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<   2008年 11月 ( 10 )   > この月の画像一覧

新聞日本の社会記事  その2

 記事を読むと、事件は3月に発生。

 数名の容疑者が捜査線上に浮かび、次々に調べを受けるなか、美少年ばかりを誘拐し、暴力をふるっていた某容疑者(当時22)が捜査線上に浮かび、捕まった。美少年をねらう猟奇的な犯罪に、世の中の目は釘付けだったようだ。

 二日後の朝日新聞の7日5面には、「麴町の少年殺しに就いて」と続報まで載り、警視庁が証拠集めに奔走していること、容疑者の家族構成、学歴にくわえ、詐欺や窃盗の犯歴があること、一時横浜に逃げて、警察官の世話になっていたことなど、およそ取材したことをすべてを記事にしたような詳しい情報が載っていた。
 1行が22字のところ、60行以上もこの記事を扱っていた。
 
 このころの「日本」の、社会面的な記事といえば、せいぜい社会悪を糾弾する贈収賄事件の顛末などだ。

 そんな「日本」の社会面的な記事について、羯南が記者たちに編集方針をしたためた手紙が、「古島一雄清談」(1951年・古島一雄述/毎日新聞社編)に紹介されている。
 その題は「『日本』新聞と三面記事」。
 古島は「日本」の元記者であり、後に衆院議員、貴族院議員を務め、戦後は吉田茂のご意見番でもあった。

きくち
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by kuga-katsunan | 2008-11-29 22:24 | 研究 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(9) 私立大学評判記(その4)

 古島一雄が書いた「私立大学評判記」の第1回目は、明治36(1903)年11月3日発行の新聞「日本」の第1面に、第4段から5段にわたって掲載されている。古島は、すでに筆者が本ブログ「<羯南と古島一雄>(6)私立大学評判記(その1)」(2008年8月)で紹介した各大学の在学生数と卒業生数を記載したあと、次のように述べている。

 「慶応義塾に福沢氏ありしは、早稲田大学に大隈伯あるが如し。二者共に一代の人豪を持って称せらる。故に適切に之を言えば、慶応義塾に福沢氏ありしにあらず、早稲田大学に大隈伯ありしにあらず。早稲田大学は大隈伯の早稲田大学にして、慶応義塾は福沢氏の慶応義塾なり。是れ此二大学の他の大学と其成立を異にする所以にして、又た其特色を発揮せし所以なり。」

 この古島の記述から明治36年当時、すでに慶応義塾大学と早稲田大学は、私立大学のなかでも別格の存在として認められていたことがわかる。しかし、創立が文久3(1863)年(ここでは古島の説に従う)と最も早い慶応にしても明治初期の洋学校が林立した時期を生き残るのに汲々とし、早稲田も創立は、明治15(1882)年であるが、明治13(1880)年からほぼ同時期に設立された他の法律大学を凌駕するに至るには相当な苦難があった。この二つの大学が評価されたのは、単に“成立の特色”を発揮しただけではないだろう。いずれその要因をまとめてみたい。
 さらに古島は、以下のように続ける。

 「其他の法律大学は、皆な時代の要求に応じて成りしもの、時に先後の順あり、規模に大小の差ありと雖も、各々其適所に向って適材を出だし、以て今日の盛を致せしもの、私かに其創立の当時を見れば又た各々其素因を異にせるものなくんばあらず。」

 法政大学(設立時名称:東京法学社。以下( )内は設立時名称)、明治大学(明治法律学校)、専修大学(専修学校)、中央大学(英吉利法律学校)、日本大学(日本法律学校)等、これら私立の法律大学は、そもそも当時の学校名が示すように法律を教える学校として発足したのであった。しかし、当時は、それほど法律に需要があったのだろうか。その私立法律大学の存在意義については、今後、古島の文章から明らかになるだろう。 

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2008-11-27 18:02 | その他 | Comments(0)

組織人としての千葉亀雄~読売時代を中心に~

千葉亀雄(1867~1935)は戦前を代表する新聞人の一人であろう。

同時に文芸評論家としても一家をなした。川端康成、横光利一らの作風に「新感覚派」の呼称を与えたのも千葉である。

文芸評論家として成功しながら、一方で彼は、ジャーナリスト、それも、新聞人であり続けた。新聞人とは必然的に、新聞社という組織に属す、組織人である。本稿では、その組織人としての千葉亀雄のスタンスを見ることにしたい。

