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<羯南と古島一雄>(22) 私立大学評判記(その15)

 前回(「(五)私学と官学」)からの続きで、法政大学の設立趣意書を取り上げる。

 この趣意書が、当時の私立法律学校が私立大学の設立に至る状況をよく説明してくれているので、今回、少し長いが、原文をそのまま引用する。

 「然るに昨年来大学と改称せる私学一二に止まらず、而も其学科、程度を見るに、本校が計画せんと欲したる大学とは聊か其趣を異にし、学科に於ては則ち従来の私立法律学校と大差なく(今暫く法律学を教ふるもののみに就いて言う)程度に於ては則ち、一年半の予科を加ふるに過ぎず。

 蓋し本校が計画せんと欲したる大学は、巨万の資金と多数の碩学とを要し、一朝一夕にして之を設立すること能はずと雖も、右に述ぶるが如き学校は、今日直ちに之れを設立すること易々たるのみ況んや既に強固なる基礎の上に立てる私立法律学校の組織を変更して之れと為すに於てをや。

 故に都下の私立法律学校皆相競ひて大学と改称せんとするの報に接し、本校亦以為らく、今の所謂「大学」は本校の計画せんと欲したる大学には非ずと雖も、既に此名称を用ふる者あり、文部省亦之れを認可したる以上は、是れ大学に非ずと曰ふべからず。而も本校は之等の学校に優ることあるも劣ることなきを信ずるが故に、爰に学科を改正し、予科を増設し、総て他の大学と同等以上の程度となさば、亦以て大学と称するも何の不可か之れあらんと。是に於いて遂に組織を変更し『法政大学』と改称せり。」

 古島は、以上を次のようにまとまめた。

「予テ大学ニシヨウト思ツテ居タガ、本物ニスルニハ金ガカカルカラ止メテ居ツタ、所ガ、外ノ学校ガ大学ト改称シタカラ、アンナ物ナラ此方デモ出来ルト云フノデ大学ニシタ」

 まことに、古島らしい簡にして要を得た一言である。

 その背景には、高等教育機関への進学希望者の急増があった。当時の中学校卒業者数を見ると、明治35年度は、11,131名だったのが、36年度には、12,417名、37年度は、14,215名となっている。もう少しさかのぼると、明治30年度にはわずか2,458名に過ぎなかった。ちなみに明治36年度の高等学校の入学者数は、1,612名だった。(天野郁夫『大学の誕生(下)』中央公論新社)

 しかし、彼にとっては、これまで私学を応援してきたがゆえに、彼らのあまりの安易さに歯がゆさが残るのであった。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2009-12-29 08:01 | その他 | Comments(0)

明治時代の日本地図

研究会会員の署名記事が続く。
会員の広川一人氏の記事が12月24日(木)東京新聞に掲載されたので以下転載したい。

「坂の上の雲」時代浮かぶ 復刻の「明治中期分県地図」
~鉄道幹線の草創期も記録~

今年発行された地図の中で異彩を放ったのが「明治中期分県地図」(ゆまに書房)だ。明治時代の新聞「日本」が一九〇一年一月から三年間、付録にしていた道府県地図を復刻した。当時の読者には全国の状況を知る貴重な“大図解”司馬遼太郎原作のNHK大型ドラマ「坂の上の雲」とも縁があり、時代背景が浮かんでくる。(整理部・広川一人)

