣)を望む。

下写真(下)
羯南が行けなかった景山(故宮北側)から故宮を望む。

しぶさわ

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by kuga-katsunan | 2014-07-29 07:48 | 紀行 | Comments(0)

〈梁啓超故居その3〉

故居があるはずの北河沿胡同をやっと見つけて、北に上がって行った。
狭い道に左右に古い家が並んでいる。
地図や百度百科という中国の調べものサイトによれば、そろそろという場所
まで来たが、それらしい建物が見当たらない。
ただ、右手の普通の家に「梁啓超書斎」という小さい看板がかかっていた。
ご丁寧に 「個人の家なので問い合わせ無用に願います」 という貼り紙も
ある。書斎が此処ならその向かいが住居かと思い、道の反対側を見ると、
これもまた小さく「四合院」のパネルがかかっていた。
中を覗いてみると、小さな部屋に別れて幾つかの家族が別れて住む、
伝統的な四合院だった。
今や、梁啓超を偲ぶのは向かいの家に掲げられた書斎の表示だけ。
彼の子供たちも、墓を作った長男の建築家をはじめ、中国の現代史に名を
残しているが、時ははや二十一世紀も十数年を過ぎて、皇帝英雄文人が
あまた輩出した北京では、順番に歴史の暗闇の中に消えて行くタイミング
なのかもしれない。
燕京の名前の由来となった、燕たちが胡同を飛び去って行った。

たかぎ

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by kuga-katsunan | 2014-07-27 21:56 | 紀行 | Comments(0)

北京・孔子廟での東亜同文会北京支部歓迎会

近衛篤麿の日記によれば

「明治34年7月26日
午後四時半、同文会員の招待により孔廟に赴く。
会するもの三十人計、余興として満州旅人の武芸あり。
終わりて一同撮影し、夫より宴に移り、中西正樹一同に
代りて歓迎の辞を述べ、余これに答へ、餘は雑談にて帰寓。」

東亜同文会は、明治31年に近衛、陸を中心に発足し
中西は初期のメンバーであり、北京支部の主任であった。

中西については

「1858*-1923 明治-大正時代の大陸浪人。
安政4年12月12日生まれ。美濃(みの)(岐阜県)岩村藩士の子。
明治の初めに上京し小学校教師となる。
明治17年外務省留学生となり天津領事館,北京公使館で修学。
のち中国各地を探検・調査し,日清(にっしん)・日露戦争に際し軍に
側面協力した。
大正12年1月10日死去。67歳。
駿河(するが)(静岡県)出身。本姓は柳沢。」
(講談社、日本人名大辞典 2009年)

との記述あるが、興味深い人物である。

明治31年に康有為、梁啓超らが、宮崎滔天、平山周、山田良政らの
助けにより個別に日本に亡命した際に、日本で出迎えた人物としても
名前がみえる。

また明治33年の国民同盟会の発足に関しても、東亜同文会側の主要
メンバーであり、近衛、陸に影のように寄り添っている。

この東亜同文会北京支部の三十人の名前が、注に載っているが、もう一人
アッと思ったのが、川島浪速である。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-07-27 21:32 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(76) 私立大学評判記(その65)

 「私立大学評判記(二十二)慶応義塾と高等商業学校(下)(三井に於ける両校の混戦)」の最後となる。
 古島一雄は次のように続ける。

 「斯る偶然の出来事に依て慶応義塾と高等商業学校は一堂の中に戦ひたりしも是れ一部局の争のみ、若し更らに眼を放てば実業界の各方面は皆な此二校出身者の戦場ならざるはなし」

 ここから明治30年代半ば、既に実業界では両校出身者が中心となって活躍していたことがわかる。この両校の社会的評価は以下のようであった。

 「人は言ふ三田派は団結の心に富み、一橋派は一致の力を欠くと。一橋出身の之を弁ずるものは曰く、是れ実に官学の弊処なり。矢野氏力めたりと雖も官立は到底官立たるを免れず。官学に遊ぶものは株式会社に在るが如く、私塾に学ぶものは合名会社に在るが如し、同じく一の会社なり。而かも気風の差を見るが如しと」

 すでに両校の学風が異なることも知られていた。慶応出身者は卒業後も母校への愛着が強く、OBの関係が濃密であり、団結心があると見られていた。一方、高商出身者は慶応に比べれば団結心が薄く、これは官立学校一般の傾向であったという。

 「人は又言ふ高商の出身者は平素の訓練あり。故に直に実践に用ゆるに足り、慶応義塾の出身者は実践に馴れざるを以て、出営の後尚ほ多少の訓練を要すと。慶応義塾の出身者為に弁じて曰く、我れは兵卒を作らずして将士を作る。故に直に珠算を把て戦う能はざるも、他日謀を帷幄の中に巡らして勝を千里の外に決するものは彼れに在らずして我にあらんと」

 商高のカリキュラムは簿記等の実務科目が多く現場の即戦力となったが、慶応のカリキュラムは経済学や法律科目が中心であり、実務科目はほとんどなかったので、卒業後に実務の訓練が必要となったのである。

 
 しかし、それについては、慶応は現場の実務者を養成するところではなく、経営戦略をたてられる管理者や経営者を養成するところであると古島は弁護する。ここには両校の教育内容の違いが社会的評価に明確に出てくる。