ところで、千葉が新聞人として活躍した戦前の時代は、野口悠紀夫・早大教授が言うように、戦後日本と異なり、経済システム全体に英米的な色彩がつよく、会社組織も戦後日本のような「共同体」ではなく、むき出しの機能集団であり、転職率もとても高かった(「1940年体制」)。
こうした英米的な組織について、千葉亀雄はジャーリズムにとってよい体制だと考えていなかった。

彼自身の行動をみても、特に読売時代には、組織のスタビライザー(安定役)として動いた事実もある。千葉は、安定、助け合い、協調などの価値を内包する組織が、ジャーナリズムにとって必要だと考え、実際にそういう立場で組織人として振る舞ったと言える。

本題に入る前に、まず千葉の経歴を見てみよう。

千葉は、漢文教師である父の任地、山形県酒田市に生まれる。1899年(明治三十二年)、21歳の時に、雑誌「文庫」の記者となったのがジャーナリズムへの入り口だった。1903年(明治三十六年)に三宅雪嶺の主催する雑誌「日本人」の記者、1905年(明治三十八年)に陸羯南の新聞「日本」の記者となる。

 その後の経歴を列記すると以下のようになる。

 国民新聞・社会部長(不明)
 時事新報社・社会部長(1916年10月~1919年8月)
 読売新聞・社会部長を経て、編集局長(1919年9月~1926年2月)

 つまり新聞社の幹部、管理職として務めていた時期が長いのである。

ひがし
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by kuga-katsunan | 2008-11-25 22:37 | 研究 | Comments(0)

ブログ開設二周年 その2

はずかしいことに開設しただけであとは主筆に任せきりであった。

しかも主筆の後をついで来月3日には青木彰記念講座の3学期の
皮切りをつとめることに。

3学期はメディアの未来がテーマであるので、陸羯南が、司馬遼太郎が
青木彰が伝えようとしたメッセージを、若者たちがいかに未来につないでいくか
再度おさらいしたいと思う。

とはいっても3学期の講義全体のガイダンスでもある。インターネットを
はじめとする新しいメディアを軸として話を進めざるをえない。

そこで過去から未来にどのように話をつなげていくのか。
現在思案中である。

講義終了後にまた結果報告をしたい。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2008-11-24 23:04 | Comments(0)

ブログ開設二周年  筑波大学での講義から

 早いものでつかもと君にこのブログをセットアップしてもらってから二年が過ぎました。

私たち青木先生の教え子、青木塾による筑波大学での青木彰記念講座も二年目に入り、先日二学期最後の講義で

  <メディア史の視点からー今なぜ陸羯南か>

という題目で講義させていただきました。

 この記念講座は主としてメディアの現場で働く青木塾生が、現場での体験を語り、メディアの未来を展望する、というシリーズ構成になっています。
 現在、未来が中心なので、一度くらいは歴史的な視点も、ということで、このテーマとなりました。

 内容は
1.なぜ陸羯南研究に入ったか  青木先生と司馬遼太郎
2.陸羯南とは   その生涯と業績
3.<日本画報>の持つ意義
4.歴史を学ぶこと
 という構成で準備していたが、75分の時間はあっという間で最後は駆け足になってしまいました。

最初に司馬さんが亡くなった時に放送された青木先生と文藝春秋の半藤一利さんの対談のDVDを流させて頂きました。
学生の皆さんには、初めての1990年代の青木先生の映像であり、半藤さんのインタビューも大変上手く、青木先生の個性を引き出すことができていたので生前の先生のいきいきとした雰囲気が教室に甦えりました。

 聴講して頂いた学生の皆さんに感想を書いて頂いたので、その一部を紹介させて頂きます。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2008-11-23 07:14 | トピックス | Comments(0)

池辺三山-最初の外国特派員

 池辺三山を論じるにあたり、まずは以下の評伝を紹介したい。1912(明治45)年二月二十八日、四十八歳で心臓発作に倒れた三山を悼み、翌日付の新聞「日本」に掲載された文である。

