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<羯南と古島一雄>(19) 私立大学評判記(その12)

 今回も「(四)私立大学の勃興」が続く。
 古島一雄は、明治30年半ばの私立大学の実態を次のように暴いている。 

 「従来法律学校に於ける特別学生若くは第一種生と称するものの大部分は、必ずしも其学校に入りて其学科を修めんと欲するにあらず、其多くは、徴兵猶予の特典の下に、他の各種学校若くは専門学校に入るの準備を為しつつあるものにして、他の入学試験あれば直に之れに応じ、幸いにして及第すれば其の籍を転ずるも、落第すれば依然として其の学籍に止まるものなり。」

 すなわち当時の学生の本音は、法律学校を卒業して、その知識を生かすべく法律関係の職業につく、ということが目的ではなく、徴兵から逃れるため、その特典のある「特別学生若くは第一種生」となれる正規課程(多くは「本科」といった)に入学したい、ということであった。

 しかし、本科は、入学基準が高く、入試をクリアしないと入れなかった。ただ、各法律学校とも「別科」という徴兵猶予の特典がない非正規課程を設けており、そこは入試がなく誰でも入学できたので、とりあえずそこに入って本科を目指したのである。とにかく徴兵猶予の特典を手に入れるために本科を目指すのであるから自分が在籍する学校でなくとも、他の学校の本科でもよかった。

 さらに古島は、次のように続ける。

 「従って其の三分の二は、他校へ転籍すべき目的の下に在るは、学校其物も之れを知らざるにあらず。然れども学校が、此等生徒の為めに得る所の月謝は、経済上内々の所得として利する所の多大なるを以て、黙々として之れを看過したりしのみならず、甚だしきは特典の看板を掲げて其の入学を奨励したりしなり。即ち学校は、特典の名の下に学籍を貸して月謝を得、学生は月謝を払うて学籍上徴兵猶予の特典を得、二者交々其利を計りつつありしなり。」

 結局、当時の私学は経営を維持するために、授業料が必要であり、それを別科が補っていた。別科の学生数は、本科を圧倒し、学校にもよるが、本科の数倍もあった。ある意味、別科は、本科への予備校的な存在でもあった。しかし、以上のような状況を学校側も学生側もともに甘受していたのであった。
 さすが、古島の分析力はたいしたものである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2009-09-30 08:55 | その他 | Comments(0)

井上劍花坊(7)

 引き続き、坂本幸四郎著「井上劍花坊・鶴彬-川柳革新の旗手たち」から引用を進める。

 最後に、劍花坊の妻、信子のことに触れる。

 最初の妻トメが長男・麟児(1893年)、次男・鳳吉(1895年)、三男・亀三(1898年)を出産した後、産後が悪く、明治31(1898)年他界する。

 劍花坊は、明治32(1899)年、遠縁にあたる岡信子を懇望し結婚。信子は2度と郷里に戻らなかったという。当時、信子は山口日赤の看護婦をしていて、劍花坊より一つ年上であった。信子も20歳のころ一度結婚していたが離婚。日露戦争にも従軍し、勲八等宝冠章を貰っている。

 信子は姑と3人の子供がいる後妻なでの結婚をしぶったが、それでも結婚したのは劍花坊の魅力にひかれたからではないかと著者は推測する。劍花坊と信子の間には、長女・竜子(1901年)、次女・鶴子1907年)の二人の娘が生まれた(pp.47-50)。


「「井上劍花坊追悼号」の『川柳人』誌に、全国から多くの人の追悼句が載せられているその中に

一人去り二人去り仏と二人  信子

とあり、夫を失った妻、喪式が終わって日がたった一人になった気持ちをうたって佳句。」とある(p.158)。

「妻信子に支えられての劍花坊であって・・・先妻の男の子を立派に成人させ・・・・主婦として『川柳人』主催者として生き伸びた。劍花坊の意志を継ぎ、鶴彬をかばいとおし、彼の作品を載せつづけた。その結果、鶴彬が1937年、治安維持法で検挙され、『川柳人』は281号で廃刊・・・戦後の信子と『川柳人』復刊については拙著『新興川柳運動の光芒』によられたい。・・・

 劍花坊の最大最愛の弟子が妻信子であったことを彼は知らずに死んだ。・・・・太平洋戦争勃発の前夜

国境を知らぬ草のみこぼれ合い

の人類の平和を望む名句を生む・・・(1940年1月『巻雲』誌に発表)

