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<羯南と古島一雄>(11) 私立大学評判記(その6)

 前回、明治時代直前から中期にかけて国民に西洋の知識を伝え、その教育の影響と効果をもたらした高等(大学)・中等(高校・中学校)教育の担い手として、慶応義塾を始めとする学校、数校を紹介した。古島一雄は、さらに「(一)緒言(上)」で、次のように述べている。

 「試みに只(た)だ政治思想の一方面に見よ。夫(か)の民権と曰(い)ひ、自由と曰ひ、進歩と曰ひ、保守と曰ひ、而(しか)して自由党となり改進党となり、帝政党となり、遂に今日の憲法政治を見るを得たるもの、実に此等(これら)教育の賜にあらずや。」※( )内は筆者補足。

 そして、以下のように続ける。

 「英米流の政治思想は、福沢(諭吉)、尺(振八)、中村(敬字)の三氏に唱導せられて改進党の萌芽となり、仏国ルーソーの民約論は、中江兆民に鼓吹せられて自由党の声明となり、加藤(弘之)氏の独逸(どいつ)的国権論は、明治政府唯一の金城鉄壁となり、箕作(麟祥)氏の仏蘭西(ふらんす)法律書は、依つて以つて日本法典の基礎となる。」※( )内は筆者補足。

 古島は、上記のように各代表者を中心とする学校での政治思想教育と当時の政党の由来を説き、学校教育が政治と大きなかかわりがあったことを指摘している。

 そもそも当時の学校は、政治結社の性格も持ち合わせ、その境はあいまいである。自由民権運動の温床ともなった。例えば、当時の代表的な結社であった高知の立志社には、立志学舎という学校があり、慶応義塾の卒業生を英語教師として迎えベンサムやミル等の西洋思想の講義を中心に行っていた。
 
 翻って現代を見ると、今の大学には政治の臭いすらしない。かつての丸山真男のような教員はいないし、学生は政治に無関心である。長年、大学に身を置いている立場からすると隔世の感がある。   

 かつて学生運動の激しかりしときがあった。私は、その時代を直接体験していないが、学生の政治活動を禁止していた筑波大学でも、昭和50年代にその名残りがほのかにあったことを憶えている。歴史的に見れば、教育と政治とは、切っても切れない縁があることがわかる。 

 古島は、後に政治家となるが、そのベースはこの新聞「日本」の記者時代に培われた。

 一方、陸羯南は、政治家にならなかった。官吏時代の上司であり、新聞「日本」の生みの親のひとりである高橋健三が松隈内閣の内閣書記官長にあったとき、協力を求められたことがあるが、相手にしなかった。官僚を辞めてからは、在野にて、中庸、中道、中立を保とうとした。    

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2009-01-31 10:05 | その他 | Comments(0)

陸羯南会設立記念シンポジューム20090124

 07年は羯南、生誕150年、没後100年という節目の年。
 その翌年10月、地元弘前で「陸羯南会」が発足しました。「羯南の真の心を研究する活動、併せて羯南人脈の人々を究明する活動をしていきたい」というのが趣旨。明けて09年1月24日、その設立記念シンポジュームが開かれることは、たかぎ主筆のアナウンスがあったとおり。
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 そのシンポジュームの主賓はたかぎ主筆だったのです。メインテーマの講師として招かれ、講演、およびパネルディスカッションに参加することになりました。わたくしもたかぎさんの講演の記録者として参加しました。
 講演のテーマは、「陸羯南と『日本画報』」ではありましたが、司馬遼太郎から青木彰に託され、そして我々青木塾の面々が羯南研究に参加することになった経緯から始まり、司馬さんの追悼番組に出演された青木先生のビデオをまず上映。そして1時間にわたって、羯南の新聞人としてのユニークな活動の一端である、グラフ誌「日本画報」について説明しました。
 後半のディスカッションでは、地元弘前の羯南研究者のお三方に混じって、たかぎさんは羯南の足跡、受け継がれた遺志を弘前出身者からの観点で光を当てることの意義を強調しました。
 会場は弘前市立図書館の視聴覚室でしたが、約80人の参加者が詰めかけ、補助いすを出すほどの盛況でした。東奥日報、毎日新聞、青森放送など、メディアの取材も入り、地元弘前での熱気を肌で感じてきました。