 そして、古島は「知らず商界覇を称するも遂に孰(いず)れに在る乎」と、つまり今後は両校のどちらが実業界を席巻するかわからないと述べた。その見かたは正しかった。

 既述したように商高でも、学生の実務教育に反対する闘争があり、カリキュラムに経済学や法律科目を充実させて行った。その後も、両校ともに優秀な人材を輩出し続け、現在に至っていることは周知の事実である。
 

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-07-26 11:05 | その他 | Comments(0)

松山 子規記念博物館   第60回特別企画展

   子規と「小日本」   -新聞界の旋風- 

8月2日から31日まで、愛媛県松山市の子規記念博物館で
<第60回特別企画展 子規と「小日本」-新聞界の旋風->
の特別展が開催される。
日清戦争の直前に、新聞日本の関係紙として、子規が編集長となって
発行された<小日本>の初めての展覧会だ。

以下、松山市のホームページから

「趣旨
子規記念博物館では、毎年新たなテーマで特別企画展を開催しています。 
 今回の特別企画展で取り上げる新聞「小日本」は、今から120年前の
明治27年2月11日に発行された家庭向けの文芸新聞です。
子規が勤める日本新聞社の新聞「日本」の発行停止処分に備え、
新たな読者を開拓するために発行されました。
その編集主任に抜擢された子規は、紙面の編集や企画、連載小説の執筆
交渉などに力を注ぎました。
 今回の特別企画展では、今年、新聞「小日本」が創刊され、120年が
経過したことを記念し、子規の仕事や同紙を彩った文士たちを紹介する
とともに、「小日本」が後の子規の人生に与えた影響を探ります。」

 日頃、なかなか一堂に会することのない珍しい資料も出品されるとの事。

恥ずかしながら、8月3日に記念講演として、
「羯南の「日本」、子規の「小日本」の演題でお話しをさせていただく予定。

詳しくは、松山市のHPをご覧ください

https://www.city.matsuyama.ehime.jp/hodo/201407/60kikakutennannai.html

以上

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-07-25 23:43 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る③

***22日/孔子廟、国子監***

孔子廟(下写真の上)
1302年皇帝フビライが漢民族の知識階級を懐柔するために築かせたといわれている。山東省曲阜の孔廟に次ぐ規模(22千㎡)。明、元、清時代の科挙合格者の石碑もあり、日本では天満宮といったところか。写真でもわかるが、孔子像の下には絵馬のようなものが多数ぶら下がっていた。
最近、中国共産党も儒教社会主義を提唱し始めているという。中国と日本を含めた周辺諸国においても、孔子のいう仁(人間愛)と礼(規範)による理想社会を実現し、近隣諸国相互に仲良くしてほしいと思う。

国子監(こくしかん、下写真の下)
1306年に建設された中国の最高学府。支配階級のモンゴル人に漢語を、漢族にモンゴル語を教えるのが目的。孔子廟の隣に立つのは、当時の建築規定「左に廟、右に学」に従ったもの。
湯島天神と東大、あるいは北野天満宮と京大の関係みたいなものですかね。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2014-07-24 22:17 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る②

*** 7月21日北京天壇停車場に到着 ***

天壇の東南側に天壇停車場はあったようである。

現在このあたりに駅はない。一番近い北京南駅(この駅から天津行の新幹線が出ている、所要時間:30~40分)から北東へ2km程度。

因みに天壇は天安門から南南東へ4km弱の位置にあり、明、清時代の皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った、現存する中国最大の祭祀施設(総面積273万㎡の公園であり、世界遺産)。

天壇は、圜丘(かんきゅう)、皇穹宇(こうきゅうう)、祈念殿(きねんでん)からなり、

 圜丘は、皇帝が毎年冬至の日にここに上り、天帝にその年の出来事を報告した所

 皇穹宇は、皇帝の位牌がおかれた円形の建物

 祈念殿は、皇帝が正月に豊作を祈願した、3層38mの高さで、直径30mの円形木造建築物

である。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2014-07-24 21:01 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る①

 有山輝雄『陸羯南』p.225によれば、明治34年7月10日~8月30日までの間、近衛篤磨・陸羯南等5名は清国・韓国旅行を行っている。
 そして『近衛篤磨日記』pp.230~235によれば、上記旅行のうち、一行は同年7月21日~30日には北京に滞在している。

 同日記などによって主な見学先・訪問先を見れば以下の通り。

7月21日/晴/炎熱安眠を得ず/
       午後2時過ぎ、天津から北京天壇停車場に到着
   22日/午後雨/警察学校、孔子廟、国子監など
   23日/大雨/故宮(大雨のため景山には行かず)
   25日/晴/頤和園(万寿山、昆明湖など)、円明園
   26日孔子廟   
   27日恭親王訪問、醇親王訪問(不在)、粛親王訪問
   29日書画骨董街(琉璃廠)
   30日10時20分北京天壇停車場発(午後4時天津着)

 以上の内容に基づき、北京在住のたかぎ主筆とともに、羯南の北京での足跡をトレースしてみた。
内容詳細については次稿以降で述べたい。

 しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2014-07-22 23:02 | 紀行 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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