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長野から伊那、高遠へ

「南信では、何故、イナゴ、ザザムシが食されるようになったか?」
この日の運転手を務めてくれた菊池氏。さすが新聞記者、ネタが尽きない。天竜川が暴れ、木曽路のメインストリートからは少し外れた、この土地柄を多方面からイメージしつつの移動となった。
主筆の予告編通り、この日の主目的は、伊那図書館に収蔵されているという、日露戦争期間の「新聞日本」の、いわば製本集を見学させていただくということだった。ご紹介くださった平賀館長は、10年ほど前に民間企業からこの図書館へ転身され、大変ユニークな活動を推進されている。それまで伊那という土地には縁もゆかりもなかったが、今はすっかり土地の人となり、こよなく伊那を愛されている。
山奥深い土地にあって、かつて新聞日本を愛読し、宝物のように保存された方がいらっしゃったというのが、まずは驚きだった。写真を見ていただけるとわかるように、明治37年~38年にかけて発行された新聞「日本」が製本され、8分冊が、手作りであろう木箱に収められている。「日露戦争実記」というタイトルとともに、各巻には目次が丁寧につけられている。日本各地に「日本」の熱狂的な愛読者がいたということを聞いてはいたが、これほどまでのこだわりはどこから生まれてきたのだろう。
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この地の文化水準の高さを裏付けるかのように、この図書館には伊沢修二の膨大な資料も保存されている。英語で記述された、米国留学次のノートが本棚にびっしりと並び、未整理の資料もたくさんあるようだ。
伊沢修二のことは司馬遼太郎「街道がゆく~台湾紀行~」でも少し触れられている。「童心を純化」すること、情操教育こそが「人を終生ひからびさせない」という信念が、ここまでの勉強量を支えたのだろうか。儒教的精神で、童心を追い求めるということに面白さを感じる。さすが司馬遼太郎、この見識は鋭い。几帳面な筆跡とか残された肖像の厳つい顔からは、どう考えても、感性を育む教育を目指す人を想像するのは難しい。
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この時代の特徴として、こうした文化人の交流はどこかでつながっていて、同郷の中村不折とも親交はあっただろうし、羯南とも接点があったに違いない。
やまだ
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by kuga-katsunan | 2013-03-29 00:15 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(64) 私立大学評判記(その53)

 今回は「私立大学評判記(十九)」、「慶応義塾大学部(四)」に入る。
 まず古島一雄は、次のように述べる。

 「慶応義塾が其特色を棄ててまでも雄を神田と争はんとする法律部が果たして如何なる成功を見るや否や。殊に其起さんとする文学部が果たして前年の覆轍を踏まざるや否や」

 慶応の特色である英米系学問をドイツ系に変えてまで法律部を前面に出し、神田にある私立法律学校群と争うことに意味があるのだろうか。また一度は失敗した文学部の再興に見込みがあるのだろうかと、古島は問うのである。
 そして、以下に続く。

 「従来世人が重きを慶応義塾に置きし者は其法律部にあらず其文学部にあらずして其理財科こそ実に彼れ義塾の生命として待たれたるにあらずや」

 彼は、そもそも慶応の中心は、理財科(現在の経済学部)であり、“慶応の生命”とまで述べている。

 「義塾出身の先輩者が方今実業界の要地を占むるの事実あればなり。従って世の慶応義塾を言ふものは一種の実業学校として之を見るもの多く実は其法律部あり文学部あるを知らざるなり」

 すでに当時、慶応の卒業生は実業界で要職について活躍する人材が多かった。世間では慶応を実業学校と見ており、法律部や文学部はまったく知らないから学生が集まらないのではないかと、古島は予想している。

 ちなみに当時、活躍中の人物として、次の人々があげられている。
 波多野承五郎、朝吹英二、高橋義雄(以上、三井財閥)、豊川良平、荘田平五郎(以上、三菱財閥)、本山彦一(藤田組)、高島小金治(大倉組)、牛場卓蔵(山陽鉄道)、井上角五郎(炭鉱鉄道)、阿部泰三(明治生命)、原田虎太郎(安田銀行)、山本達雄、伊藤欽亮(以上、日本銀行)
 