                                  すずき
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by kuga-katsunan | 2009-01-25 22:09 | Comments(0)

<司馬遼太郎が愛した言論人>陸羯南と青木彰 展

上記タイトルの展示会を企画中です。
「司馬遼太郎 没後十三年・青木彰 七回忌 特別企画展覧会」という位置づけで都内展示ホールにて実施する予定。

●企画趣旨・意図
 <子規全集>の編集、<坂の上の雲>の執筆で司馬遼太郎が出会った近代言論人の原点・陸羯南と、その司馬遼太郎が現代の陸羯南になぞらえた現代の代表的言論人青木彰、この二人の軌跡を追うことで、改めて21世紀・現代における、言論の意義とあるべき姿を問う
●展示内容
   1.司馬遼太郎の描いた陸羯南・青木彰
   2.陸羯南関連(新聞日本、大日本、小日本、日本画報、東京電報関連遺品等)
   3.司馬遼太郎からの手紙
   4.青木彰の描いた陸羯南(ノート)
   5.関連資料・写真・遺品(街道をゆく「三浦半島記」・「北のまほろば」著書・DVD等)

開催時期は青木彰生誕を記念して7月4日よりを予定しています。
当研究会のひとつの節目として関係者の皆様の様々な形でのご支援・ご協力をお願い致します。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2009-01-21 14:37 | Comments(0)

井上劍花坊(2)

引き続き、坂本(1990)から引用する(pp.55-57)。

 古島一雄の意図は、当時、やたらと新聞が政府攻撃を行い、その都度発行停止処分を受けるので、直接時事を批評せず、間接的に政治批判ができないかと考え、井上劍花坊に声をかけたという。

(ここからは、古島一雄著『一老政治家の回顧』からの孫引きで、)

『僕がどうして狂句に興味を持ったかというと、憲法発布の日、文部大臣森有礼が殺されたとき、西松二郎が、

有礼が無礼の者にしてやられ
廃刀論者 出刃包丁を腹に差し

という狂句を書いてよこした。

 森は当時、有名な廃刀論者だ。実に面白い。これをやれ、と思って探したが適当な人がいない。・・・・(中略)・・・正岡子規に相談したら、藤井紫影という金沢の高等学校の先生をしている人に頼もうということになったが、なんといっても金沢では、今日のように通信機関が発達していないから、折角の句がおくれる。

 困っているところへ、井上劍花坊というのがでてきた。・・・・
 井上劍花坊が入社したいといって、自分の著書、十銭叢書を持ってきた。読んでみたらくだらぬものだが、中に狂句がある。それがどうにかなりそうなので採用した』
と古島一雄は書いている。

井上劍花坊も偶然川柳欄を担当することになった、と坂本はのべている。
そして坂本はさらに

「劍花坊が、社主が陸羯南である日本新聞社入社を希望したのは、この新聞社の国民主義に賛同したからであり、主筆古島一雄が、その主旨を川柳で啓蒙しようとした点では劍花坊の志と一致していた。」と記している。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2009-01-18 14:38 | 研究 | Comments(0)

井上劍花坊(1)

 高木主筆より、坂本幸四郎著『井上劍花坊・鶴彬』リブロポート(1990年)をお借りした。以下この本に基づき、井上劍花坊についてみてゆきたい。

 井上劍花坊は、1870年山口県萩の生まれ。井上家は毛利家に仕える家柄であったが、明治維新で没落している。

 井上劍花坊は、小学校の代用教員の傍ら、神代大介の「遊学塾」で漢学を学び、『鳳陽新報』(後の『長州日報』)、雑誌『明義』の文芸欄担当、『越後日報』主筆を経て、1903年(明治36年、33歳)で日本新聞社に入社している。

 坂本によれば、「『日本』新聞が近代文学史に名を残したのは1892年(明治25年)6月、正岡子規の新俳句運動を始めたことによる。」とある。

 そして井上劍花坊の日本新聞入社に関して、坂本(p54.)は「・・・そのとき、主筆の古島一雄に、『この新聞でかつて、正岡子規が新俳句をおこしたのだが、こんどは君がこの新聞で新しい川柳をおこしたらどうだ』と言われ、このはなしから、明治36年7月3日、『新題柳樽(しんだいやなぎだる)』の欄名で川柳欄が設けられた。『柳樽』は、江戸古川柳の名著『柳多留』からとったのはもちろんである。」と記している。