▲天成(ママ)の新聞記者 ▽徳富蘇峰氏談
 ・・・池辺君は天成の新聞記者で、如何なる場合にも第三者の態度を失わなはなかった、極めて感情の高い人で、好き嫌ひ贔屓不贔屓もあつたろうが、如何なる場合にも第三者の立脚地と云ふ事を忘れなかつた、攻めるとか守るとか云ふ方ではなく、新聞記者として是非得失を判断して裁判した裁判官である、
それが正しいか何(ど)うかは各自(めいめい)の考へであるが、兎に角その態度、第三者としての考へを失はぬ態度には、記者として殊に敬服した、天下多くの記者の中には、原告ともなり被告ともなる人は沢山あるが、池辺君だけは裁判官としての態度、裁判官としての位地を失はなかった、これが記者として重きをなした重(ママ)な原因であらうと思ふ。

 第二は文章が巧かった・・・晩年に於いては調子とか、語呂とかに頓着せず、専ら達意を主とするスタイルを発明して、池辺一家の文体を成した、風流ならざる所に又風流と云ふ言葉があるが、そのブツキラ棒な所が達意を主とする池辺式の文体となつて、読まれたのである。また其の文が明白であつた、同意不同意は別であるが、誰が読んでも判る明白な文章には感心した・・・技巧がない様で明白で・・・諄々として話しても能く筋が通つて判る、そこが池辺君の文章の好い所である。

 普通の記者は、一つ事を論ずるに、その事のみを論ずるが、池辺君は物と物との関係、事と事との交渉を見て、他との関係にまで論及する・・・但し公平かと云へば強(あなが)ち左様でもないが、初めからリタツチマインド、局外に立つて観ると云ふ事を忘れなかつたのには、感心して居た。

 池辺君は新聞を売る経営者でもなく、新聞を造る編集者でもなく、何処までもリーダーライターで、主筆としては真に立派な人であつたに惜しい事をした・・・痛惜余りあるのは君の死である

 三山評で蘇峰が強調しているのは、
一、三山は書くにあたり常に「第三者=裁判官」の態度を貫いた
一、三山は「誰が読んでも判る明白な文章家」であった

 の二点である。

はた
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by kuga-katsunan | 2008-11-16 12:31 | 研究 | Comments(0)

羯南と紅緑その2

 ご無沙汰です。羯南と紅緑その2です。

 前回、昨年の12月10日に投稿した私の駄文では、主に羯南と紅緑の関係に絞って書き連ねたが、今回は、現在に至る不思議な縁について書いてみたい。

 紅緑は羯南家の書生として東京に世話になりつつ、まずは俳句を志す。日本新聞社へ出仕するようになって、「小日本」を編集する正岡子規に出会った。言ってみればこの出会いが彼のすべてを決めた。碧梧桐、虚子、石井露月に次いで、四番目の弟子となった。はじめ本名の洽六(こうろく)の洽の字を二つに割って「合水」と号したが、子規に「一合の水では小さい。本名の洽六を音訳した紅緑がよかろう」とアドバイスしたという。子規とその弟子たちは、句作とともに過去の俳人たちの研究も同時に始める。その成果が明治31年より始まった『蕪村句集講義』だ。参加者はもちろん、碧梧桐、虚子、紅緑、露月ら。「春之部」から「冬之部」まで四分冊の冊子が編まれている。

 句作の道を歩み始めながら、紅緑の人生は波瀾万丈だ。日本新聞社に入社して一年ほどでの明治28年に脚気を患い弘前に帰郷。そのまま東奥日報に入社する。そこで別の筆名で小説を書き始める。元々羯南の慕っての上京が政治への断ちがたい思いだった紅緑は、同時に政治活動にも参加する。上京帰郷を繰り返しながら、大隈重信の進歩党に入党している。明治30年、「河北新報」創刊時に婦人家庭欄の主筆として入社、翌年は、「富山日報」へ。またまた病気のため弘前へ戻り、32年には、報知新聞社へ政治記者として入社のため上京。なんともめまぐるしい職歴だ。この間も俳句への傾倒は終始変わらず、先に記した「蕪村句集講義」にも参加しているわけだ。その後も、「福音新聞」「福井新聞」「万朝報」と新聞社を渡り、明治38年に関西大阪新聞社に入社している。筋を曲げない性格で幹部と対立し、退社に至る……生来の熱い性格は変わらなかったようである。