「鉄道マニアからも反響があったのには驚いた」。二月に発行した「分県地図」の原図をすべて集めた会社員高木宏治さん(五二)は話す。
「日本」は一八八九年、明治のジャーナリスト陸羯南(一八五七~一九〇七年)が創刊し、社長兼主筆を務めた。同紙は長谷川如是閑や三宅雪嶺ら言論人を輩出。一九一四年に廃刊するまで「国民主義」を論調とした。高木さんは「陸羯南研究会」(東京)の代表。
付録地図は東京府管内全図を皮切りに、○三年十二月まで四十七道府県と当時日本領だった台湾の計四十八枚が発行された。地図には市町村と鉄道、主要道路、山岳などが記され、裏面には人口や名所旧跡、産業など詳細な統計を収録。このほか、参考に発行された 「中国」「旅順付近」「朝鮮」「ロシア」の四枚も収めた。
地図作成の中心人物は木崎盛政。国の陸地測量部を経て、地図の都市規模や地勢に応じた文字統一などを確立し、「民間地図の父」と称される。製図家の辻野民雄さんは「木崎盛政の出世作の一つ」と話す。付録地図発行の年は、中国清朝末期の動乱、北清事変の翌年。○四年の日露戦争を前に、日本を取り巻く国際情勢が大きく変わろうとしていた時代だ。
「分県地図」を監修した日本国際地図学会評議員、清水靖夫さんは「明治維新後の廃藩置県実施から三十年後とはいえ、まだ庶民感覚では旧藩による国郡意識が強かった。『日本』が読者に、日本の新しい時代の方向性を知らしめようとした意思が感じられる」。
地図の鉄道幹線にはマニアが注目。東京では、群馬県(上州)の絹を港町・横浜に運ぶため赤羽-品川間や、石灰の産地・青梅などに鉄道が通るが、一四年に完成する東京駅の姿はなく、山手線も描かれていない。
鉄道幹線の草創期であり、全国の私鉄が○六年に国有化される以前の様子が分かる。海外では、朝鮮半島(○二年発行)に翌年開通する釜山-京城(現ソウル)の線はないが、中国には旅順-哈爾浜(ハルビン)などを結ぶ満州鉄道が走る。
 地図研究家の今尾恵介さんは「国内の鉄道幹線が満足でなかった時代に、中国などにこれだけの鉄道が造られた背景には、政府の大陸進出の狙いとロシアの脅威への対抗意識があったのではないか」と語る。
 陸羯南は正岡子規の面倒をみて、「日本」で俳壇欄を担当させた。二人の仲を「坂の上の雲」で書いた司馬遼太郎は、産経新聞時代の同僚で筑波大名誉教授だった故青木彰氏に陸羯南の研究を勧めた。青木氏の遺志はゼミ生らに引き継がれ、「『日本』は政論一辺倒とみられたが、先進的技術を取り入れ、読者にアピールしようとした気概を感じる」と高木さん。
前出の清水さんも「発展していく『坂の上の雲』の時代を垣間見る一級の史料」と話している。A3判の二百四十ページ。国立国会図書館や東京都立中央図書館、石川県立図書館などで閲覧できる。
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by kuga-katsunan | 2009-12-24 15:15 | Comments(0)

七回忌青木彰を偲ぶ

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この研究会発足の直接的なきっかけとなった、青木彰先生の七回忌の集いが12月12日にあった。
当日の模様が、やはり研究会の一員である風間正人氏の取材記事として産経新聞に掲載されたのでここに転載したい。

「今の新聞界どう思う」遺影に語りかけ 
「今度会ったらけっ飛ばしてやる」。女優、佐々木すみ江さんが夫の遺影に向かって身をよじらせると、会場は沸いた。
 新聞界のご意見番として厳しくも温かい声援を送り続けた筑波大名誉教授、青木彰さんが亡くなって6年。産経新聞編集局長などを歴任し新聞協会賞を2度受賞、筑波大に転じると現場体験に基づく報道の在り方などの研究を続け、NHK経営委員や東京新聞客員などを務めた。
 産経時代からの盟友・司馬遼太郎さんとの付き合いも深く、平成8年2月、腹部大動脈瘤(りゅう)破裂で倒れた司馬さんを看取(みと)り、司馬財団立ち上げにも奔走した。現在放映中の代表作「坂の上の雲」の映像化をめぐって、亡き司馬さんに代わりNHKと交渉したのも青木さんだった。
 「入社試験の面接以来の緊張感。怖かったなあ、腕を組み口をへの字にした青木さんは」。NHK「坂の上の雲」エグゼクティブ・プロデューサーの西村与志木さんは明かした。難物だった青木さんも交渉を重ねるうちに支援者になり、「いい作品を」と固い握手を交わし数日後に息を引き取った。その際「うちのばあさん(すみ江夫人)を(作品で)使ってやってくれないか」と小さな声で頼んだという。「こちらから出演をお願いしたい大女優」(西村さん)である。二つ返事だったが、初めて聞くご主人の思いやりにすみ江夫人は照れ、「何も教えずに逝っちまって」「けっ飛ばしてやる」となったのだった。
 情も理もある青木さんらしいエピソードは、産経時代の後輩や大学の教え子らによっても披露された。だが激動期にある新聞界は今こそ、青木節を聞きたい。「彼ならどう思うか」(中江利忠・元朝日新聞社長)「もう一度語り合いたい」(桂敬一・元東大教授)。物言わぬ遺影に問いかけた。(風間正人)12月19日産経
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by kuga-katsunan | 2009-12-22 12:16 | Comments(0)

