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<羯南と古島一雄>(10) 私立大学評判記(その5)

 「私立大学評判記」の連載初回「(一)緒言」の中で、古島一雄は、明治維新直前から明治36(1903)年当時までの、高等(大学)・中等(高校・中学校)教育の影響と効果について次のように述べている。

  「慶応義塾が、西洋文物の輸入に与って大功ありしは天下の熟知する所にして、国民の感   謝する所なり。」

 さらに、「慶応義塾と共に忘るべからざるもの」として、以下の創立者と学校を挙げている。(ただし、加藤弘之は、創立者ではない。)

  尺振八(せき しんぱち)の家塾(名称は共立学舎)
  箕作麟祥(みつくり りんしょう)の家塾(名称は共学舎)
  中村敬字(なかむら けいう。名は正直)の同人社
  中江篤介(なかえ あつすけ。号は兆民)の仏学塾
  加藤弘之(かとう ひろゆき)の開成学校(現在の東京大学)
   注:( )内は筆者の補足。

 以上の学校は、明治維新の前後に設立された。古島は、これらの学校で西洋の知識、すなわち政治・経済思想から科学・技術に至るまでが国民に伝えられ、“文明開化”にとってその影響・効果が大であったことを指摘している。
 
 しかし、それにもかかわらず、当時において、既に慶応義塾と開成学校以外の学校は存在していない。明治維新前後、上記以外にも多くの西洋の知識を教える私立学校が設立されたが、明治10~20年代に600校以上が淘汰され、生き残ったものはほとんどなかった。 

 ちなみに、古島は、15歳で上京したときに、同人社にいたことがある。だが、外国人教師を殴って退学処分になった。その他、共立学校等数校の学校にも行ったがすべて中途退学している。当時の私学には、高等教育と中等教育の両方の機能が一緒にあった。

 また、陸羯南も17歳のとき東奥義塾に入学したものの退校。その後入学した宮城師範学校も、司法省法学校(現在の東京大学)も退学になり、まともに卒業していない。

 まだ学歴が重視される前の時期であり、彼らにとっては、幸運だった。しかし、彼らも学校教育の恩恵に浴していた。そのお陰で、陸はフランス語が堪能であった。  

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2008-12-31 18:47 | その他 | Comments(0)

卒業の歌  国分操子先生

 年末に<卒業の歌>は、気が早いのだが、明治時代に作詞、作曲された女学館の歌がある。

以下、同校のHPから引用させて頂く。

<卒業の歌
                 国分操子  作詞

                  大山たま  作曲

花はうるはしき 錦を織りて
式場を飾り 鳥は楽しき
楽を奏して 祝意をあらはす
思へばうれしき 卒業式よ
長き年月 恩師益友
我を教へ 我を励まし
人の踏む道 讀み書く業
裁ち縫う術さへ 習ひ得て
今日の筵に 連なる我等
學びの庭を 今日より出でて
浮世の海の 初航海に
のぼらん我等 よしや浪風
荒れん瀬に會うも 年頃日頃
いとねんごろの 師の御教へを
磁石と頼み 正しき道を
進みて行かば 何か恐れん
たつ浪吹く風 あな面白や
あなうれしや 進め友どち


 「東京女学館卒業の歌」は高校三年生の3月、卒業式の直前に初めて教えられる、いわば女学館教育の最後の総仕上げに位置する歌です。
 明治45年に国語の国分操子先生が作詞、音楽の大山たま先生が作曲しました。

 当時、女学館ではこのお二方の先生によって、毎年新しい卒業の歌が作られていたいといいます。
 なかでもこの歌は特に当時の生徒たちに愛唱され、以来今日に至るまで歴代の卒業生に歌い継がれてきました。

