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<羯南と古島一雄>(30) 私立大学評判記(その19)

 「<羯南と古島一雄>(27)」で紹介した明治36年(1903年)11月3日付、新聞「日本」に掲載された日本大学の広告から、もう少し当時の私立大学の実態を見て行こう。

 「(27)」では、中心である専門部の内容を取り上げたが、それ以外の部・学科として、大学部、高等専攻科、高等師範部、大学予科、外国語専修部の5つが設置されている。まず、それらを以下に紹介しよう。   

 大学部は、専門学校令(明治36年公布)により新たに設置されるものであった。入学資格は、高等学校卒業生、当大学の大学予科卒業生、または、中学校卒業程度で当大学入学試験に合格した者となっており、当時としてはハードルが高かった。ちなみに授業開始は、明治37年(1904年)9月であり、ずいぶん先である。

 一方、高等専攻科は、入学資格が当大学か、他の法律学校または外国大学の卒業生に限定されていて、実質、行政官僚や判事検事の登用試験の対策講座として機能していた。また、高等師範部は、入学資格が中学卒業または師範学校卒業生ということで、教員免許資格を取得することが目的であった。

 大学予科は、当大学の大学部に進学するためのコースであった。しかし実態は、ここで勉強した後、官立専門学校へ入学するものも多数いた。いわば予備校的な要素を備えたところであった。

 そして、外国語専修部では、英語とドイツ語を学ぶことができた。目的には、「中等教育の外国語教員たらんとするもの及び帝国大学高等学校官公私立専門学校等の入学希望者若しくは会社銀行員等一般に外国語研究の必要あるものの為に適切なる教授をなし僅かに二年四カ月にて外国語専門家を養成す」と記載されている。

 授業開始は、夕方6時からであり、当初は昼間に開講する大学予科と同様の機能をねらったようだが、これも実態は、高等専攻科や専門部を補完する試験対策的なコースであった。  

 当広告に記載されている特典と授業開始時間に注目すると、当時の日大の苦悩が見えてくる。

 専門部と同様に上記の部・学科に共通して強調されているのが、「特典」である。それは「(27)」でも取り上げた徴兵猶予のことである。実際に翌年(明治37年)2月には、日露戦争が勃発するのであり、やはり徴兵を逃れるためには大きな魅力だった。

 そして、授業開始時間である。
 それは、大学予科を除いて、他はすべて午後4時からの開始(ただし、外国語専修部は午後6時から)であった。当時の日大は、「パートタイムの学校」であり、すなわち、職業を持った人の学校だったのである。

 また、当時の学生に次のような証言がある。
「入学者の中には下級官僚が一番多かったように記憶する。小学校の先生。代言人の書生、新聞社や雑誌の記者など二、三いた。」

 日大は、苦学生のための学校だったのである。彼らは、少しでも待遇のいい職業を目指し、できれば高級官僚や判事検事になるため、その国家試験合格のために夜間、通ったのであった。

 だから学生の授業料収入に依存する日大としては、多様な受け入れ先を用意する必要があったのである。
 こうした状況は、他の私立大学も同様であった。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2010-05-30 19:41 | その他 | Comments(0)

大連旧影 大連図書館から

 日本新聞社の後継者たちの海外展開の一つとして、大連で末永純一郎の創刊した遼東新報について調べているうちに大連図書館の資料にいきあたった。

 <大連旧影>と題されたこのサイトは戦前の大連の姿を写真入りで紹介している。

http://www.dl-library.net.cn/wenxian/old/

 <文化与教育>と題された部分に、遼東新報の社屋の写真がのっている。

http://www.dl-library.net.cn/wenxian/old/content.php?id=1162

 瀟洒な洋館が、大連で初めての日本人向けの新聞社だったわけだが、同じコーナーには、その初代の社長として、末永純一郎のことも紹介されていた。


http://www.dl-library.net.cn/wenxian/old/content.php?id=1161

 大連図書館には、日本ではもはや読むことのできない、遼東新報が所蔵されているのだろうか。


たかぎ
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by kuga-katsunan | 2010-05-29 06:21 | トピックス | Comments(0)

陸羯南会たより 春季大会の御知らせ

 弘前から陸羯南会たよりが届きましたので、ご紹介させて頂きます。

「陸羯南会平成22年度春季大会

     平成22年6月20日(日)

     午後1時半ー4時半

     弘前市立図書館視聴覚室(2階)



  講演  津軽の文明開化を考える
        イング没後90年によせて

      秋田看護福祉大学教授   北原かな子氏

  羯南を語る

      テーマ  私の羯南像   会員諸氏」

  
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by kuga-katsunan | 2010-05-23 06:24 | ニュース | Comments(0)

特別寄稿 松永彦右衛門伝

 長清会のメンバーの一人、松永彦右衛門のご子孫のうちださんから、その生涯についての御寄稿を頂いたので、ご紹介させて頂きます。


「千葉県佐倉市立美術館では、先月末から

「佐倉 房総ゆかりの作家たち―新収蔵作品を中心として」
 
と題した展示が行われている。

その中に浅井忠が描いた「松永彦右衛門父母像」がある。


松永彦右衛門は浅井と共に羯南の催していた囲碁の会、長清会のメンバーでもある。


松永彦右衛門は、本名は久邦、号は聴剣で、慶應3年9月10日但馬国(兵庫県)城崎郡豊岡生まれである。

彦右衛門は通称で代々名乗っており、久邦の父も彦右衛門を名乗っている。


松永家については、記録に「松永家其先弾正久秀公ニ出ヅ」とあり、松永久秀の流れであると書かれているが真偽は不明。

丹後國田邉にて京極氏に仕え、京極氏転封と共に豊岡に移り、その後帰農した。


しかし、家業の醤油醸造で財をなし、藩に軍資を献上することにより苗字帯刀を許され、再び松永を名乗ることとなったようである。

さらに、松永は豊岡特産の柳行李に出資をし、その販路拡大に務めた。

豊岡市史にも出資者の一人として松永彦右衛門の名前がある。

豊岡には鳥居や灯籠を建てるなどしており、地元では裕福な家であったようだ。」

うちだ
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by kuga-katsunan | 2010-05-05 00:14 | 研究 | Comments(0)

阪井久良伎(2) 陸羯南の書簡①

 雑誌『文章世界』,博文館,明治40年10月15日号に、阪井久良岐(久良伎)の書いた陸羯南への追悼文が出ていたので、何回かに分けて紹介させていただく。

 前の日本新聞社長として、直言硬骨の志士として、天下の三大記者として徳富蘇峰、朝比奈知泉と併称せられて、文壇の珍とせられた陸實先生は遂に肺結核のために近く四十九歳をもって鎌倉に歿せられた。

 自分の陸先生を知ったのは、今から十年前、初めは日本新聞の編集長であった福本日南先生を知っていたので、英照大后の御大喪の折、日南先生などの発意で国民の礼服一定の建議を出す為め、有志の人々と今川小路の玉川亭に会合した、其時に眉太く眼大きい髭いかめしい偉大夫を認めた。

其人は日南先生に此人は何人かと、余を質ねたので、日南先生が紹介をして呉れて其人が陸羯南先生であることを始めて知った。

 其後日本新聞社に入って、陸先生と日夕面を合わすことに成ったが、一見大層喧しそうに見える先生が極めて温厚な君子であることを知った。

先生の文章や又は先生の気格の高い事などは、今更繰返す要がないから、云わぬけれど、先生の道楽は碁位で、社へ出てきても別席で暇な時は、日南先生や国分青崖や桂湖南などと絶えず盤面に向かって石を下していられる。(以下続く)

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2010-05-03 09:32 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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