羯南登場 NHKドラマ「坂の上の雲」

  司馬遼太郎はその代表作「坂の上の雲」の中で、羯南を描いている。


  「子規が東京でひとりうごきできるようになったのは、叔父の加藤恒忠の尽力によるが、加藤よりもさらにかれのために力になったのは加藤の友人の陸羯南である。羯南は子規にとって生涯の恩人だった。
   羯南
 本名は、実。
 旧津軽藩士の次男である。
 明治九年に上京して、当時司法省が秀才養成のためにつくっていた司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入った。そのとき加藤恒忠もこの学校に入った。
 ほかに、原敬がいる。
 国分青厓、福本日南もいる。
 この当時、この学校は校長以下薩摩閥で運営されており、その運営態度が羯南にとって気にくわず、ついに校長と衝突して放校になってしまった。
 其の後北海道にわたったが、ほどなく東京に帰り、太政官(政府)文書局の翻訳官になり、フランスの法律関係のものなどを訳していた。ほどなくやめ、新聞「東京電報」の社長になり、やがて新聞「日本」をおこし、明治四十年病没するまで明治の言論界の巨峰をなした。
 子規がたずねていったときは羯南はまだわかく、翻訳官のころだった。
 羯南は後年、当時を追想して、
「ある日、加藤がやってきておいのやつが田舎からやってくる、わしはその面倒をみねばならんのだが、すでにフランスゆきがきまっているから、君にそれをたのみたい、といった。やがてその少年がやってきた」
と、いっている。
 初対面のときの子規の印象は、
「十五、六のまだほんの小僧で、浴衣一枚に兵児帯といった、いかにも田舎から出てきたばかりという書生ッコだった。そのくせどこかむとんじゃくなところがあって」
 と羯南はいう。
「加藤の叔父がゆけというからきました」
 というほか、子規はなにもいわなかったらしい。羯南はその素朴さが気に入った。羯南はことばの鄭重なひとで、
「いかにも加藤君から話はきいております。ときどきあそびにお越しください」
 と、羯南のいう小僧にいった。しかしそれ以上は双方に話題がなく、羯南はしかたなく、
「私のほうにもおなじおとしごろの者が書生をしております。ひきあわせましょう」
といった。羯南のおいであった。小僧には小僧を配するがいいとおもったのだろう。
 ところがその羯南のおいと話しはじめた子規の様子は、初印象の小僧ではなかった。
「ことばのはしばしによほど大人びたところがある。相手の者はおなじくらいの年齢でもまるで比較にならぬ」
「叔父の加藤という男」
と、羯南はつづける。
「私よりは二つもわかい男だが、学校のころから才学ともにすぐれて私よりは大人であった。さすが加藤のおいだとおもった」
 子規はのち、羯南の世話になり、そのことを思いだすといつも涙が出る、と言い、その友人夏目漱石にも「あの人ほど徳のあったひとはない」と語っている。」

(司馬遼太郎「坂の上の雲」文春文庫)


  11月29日から始まったNHKドラマ「坂の上の雲」。

 今夜の第三回、いよいよ、羯南が登場する。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-12-13 09:58 | トピックス | Comments(0)

羯南とエジプト 4

 さて、少し前説が長くなりました。しかし、羯南がエジプトで、何を考えたかを想像するには、現在のエジプト社会を理解することから始めるしかありません。非常に雑な説明ではありますが、エジプトが二千年もの間、外国に支配され続け、現在もその格差社会の中で「支配されることに慣れきっている人」が大勢いるということを理解ください。

 羯南が訪れたエジプトはどんな時代だったのでしょうか。一九〇三年、エジプトは英国の支配下にありました。一八六九年には、スエズ運河が開通。アジア支配を強めていた英仏など欧州列強にとって、地政学上、その戦略的重要性は、かつてないほど高まっていたと言えます。

 そもそも、十八世紀末のナポレオン遠征も英国とインドの通商路を分断するという意図で始まったと言われています。最終的に、ナポレオン軍は、英国とオスマン・トルコの連合軍に敗れるのですが、この遠征をきっかけに、エジプトは、オスマン帝国のくびきを逃れ、自らの指導者にアルバニア人でオスマン帝国の将軍だったムハンマド・アリを選ぶことになります。後に、オスマン帝国にエジプト支配の世襲を認めさせ、事実上の王朝を樹立したアリは「富国強兵」「殖産興業」に着手します。日本の明治維新に相当するエジプトの近代化はアリが総督(パシャ)に就任した一八〇五年に始まったと言ってもいいでしょう。
 
 アリは軍の近代化と農業改革を進めるため、学者やエリート階級の子弟を欧州に派遣します。しかし、オスマン帝国の影響を引きずっていたのでしょうか、こうして派遣された人はトルコ系ばかりでした。また、シリアやギリシャ、オスマン帝国との相次ぐ戦争は、エジプトに近代化を急がせ、最新式の織物工場や造船所の建設は、フランスやイタリア人技術者の手にゆだねられました。さらに、大規模な農地改革はエジプトの伝統社会を瓦解させ、ギリシャ人やアルメニア人ら特権商人を生むことになったといわれます。アリら指導者階級は、このころから民衆の支持を失っていったと言えます。

はまぐち
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by kuga-katsunan | 2009-12-06 21:15 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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