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<羯南と古島一雄>(15) 私立大学評判記(その8)

 今回でようやく「私立大学評判記(三)緒言(下)」にたどり着いた。本編では、再度、明治中期の大学と政治の関係が述べられている。

 まず古島一雄は、西南の役以後、政治は武力ではなく、政論によって戦わされることになり、民間の勢力として、土佐の立志社、大阪の愛国社、福沢諭吉関係者の東洋議政会、尺振八関係者の桜鳴社、岡山県の有志、九州の志士が集結したと指摘する。

 そして、板垣退助が自由党を組織し、西園寺公望は東洋自由新聞を起こし、中江兆民は政理叢談を発行したと続ける。

 明治14(1881)年には、自由党、改進党、帝政党と3つの政党勢力が存在したが、それぞれ自由党はフランス的で主権在民、改進党はイギリス的で主権在君民、帝政党はドイツ的で主権在君を主張した。

 また当時は、帝国大学(現・東京大学)出身の学者が世に出、早稲田大学の前身の東京専門学校が設立され、すでに各学校の学問系統が社会に影響を及ぼすようになっていた、とする。

 明治15(1882)年に伊藤博文が、憲法調査のためにドイツに行くと、帝大は官吏の養成所と一変、政治家は、各種の政論を唱え、その政論を実行するために、新たに政党を起こすか、大学を創った。例えば、日本大学は、皇典論を唱える山田顕義により設立された。
 そうして古島は、大学と政治のつながりを以下のようにまとめている。 

 「明治大学、法政大学が、箕作(麟祥)氏の仏蘭西法律に源を発せるが如き、今の法学院大学(現・中央大学)の前身たる英吉利法律学校が、仏蘭西法学に反抗して起れるが如き」

 「福沢(諭吉)氏の慶応義塾は、英国風に拠りてり(立憲)改進党を孕み、箕作、中江の仏学塾は、仏国的に自由党を生み、加藤(弘之)氏の総理たりし大学は、独逸的に政府の城郭を建築したりしは争う可からざる事実なり」
 ※( )内は筆者補足。

 そして最後に「今の六大私立大学は、将来に於て何物を産出せんと欲する乎」と問いかける。

 明治政府は、大学が西郷隆盛の私学校のような存在になるのではないかと危険視していた。中でも早稲田大学は、創立に際し学問の独立と不偏不党の立場を謳ったものの、下野した大隈重信が設立した大学であり、その実質的な学長である小野梓も、大隈とともに改進党を創設した人物であったため、政府により学生募集活動が妨害され、教員の動員に横やりが入り、スパイまで送られたことがあった。

 これで「緒言」が終了し、次回から本論へ突入することになる。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2009-05-30 10:29 | その他 | Comments(0)

香夢楼緑(かむろみどり)のこと(硯友社同人)  柳田泉

  明治文学研究の草創期の泰斗の一人に、柳田泉がいる。

 柳田は、明治27年から昭和44年までの、明治、大正、昭和の三代を生き抜き、母校の早稲田で文学史を講じた。当初、翻訳、イギリス文学を志向したが、関東大震災で多くの資料が焼失したことを目前にして、明治文学の研究に転向する。このあたりは、筑摩の明治文学全集の月報に連載された<明治文学研究夜話>(リキエスタの会、2001年)に詳しい。

 その柳田があちこちに書いた明治文学ものをテーマ別にわけて編集したのが<随筆 明治文学>三巻(平凡社、東洋文庫)である。人物編の中に、<香夢楼緑(かむろみどり)のこと(硯友社同人)>という随筆がある。

 香夢楼緑(かむろみどり)、前述したように、東京電報社員松野徳之助のペンネームである。

柳田も同じように、その兄から<手むけ草>を入手したのが、この随筆のきっかけだったようだ。

<香夢楼緑が私の郷人だというのは初耳である。>

柳田も弘前人、東奥義塾の出身である。
柳田はこの追悼集をたどって、香夢楼緑の弘前時代を語り、いよいよ東京へ出るというところで、

<友人成田氏鉄四郎が、此の上京の時の事を記してかう追懐してゐる。>

と、東京電報、新聞日本と羯南とともに働き、後に東奥日報の主筆となった、成田鉄四郎の追悼文を紹介する。

たかぎ

 
  