  校歌が作られたのが昭和23年ですから、それ以前の卒業生にとって、女学館時代を懐かしむ象徴としての歌はこの曲だったのです。

  同窓会の「白菊会」でも、あるご年齢以上の集まりでは、現在の校歌ではなく、「卒業の歌」が歌われるそうですし、毎年の白菊会総会でも、必ず歌われています。>


  毎年新しい卒業の歌が作られていた、ということがまず驚きである。

更に校歌より先に、この卒業の歌が作られていた、という経緯も新鮮である。

  明治45年にこの作詞をした国分操子先生は、誰あろう、羯南の盟友:国分青厓夫人であった。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2008-12-20 06:59 | トピックス | Comments(0)

大連だより  末永純一郎の墓所

  20年来の中国畑の友人のかたが北京に駐在していらっしゃる。
先日、大連出張のおりに、末永純一郎の大連の墓所について調べてきてくださった。

  ご自分のブログでご紹介いただいているので転載させて頂く。

<今回大連に行ったついでにお知り合いの調査に協力しました。

 それは100年前に大連で新聞を発行した人のお墓を探すと言うものでしたが、やってみると色々と新たな出会い、発見がありました。

 先ず大連駐在の日本人で一番歴史に詳しいと言われているKさんとお目に掛かりました。
現在要職に就いておられますが、学生時代は東洋史を専攻されたとのこと。
実は私も高校生までは史学科志望でしたので、非常に興味深くお話を伺いました。

『大連の歴史は僅か100年、それでも資料は膨大。仕事が無ければ色々できるんだけど。』

ということで、サラリーマンの私としても同感でした。

 また本年78歳のおじい様(中国人)ともお会いしました。
ホテルのコーヒーショップの中国人スタッフが全く気付かないほど、その物腰と言い、日本語と言い、日本のおじいさんそのものでした。
 20年前台湾に駐在した際、このような方(自分の祖父や父と同じ雰囲気を持っている)とお会いしましたが、大連でお会いできるとは思いませんでした。
 大連の小中学校で日本語教育を受け、現在も日本人同窓生と同窓会をやっておられるとか。また日中友好のために、日本人との積極的な交流を目指す会の理事もされています。

 勿論戦前の日本人墓地の場所、その後変遷などにも詳しく、多くを教えて頂きました。

 上記お二人のアドバイスで図書館も訪ねました。

 旧満鉄図書館に行くと、何でも知っている感じのおじさんが色々と教えてくれました。

 探す資料は全て大連図書館にあるということで、立派な本館にも行きましたが、残念ながら資料は整理されておらず、また100年前の新聞などは傷みが激しく、現物の閲覧は適いませんでした。

 しかしマイクロフィルムで保存している漢語誌を一部見せてもらい、初めて一級資料を眼にしました。

 そこには1912年の日本と中国の様子が広がっており、歴史を志した頃の感情が蘇り、感慨深いものがありました。

自分は一体何がしたいのか、昔は一体何を考え、そしてここまで来たのか、自らを再認識するきっかけを作る旅となりました。>

(香港老板茶荘:11月30日)

http://hkchazhuang.ciao.jp/diary/2008011bj.html

大連の写真はこちらになります

http://hkchazhuang.ciao.jp/gallery_bj/dalian2.htm

  なんと、末永純一郎の発行していた新聞<遼東新報>は、満鉄図書館に所蔵され、その資料はそのまま、今の大連図書館に引き継がれているのだ。

  明治34年7月から8月にかけて、近衛篤磨と陸羯南も、中国、朝鮮をめぐる視察の旅で大連を訪ねている。

  新聞日本が無くなったあとも、羯南の志を継ぐものたちは、台湾、朝鮮、そして中国へと雄飛し、アジアの各地で新聞を作り続けた。

  舞台は、いよいよ海外へ。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2008-12-14 22:17 | 紀行 | Comments(0)

陸羯南の書④

陸羯南からさまざまな関係者に宛てた手紙がある。

下記の手紙は、明治22年2月22日に加藤拓川に当てた手紙である。

(加藤拓川は、松山市歩行町生まれで正岡子規の叔父にあたり、
陸羯南に子規を引き合わせた人物である。
晩年、松山市長を務めた時には、
陸軍省から城山公園を払い下げてもらい、
松山高等商業学校(現在の松山大学)の創立にも尽力した。)

