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羯南の遼東半島足跡を辿る(営口②)

 営口の街は、遼河の河口に開けた。
 街を歩いてみると、19世紀の洋館を思わせる建物がそこここに残っていた、
 交差点にあった日本人居留民団の倶楽部は、今は銀行の支店になっていた、
ちょうど改装中だった支店の中に入れてもらうと、壁のあちこちに古い写真が飾ってあった。
写真の中には、各国の領事館があり、また学校があり、そして今いる居留民団の倶楽部の昔の姿が残されていた。
 写真を見つめていると、自分が19世紀の街角にいるかのような錯覚に陥ったが、工事のドリルの大きな音で吾にかえった。
 夏休みの家族連れでにぎわう中国の田舎町は、平和の有難みを強く感じさせた。

 たかぎ

 
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by kuga-katsunan | 2013-08-29 17:07 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(金州②)

 われわれ研究会一行は、初日、金州副都統衙門博物館へ行き、正岡子規の句碑を見学した。金州副都統衙門は清時代の役所があったところで、その跡地が現在、博物館となり、そこに子規の句碑が設置されている。

 この句碑は、昭和15年、当地に住んでいた日本人篤志家によって建てられたものである。設立の経緯については、当ブログ2007年10月30日の高木主筆による「金州の句碑 従軍記者 子規」に詳しく書かれているので、ぜひ一読いただきたい。

 さて、子規の従軍記者としての金州行きは『坂の上の雲』に詳しく描かれている。子規は従軍記者になりたくてどうしようもなかった。彼は思い立ったらそれを達成するまで気が済まないところがあり、陸羯南にことあるごとに願い出たが、羯南は彼の体のことを知っていたから退けていた。だが、ついに羯南も根負けし中国行きを許可する。

 ところがすでに戦争は終わっており、「結局こどものあそびのようなものにおわった」のであった。子規が日本を出発したときには、下関に李鴻章が来て講和談判が始まっていた。
 
 結局、この金州行きは子規にとって、結核を悪化させ死期を早めることになったのであるが、彼はまったく後悔していない。なぜ子規は死を賭してまで従軍したのであろうか。

 ひとつは、上述の『坂の上の雲』にあるように子規の性分によるところもあるだろう。しかし、最大の理由は、俳句の自立という自己の使命の遂行にあった。(これは米田利明氏の説による。)

 子規から河東碧梧桐と高浜虚子への手紙に次のような一文がある。

 「戦争は国民精神を刺戟し、殖産工業から学問美術まで新たになろうとしている。文学もまた然り、それに志すものは、その準備をしなければいけない。自分はたまたま新聞界にいるので記者として従軍することができる。この機会をいたずらに逃すとしたら、愚かだろう。『是(ここ)に於て意を決し軍に従ふ。』」

 子規には、当時、俳句の立つ場所を確立するという使命があった。
「騎兵や海軍が既に社会に場所を与えられているのとちがって、俳句の立つ場所を作ることが必要だった。藩=国から疎外されたところにこそ文筆の道があり、そこにしか自己の生きる場所がないとしたら、役に立たぬと思われているものを、社会に認めさせ、自立をかちとろうとする志が生じていたと思われる。」

 国文学者で歌人でもあった米田氏は「子規の従軍」(『文学』1973年3月号)に以上のように述べている。ちなみに、これはネットの日本ペンクラブ電子文藝館から読むことができる。

 子規は俳句にかける情熱だけで生きてきたのではないだろうか。いやだからこそ年若く死の病を患ったにもかかわらず多少の生を得て、俳句の自立を目指し業績を積むことができた。しかも後輩にもその情熱が伝染し、彼らが子規の後を引き継ぎ、その使命を果たすことになったのである。

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                                       子規の句碑

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-08-29 10:18 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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