 そして最後に、以下のようにまとめている。

 「吾人は慶応義塾が実業界に於いて人材を供給せし偉功を認むると共に其理財科を見る特に注意を要するものあるを認む」

 古島は、慶応においては、学部を増加して学風がゆらぐより、理財科のみで行くべきだと主張したいようである。
 しかし、後世の結果から見れば、法律部も文学部も多くの学生を集め、優秀な卒業生を送り出しだすことになる。“総合大学化”は成功したのであった。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-03-24 12:51 | その他 | Comments(0)

伊東重のこと

 羯南は多くの友人に恵まれた。
これも矢張り、羯南の磁場としての人間的魅力のゆえであろう
故郷弘前での一番の親友は医師でもある伊東重だろう。

 青森のいけださんのアドバイスで改めて、伊東重と羯南の資料を読み直した。
若き日々から晩年の亡くなる直前まで、羯南が伊東重に宛てた手紙が全集に収録されている。
ともすれば、失われてしまう個人の書簡がこれだけ見事に残っていること自体が、伊東の羯南への友情の深さだと思われる。
 伊東重は東大医学部でも将来を嘱望されたが故郷の両親への孝心篤く帰郷して開業、弘前の人々の為に医師てしての腕を振るった。

 いけださんと弘前の伊東家を訪れた日は、きしくも観測史上はじめてと言われるほどの豪雪の日だった。
新青森に着いたものの、奥羽線は全線ストップ、いけださんに手配して頂いたタクシーで二人で弘前に向かった。
 途中、大釈迦の辺りは猛烈な地吹雪でほとんど前が見えず。先行する車のテールランプを頼りの運転が暫く続いた。
 漸く弘前にたどり着いて、真っ先に伊東医院を訪ねた

 伊東重のひ孫にあたる当代の伊東先生をはじめ皆さんに、大変暖かくおもてなし頂き、伊東重について種々お教え頂いた。
 興味深かったのは、司馬遼太郎が隣にある、幕末にここを訪ねた吉田松陰を記念して保存されている松陰室を訪ねた時のエピソード。
 司馬さんは、感興極まり結局一晩松陰室の二階に泊まったという。

 幕末、ここを訪ねた松陰は、一夜、伊東梅軒と歓談し、漢詩を残している。

      男児欲略北夷陲

      難奈吾無百万師

      猶忻半日高堂話

      幸為此行添一奇

 当時、松陰は22歳、東北の旅を伴にした熊本藩士宮部鼎蔵は32歳、そして迎えた弘前の伊東梅軒は38歳だった。

 司馬さんが、松陰を主人公にした「世に棲む日々」では、しごくあっさりと、その旅程を紹介しているのにとどまっている。

  「松陰の東北旅行は、正月二十日に水戸を発したあと、会津、新潟、渡海して佐渡、さらに新潟にもどり、秋田、弘前、青森にいたり、そのあたりで冬はすでにすぎ、盛岡、仙台、米沢から関東に入り、日光、足利、館林をへて利根川の堤に出、堤上をあるくうちたまたま小舟をみつけ、たまたまその船頭が江戸へゆくというので乗せてもらった。
 両岸の田園はもはや菜の花のさかりである」
(司馬遼太郎「世に棲む日々」1969年)


 この小説、連載中、家で週刊朝日をとっていたので、読んだ覚えがある。
 本当は、この足取りを辿って、書きたかったのではないかと思われるが、大流行作家にそれは許されなかったのだろう。

 後に、街道をゆくの取材で、弘前を訪れ、「北のまほろば」を書いた時には、この松陰の漢詩からとって、「半日高堂ノ話」という章を書いている。

 司馬さんは、百数十年の時を超えて、若き松陰の息吹を聞いたであろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2013-03-03 07:45 | 紀行 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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