 1948年、信子は『川柳人』を復刊し主宰・・・このとき80歳(数え年)・・・1958年4月16日死去。享年89歳であった。

『川柳人』は1989年現在も発行されており、主催者は愛娘、大石鶴子氏である。」(pp。159-160)という。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2009-09-27 23:21 | 研究 | Comments(0)

松山の美術館で陸羯南の企画展

2009年9月18日付けの東奥日報さんの記事で、松山の、坂の上の雲ミュージアムで、羯南と新聞「日本」の展覧会が企画されていることが報じられているので、転載させて頂きます。


「司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」をベースにした展示を行っている松山市の「坂の上の雲ミュージアム」が、来年4月からの企画展で、新聞「日本」と同紙の主筆兼社主だった弘前市出身の言論人・陸羯南を取り上げる。

  ※写真=弘前市立郷土文学館収蔵の羯南資料について、井上さん(右)から説明を受ける石丸さん 」

http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2009/20090918110602.asp

(2009年9月18日付 東奥日報)
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by kuga-katsunan | 2009-09-25 00:39 | ニュース | Comments(0)

羯南とエジプト 2

 エジプトを訪れたことのある人は、よく分かると思いますが、五千年前に建てられたギザの大ピラミッドやルクソールの遺跡群を残したファラオの時代と比べ、三十年も前のボロボロの車が真っ黒な排気ガスを吐き出し、荷車を引っ張るロバや馬が幹線道路を走る現在のカイロの街とのギャップには驚かされます。

 地震もないのに、突然ビルが崩れたり、エレベーターが途中で止まったり、ひどいときには落下したなんてニュースも流れます。

 第二次大戦後のナセル革命で王制が打倒され、ナセルは近代化に着手しますが、次のサダトのとき、エジプト政府は自動車産業をはじめとする基幹産業に外国資本の参加を認めます。

 当時、隣国イスラエルとの間に緊張が絶えず、世界が東西冷戦下にもあり、手っ取り早く社会資本の充実を急いだのでしょうが、結果的に、現在のエジプトには国産車を作る能力も育たず、軍事物資から生活必需品に至るまで外国製品に依存する社会となってしまいました。エジプト綿で有名な繊維産業も「上流はいいが、下流はひどい。

 つまり、綿そのものは素晴らしいが、エジプト人に加工させると、仕上がりがひどくなるので、良質の綿はほとんどが輸出に回されています。
 
 エジプト人に「ピラミッドを造ったのは、君たちの祖先ではない。宇宙人か、さもなくば、七世紀のイスラム化でアラブ遊牧民が入ってきて、偉大な文明の子孫は駆逐されたのだ」と話すと、悲しいかな、「そうかもしれない」と受け入れる人が結構います。

  現在のエジプト社会に対する、一種のあきらめのようなものかもしれません。

はまぐち
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by kuga-katsunan | 2009-09-18 23:45 | 研究 | Comments(1)

羯南の葬儀

 今日は、羯南の命日。

 あらためて、明治40年9月15日、即ち羯南の没後二週間で発刊された<日本及日本人>の羯南の追悼特集を見てみた。

 杉浦重剛、朝比奈知泉、内藤鳴雪らの追悼の漢詩、俳句が並び、盟友であった国友重章、池辺吉太郎の追悼文が続く。

 池辺の文章の中に、一枚の写真が挟み込まれている。

<七里ケ浜に於ける陸氏終焉の家>と題されている。

木々に囲まれた羯南終焉の家の写真である。

続く、池辺義象の文章にも、もっと近景の家の写真が掲載されている。

裏木戸から家に向かうアプローチを見ることができる。

そして

<陸先生と余>

と題する鳥居素川の文章には

<陸実氏の葬儀>

と題された写真がある。

白装束に身をつつんだ人々が、棺をかつぎ、その横をフロックコート、羽織袴の喪服の男たちがつき従っている。

 「故陸実氏の葬儀は既記の如く五日午後一時下谷上根岸町の自邸出棺、谷中全生庵に於いて仏式に依り厳かに執行せられたり。」

(「日本」明治40年9月6日)

  この写真は、この記事にあるように、上根岸から谷中に向かう、葬儀の列の写真だったのであろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-09-02 23:10 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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