しぶさわ

 
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by kuga-katsunan | 2009-01-17 13:05 | 研究 | Comments(0)

弘前:「陸羯南会」たより 第一号

弘前の陸羯南会から、「陸羯南会」たよりの第一号を頂戴した。

   「陸羯南会は、会員全員の力で、羯南の真の心を研究する活動、

   併せて羯南山脈の人々を究明する活動をしていきたいと思います。」

  弘前は、羯南の生誕の地であり、彼の人間の根幹を育んだ揺籃の地である。

東京の司法省法学校から戻ったときに、次への飛躍の力を養ったのも弘前、青森であった。

  東京での仕事に苦労したときも、彼を支えたのは故郷出身の記者たち、友人たちであった。
故郷に残った友人たちにあてた手紙の内容は、他の人々とは格段の違いをもった心情吐露となっている。

  故郷に残されている羯南の<真の心>の発掘ができれば素晴らしい。

  <羯南人脈>については、このブログでも一人づつ順次紹介させて頂いているが、その奥と広がりは深いものである。

   司馬さんと青木先生が、最初に研究会を企画されたときも、羯南の魅力から発生した,人を集める磁場としての力に、注目していらっしゃった。

   <陸羯南と新聞「日本」の人々>

を、司馬さん、青木先生からの宿題のテーマとして、私たちの研究会も活動している。

 今後、没後百年記念祭の様に、弘前に羯南人脈の人々、それぞれの人物の専門研究者の方を招聘して、研究会を広げていく可能性もあると思う。

 陸羯南会設立記念シンポジュームは、いよいよ来週24日午後1時半から、弘前図書館の視聴覚室で開催される。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-01-17 05:45 | ニュース | Comments(0)

《黄泉還り対談》 陸羯南---正岡子規について語る

 子規と陸の娘達

問   先生のお子さん達と子規との事について話して頂きたいのですが。

陸   「家には萬亀、鶴代、幾子、巴、しま子、ますえ、五十子(いそこ)と七人の子供が居りまして、全部女の子です。男の子も生れたのですが、明治三十三年二月に二歳で亡くなりました
    正岡の家に出入りしていたのは五女のしま子まででしょう。
    色々あるようなんですが・・・。何から話せば良いのか・・・」

問   それでは、鴨騒動のことについて。

陸   「ある日私が家に帰ると、家内が「お律さんがいま風呂に入っているのだが、鴨を預かって困っている」という話でした。正岡さんでは時々我家の風呂を貰いに来ておりまして・・・、律さんが風呂から上がって、話を聞いたら、高浜君が、『お歳暮』に小鴨の番を持ってきてくれた。
 病人の慰めになればと思ったのでしょう。それを縁側で飼いはじめたが汚したりなんなりで始末に負えない。母親に言っても『病人が喜んでいるのだから、我慢しましょう』と言う。
なんか良い解決方法はないでしょうか。ということなんです」

問   それでどうされたんですか。

陸   「うちに庭があってそこに小さな池を掘っていたんです。その池に小鴨を飼うことにして、翌朝正岡君の枕元まで行って『うちの娘達がおたくの小鴨がほしいと言っているので、譲ってくれませんか』とお願いしました。

正岡君は小鴨の事位でなんで隣の主人がしゃしゃり出て来るのか訝しがった様ですが、兎に角譲り受けて貰い、小鴨騒動は納まったのです。その後正岡君は、娘の顔を見ると『鴨はどうしてる』と聞いていたようです。
その直ぐ後の正月に、正岡君は私にその小鴨が見たいと言って来ました。
私は、家に居た書生達を迎えにやりました。その頃は殆ど寝たきりでしたので、風邪を引かせないように、戸板に布団を敷いてそこに寝かせて我が家の座敷まで運んだのが思い出されます」    
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by kuga-katsunan | 2009-01-10 10:02 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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