 こうした中でも句作を怠らなかった。同時に小説も書き続けており、39年に初めて書いた脚本『侠艶録』が舞台化され大ヒット。本郷座、東京座、帝国劇場などで上演される作品を書き続けた。大正時代になると、作家・紅緑が八面六臂の活躍を始める。読売新聞、大阪日日、時事新報などに連載を掛け持ち、自ら劇団「新日本劇」を結成したりした。大正12年、外遊中に関東大震災を知り、帰国の船上で愛子の誕生を知る。講談社の雑誌「講談倶楽部」が彼の資質に目を留めたのもこの頃だ。『楽園の扉』(講談倶楽部)『幸福物語』(婦人倶楽部)『勘八物語』(講談倶楽部)、昭和に入って、『富士に題す』(講談倶楽部)と立て続けに連載している。

 そして昭和2年、同郷の加藤謙一「少年倶楽部」編集長からの依頼で『あゝ玉杯に花うけて』の連載を開始。これが連載中から大反響を呼び雑誌の売り上げが急増した。これがきっかけとなって講談社専属のような形となって、引きつづき少年倶楽部で、『紅顔美談』『少年賛歌』『一直線』『少年聯盟』などの少年小説を、「少女倶楽部」でも『毬の行方』『朝の雲雀』『夾竹桃の花咲けば』など、それ以外にも「キング」「雄弁」「富士」など、講談社の主立った雑誌に寄稿している。正直言って講談社に禄をはんでいる私にとって、足を向けて寝られないような貢献度がある。講談社初代野間清治は「雄弁」で硬派、「講談倶楽部」で柔らかい娯楽を提唱した。紅緑は前半人生で政治を志し新聞社に入り、大隈重信と行動を一にした。そして、俳句に傾倒し後に娯楽作家として大成した。そして、少年倶楽部での大ヒットはこの二人を結びつけた。しかし、昭和15年些細な行き違いから講談社と絶縁する。これも紅緑の性格に依るところもあっただろう。

 さて、ここで時を現在に戻す。冒頭に書いた不思議な縁について。まず、羯南研究を青木先生に促したのは、司馬遼太郎である。司馬が勧めた大きなきっかけが講談社が昭和50年から刊行を開始した『子規全集』の監修をしたことにあるからだ。週刊朝日の「司馬遼太郎からの手紙」にこうある。

「私は、『子規全集』を監修しました。そのときの講談社の編集長として命じられたのが、私と同年の松井勲でした(故人)。松井は、憑かれたようにこのしごとをやり、半ばで肝臓をやられ、死にました。かれに私家版の遺稿集があります。そのなかに『日本』をすこししらべたみじかい文章があります。その文章のタイトルをとって、遺稿集は「新聞『日本』の人々」ということになっています。大兄においてももし必要になったとき、小生のを貸してあげます」
 羯南、子規、講談社、司馬遼太郎、がつながり、青木彰へ。そしてこうつづく。
「当時、子規全集の編集長をやった松井勲の急逝後、駒井皓二(東京教育大国文科卒)があとをつぎ、駒井は目下蕪村全集を準備中ですが、松井駒井編集室に集められた資料のうち羯南のを貸せ、とおっしゃれば(もしそんなものがあれば)駒井君は尽力してくれるはずです。駒井は底抜けにいい男です。学者でもあります。母校(になるのかな)のためでもありますから、力を貸してくれると思います」(週刊朝日 平成11年9月17日号「司馬遼太郎からの手紙『街道を行く』の友人たちへ」より)

