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<羯南と古島一雄>(16) 私立大学評判記(その9)

 今回から1903(明治36)年当時の私立大学の動向に入っていく。
 古島一雄は、「私立大学の勃興(四)」と題し、当時の私立大学の状況について、まず次のように述べる。

 「慶應義塾が大学部を設置せしは明治二十三年にして、専門学校が早稲田大学と改称せしは昨年の八月なり。慶応義塾は爾来(じらい)若干の卒業生を出せしと雖(いえど)も、早稲田大学は尚ほ本科一年生を有するに過ぎず。而して他の大学と称するものは、只だ予科生あるのみにして、其の学年を始むるは、一二年の後に待たざる可らず。」※( )内は筆者補足。  

 慶応大学は、私立大学のなかで最も早く1890(明治23)年に、高等課程(旧制高等学校と同等程度)の上に大学課程を設置し、すでにそこからの卒業生を出していた。また早稲田大学は、前年の1902(明治35)年に大学課程を設置、名称を東京専門学校から早稲田大学に変えたばかりであり、その課程にはまだ1年生しか在籍していない。

 「他の大学と称するもの」というのは、ここでは法学院大学(現・中央大学、旧・英吉利法律学校)、明治大学(旧・明治法律学校)、法政大学(旧・東京法学社)等のことを指す。以上は、大学課程を設置したものの、予科(旧制高等学校と同等程度)から始める必要があったため、大学課程にはまだ在学生がおらず、予科の学生のみという状況であった。

 明治30年代半ばともなると、多くの国民は“立身出世”を目指し、大学への進学熱が高まっていた。明治政府としては、その要望に応える必要があったが、大学と呼ぶべきものは、東京と京都の2つの帝国大学しか認めていなかった。

 新しい大学を増設するには莫大な経費がかかるため簡単にはできない。そこで、1903(明治36)年4月に専門学校令を布告、私学でも大学課程を持てば“大学”と認めることにした。(“大学”なのに専門学校令とはおかしいが、上述のように国が意味する“大学”とは、 帝大のみであった。)それにより慶応、早稲田ばかりか、既存の法律学校も“大学”の仲間入りができた。

 しかし、ここに古島が噛みついた。

 「吾人は、従来官学の弊を認むると共に、私立大学の勃興に就いては多大の同情を寄するに吝ならずと雖も、法律学校が殆ど同時に相競うて大学の名を冠せしむるに至つては、実は其余りに申合せたるが如きに驚きしなり。」

 法律学校がみな一斉に“大学”になった。しかし、そこには、本来的な大学としての実態が伴っておらず、単に看板を書き換えただけであった。古島は、それを問題として指摘したのである。その詳細につては次回に譲る。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2009-06-28 10:40 | その他 | Comments(0)

寒川鼠骨の<陸翁の長清会>

  寒川鼠骨といえば、子規山脈に連なる俳人で新聞日本でも働き、子規没後も子規庵をまもった人物である。

  その鼠骨が、羯南の十七回忌にあたって<日本及日本人>(第869号、大正13年)がくんだ特集<陸羯南を憶ふ>の中で、<陸翁の長清会>と題する文章を残している。

  「神田の書生町から八丁堀の江戸っ子町に移って、下町気分にひたつて獨り喜んでゐたのはよいが、私の健康は兎角に勝れず缺勤がちに愚圖々々するやうになつた。『上野に移つてはどうだね、下町は空気が悪いからいけないよj』と陸翁は私を上野に誘はれた。」
  (日本及日本人  第869号、大正13年)

  と、ここに羯南の<声>が出てくる。

 自分の社員をいたわる社長羯南の雰囲気が伝わってくる。

  鼠骨は、このアドバイスを受けて、上野の元光院へ移り住んだ。

 この元光院が、長清会の会場であった

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-06-27 07:02 | 研究 | Comments(0)

長清会の人々

  囲碁好きの羯南が友人たちと催していた囲碁の会<長清会>については、つかもと君が以前に紹介してくれている。

  その会員の一人画家の浅井忠がフランスへ行くことになって、会員が集まり大宮で送別会を催した様子が絵巻物になって残っている。(長清会大宮遊図巻)

  絵は、浅井忠、本人が描き、文章は羯南が書いている。

総勢11名の一行の顔ぶれは以下の通りである。

  浅井忠、三浦梧楼、陸実、三輪信太郎、磯野徳三郎、平坂閎

  松永彦右衛門、桂五十郎、池辺吉太郎、三宅雄二郎、国分高胤

 このメンバー、多くの人々は既にこのブログでも紹介させて頂いた面々であるが、3名が初めてのお目見えとなる。

  三輪信太郎
  平坂閎
  松永彦右衛門

 の3人である。

 羯南の関係の文書によく出てくる、という名前ではないが、この会は羯南が最も心を許した人々の会の一つでもあり、今わかる範囲で順番に紹介させて頂きたい。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-06-20 05:32 | 研究 | Comments(0)

井上劍花坊(6)

引き続き、坂本幸四郎「井上劍花坊・鶴彬-川柳革新の旗手たち」(1990)を中心に引用を進める(pp.59-63)。

「『日本』新聞の、川柳欄、「新題柳樽」は好評で、ちょうど1年がたった、明治37(1904)年7月3日には、投句者が300余名に増え、井上秋劍は、選者名を「新題山柳樽寺和尚劍花坊(しんだいさんりゅうそんじおしょうけんかぼう)」と名乗った。

これから後年、この派が、柳樽寺派といわれるようになり、主宰者の劍花坊は、門下生から和尚の愛称で呼ばれるようになる。・・・(ペンネームを坊主にしたのは、)天田愚庵との邂逅からだという。・・・天田愚庵は、1854年平藩主安藤信正の家臣、甘田平太郎の五男として生まれ・・・漢詩のほかに万葉調の和歌を能くし、正岡子規に多くの影響を与えた。

・・・神田のニコライ新学校で・・正院の大主記である小池祥敬に出会い・・・生涯の大恩人、山岡鉄舟を紹介され・・・国学の師、落合直亮を知った・・・1873年、直亮が開塾した中教院で、生涯の友となった、国分高胤と落合直文を知り、国分によって、陸羯南、福本日南ら『日本』新聞をよりどころとする人たちを知る。

・・・1882年春、産寧坂に草庵をかまえ愚庵と称し・・・ここに多数の文人が訪れ、正岡子規、河東碧梧桐、桂湖南、国分青崖らもその仲間であった。・・・1903年5月上京、日本新聞社の特別桟敷で初日から千秋楽までの9日間、角力記者であった井上秋劍と二人ならんで観戦した・・・。

そのひと月後、7月3日、『日本』新聞に、「新題柳樽」の川柳欄を設けた・・・天田愚庵研究家、柳内守一は

秋劍は、愚庵を思慕したものであろう。川柳革新の砦を柳樽寺と名づけ、己を僧にみたて、禅童、劍花坊、秋劍禅侶、大和尚などと呼称した。やがて川柳を中興したといわれる柳樽寺派と、その総帥、井上劍花坊の誕生はここからであった(『川柳人』1987年1・2月号)

といっている。」


しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2009-06-08 00:08 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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