その加藤拓川に、新聞「日本」創刊の直後に、
日本新聞社のことを報告し、
社内に福本日南や国分青厓などの司法省法学校時代の
友人らが多いことを伝える内容であった。


e0106376_14282039.jpg



前回にも書いた通り、陸羯南の手紙文の場合、
書き出しの上段部分の余白が少なく、
比較的下段に余白があるケースが多いのであるが、
この手紙も、上部の余白が少なく、下部は若干の余裕がある。

また、畏まった相手ではなく、気心の知れた人物に出す手紙らしく
ざっくばらんな行書体で、近況を知らせている。

自体としては、掛け軸のように筆圧はないものの、
流れるような書きぶりは、加藤拓川との人間関係が
顕れている。

手紙の最後に、白髪の話で締めるなど、
自己の老いていく想いで文章をまとめているのが、
印象的な手紙である。

ささはら
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by kuga-katsunan | 2008-12-07 14:30 | Comments(0)

陸羯南の書③


今年の8月に愛媛県松山市立子規記念博物館で
「反骨のジャーナリスト」として陸羯南・宮武外骨・黒岩涙香らを
とりあげた企画展に、
たかぎ主筆・つかもと氏・いしがみ氏・てらしま氏とともに
松山を訪れた。

その際、特別に保管してある書簡や掛け軸などを拝見した。

その中に、下記のの掛け軸があった。


e0106376_18291119.gif



タイトルは、「偶感」

虚名多俗累 薄福在塵寰 百時窮通外 一身天地間
鏡中驚白髪 車上思青山 何日烟蘿路 尋仙敲洞関

行書体で一気呵成に書かれたと思われ、非常に筆圧が強く、
鏡に写し出されるの白髪に驚く様など自己の心情を吐露している。

陸羯南の書の特徴は、特に掛け軸の場合、
書き出しの文字が大きく、その後、流れを大切に
書き連ねていく形式が多い。

陸羯南の手紙文の場合、書き出しの上段部分の余白が少なく、
比較的下段に余白があるケースが多いのであるが、
掛け軸では、下段まで、きっちりとかかれ、几帳面さが
作品に表れているように感じる。

書の概念については、私個人の観点ではあるが、
陸羯南の書からは、どの作品も、意思の強さを感じる。


今後も少し間はあくだろうが、羯南の書について、思いつくまま書き綴りたいと思う。  


ささはら
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by kuga-katsunan | 2008-12-06 18:48 | 研究 | Comments(0)

池辺三山-最初の外国特派員 その2

 陸羯南と深いかかわりを持つ池辺三山を取り上げるにあたり、三山が「日本の特派員一号」であることに絞って論ずるように、との要請を頂いた。

 そこで、当時の新聞「日本」に掲載されたペンネーム鉄崑崙による「巴里通信」を原本のコピーで読んでみた。

  私の印象をズバリ言い当てているのが、蘇峰の評伝にある「第三者の視点」と「平明で達意な文章」であった。
  
  蘇峰は「経営者」でも「編集者」でもなく、理想的な「リーダーライター=主筆」とも書いているが、この点はどうか。巴里通信の第二号で、三山は速報性こそが新聞の生命線であると説き、次のように書いている。

 「新聞紙の職とする所はこの機動の電火を為しこの変化の流星を描きて、一々その真相特色を誤らざるに在るものなれば・・・時々刻々直に電報通信を以って之を報ずるの仕組みをもなしたき事柄なり。

 但我国新聞紙の発達は未まだかかる巨費の結構を容るるの余地を有せず(欧米諸国の大新聞は直接に東洋の戦報を電報に採り、時としては一二欄の紙面を東洋電報のみにて埋むることあり、我新聞紙の欧州通信これに及ぶ能はざるは残念なり)・・・」

はた
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by kuga-katsunan | 2008-12-06 08:32 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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