 
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by kuga-katsunan | 2009-05-30 06:29 | トピックス | Comments(0)

東京電報社員  松野徳之助

  ひょんなことから、東京電報の社員であった松野徳之助の追悼集を見る機会を得た。

<手むけ草>と題されたこの追悼集は、明治23年発行の私家版の小冊子。

  松野は、香夢楼緑(かむろみどり)のこと、と青森県立近代文学館の方に教えて頂いた。

同館の<青森県の作家>のデータベースには以下のように紹介されている。

「外国文学者。
家は弘前藩士で父は松野幹といい、弘前に生まれた。
本名を松野徳之助といった。
東奥義塾に学び、明治15年春、18歳の時上京。
大学予備門に入学し、18年本科に進んだが胸を病み、いったん帰郷。
21年再度上京。東京電報社さらに雑誌「出版月評」に転じた。
その間、山田美妙や尾崎紅葉らが組織した文学結社硯友社初期の同人となる。
雑誌「我楽多文庫」から「文庫」にかけて「作者身上話」として英国の歴史小説作家サー・ウォルター・スコットの略伝を連載し、また「ウヰリヤム・西エキスピーヤ翁伝」を書き始めたが再び病み、
22年夏帰郷、ついに亡くなった。
享年25歳。翌年3月、追悼文集『手むけ草』が出された。
    悼松野緑
  知らぬ間に松は折たり夜の雪  尾崎紅葉
  其夢の涙にさむる霜夜かな   川上眉山 」


 これまで日本新聞社の社員を中心に追ってきたが、考えてみれば、日本新聞社も一朝一夕にできたわけではなく、その前身となった<東京電報>がどうであったかも大きく影響している。

 東京電報は、羯南が、官報局時代の上司、高橋健三の肝入りで社主兼主筆としてスタートしたのだが、実態を形成した社員がどのようであったかはあまり知られていない。

 後援者、主要執筆者としては、谷干城、青木貞三、高橋健三、古荘嘉門、柴四朗、国友重章、杉浦重剛そして古島一雄らがあがってくるが、明確に社員としてあがってきたのがこの松野徳之助ということになる。

  たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-05-17 19:27 | トピックス | Comments(0)

新聞日本と政教社の人びと 丸山真男 その2 

  古島一雄の次に登場するのは

  「もちろん羯南(陸実)も個人的には私は知らない。」

  と羯南の話になる。

羯南は1857年から1907年の生涯。
 
 丸山真男の父、幹治は、1880年から1955年と長命であった。晩年もずっと書き続けた毎日新聞のコラムも長いキャリアを誇った。

 幹治の二男であった真男は1914年から1996年と、父以上の長命であった。羯南が亡くなってから7年後に生まれている。

 真男の座談に出てくる父幹治の家庭での羯南への崇敬の念は前に紹介したが、彼の羯南への見直しのきっかけはやはりこの幹治から始まり、その情熱が羯南全集を生み出した。

  「こういう人たちについては、おやじから話は聞きましたけれど、直接には知らないわけです。」

 若くして亡くなった羯南はともかく、古島は1952年まで87歳の長命をほこったので晩年に会っても不思議はないような気もする。
 幹治がジャーナリストとしての生涯を貫いたのに比して、古島は、日本新聞社以降、万朝報に移り、明治44年衆議院議員となってからは政治家としての人生を送った。

 古島は、真男が戦後書いた<陸羯南  人と思想>、を読んだのであろうか。

古島も同じ時期に、<日本新聞社時代>と題する連載エッセイを雑誌に発表していた。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-05-10 07:34 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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