 私的なことで恐縮だが、松井、駒井と講談社の先輩が名を連ねている。駒井さんなど、大学の先輩でもある。そして「駒井は目下蕪村全集を……」である。子規、紅緑が研究し、それをもとに句作・研鑽した与謝蕪村にここでもつながる。そこで実はたかぎ主筆がこの『蕪村全集』の愛読者であることがこの羯南研究を始めるに当たって判明する。当然ここまで司馬に書かれているのであるから、たかぎ主筆の命で駒井先輩とコンタクトをとり(実はこの司馬さんも青木先生も存命中の時に準備中の蕪村全集は、平成20年の現在も索引の巻を残しており、完結していない)定年後も蕪村全集のために社に来る駒井先輩との会合を持ったのは、今から3年ほど前のことだ。蕪村、子規、紅緑、講談社、松井・駒井、司馬遼太郎、青木彰、主筆にこの私。羯南の磁場は、ここまで効いていた。仕事柄、駒井氏とはほとんど接点がなかった私だが、このことで改めて講談社の懐の深さを知った次第でもあり、汗顔の至りでもある。

 青木先生の生前に陸羯南の話を遠いことのように聞いていた私だが、主筆に促されて資料を逍遙するうちにこれはとんでもなく近い存在、というか、自分の講談社そのものと密接な関係があることにある意味、感動した。主筆の後によたよたとついていってよかったと。

                                                                                                                 すずき
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by kuga-katsunan | 2008-11-14 08:16 | 研究 | Comments(0)

陸羯南と鉄道(その1)

 どうして、陸羯南と鉄道なのか、といぶかしむ方がいてもそれは致し方ない。

筆者がやや鉄道オタクだからこそ無理矢理に設定したテーマであって、本当に強引な展開であることは筆者自ら認めざるを得ない。

そういうことはさておき、ここでは、陸羯南が論じた鉄道に関する評論をいくつか取り上げ、その内容について考察し、陸羯南が何を伝えたかったのかについて論じてみたいと思う。

「鉄道改造の得失」=「日本」明治39年1月19日 第5925号

<ゲージの広狭は久しき以前よりの問題なるが、
長春以南の東清鉄道を収めしに就き、前に軍用として狭軌に改めしを、
更に広軌に改めしむべしといふが、差し当りの議論となり、
尚ほ戦後経営と関連し、全国の鉄道をも、悉く広軌に改めよといふ説の拡がりつつあるを聞く。>


 この評論は、満州において、狭軌に改軌した鉄道をふたたび広軌に改め、さらには全国の鉄道も広軌に改軌せよという政府内の一部が持っている方針について論じたものである。

  羯南は広軌の効用は明らかであり、広軌と狭軌のどちらかを採用するのであれば広軌であるとしながら、現在の問題点はどちらがいいかではなく、現在保有している施設、つまり狭軌の鉄道を当時の財政状況下で改軌すべきかどうかを考えると改軌にはいささか疑問だと述べている。


おかぽん
 
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by kuga-katsunan | 2008-11-14 01:11 | 研究 | Comments(0)

新聞日本の社会記事

 新聞「日本」には、三面記事がなかったといわれている。三面記事とは、今でいう社会面的記事のことだ。事件、事故、人情話……。新聞の印刷が粗悪で、一枚紙を折っただけの四ページだった時代、三面記事は紙がこすれたり、雨などによってインクがにじんだりしないように、内側の三面に掲載されたことから、そう呼ばれるようになった。
 
 確かに、「日本」は読めば読むほど、社会面的な記事がない。政治・経済、かろうじて文化の記事は載っている。明治35年ごろまでの「日本」を見ると、社会面的な記事は「電報」もしくは「市井くさぐさ」という題で、ごくごく短く載るだけだった。
 
 たとえば、「●門司の虎列拉(コレラ)」と題して北九州の門司港でコレラ患者が出たことや、「臀(尻)切犯人 ■■■(実名報道だが、あえて名前はふせる)昨日取調を受く」というような本当に短い記事だった。
 
 ちなみに、同じ頃、同じ「臀切事件」を扱った東京朝日新聞を見てみる。

きくち
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by kuga-katsunan | 2008-11-11 01:02 | 研究 | Comments(0)

「新聞『日本』の時代の広告」(序論)その2

●引札から「新聞広告」への移行期としての明治20年代
  
新聞広告以前の日本では、引札といわれるチラシが宣伝の方法として用いられていた。
引札とは、江戸時代に商店が配ったチラシ広告である。戯作者や落語家が書くことも多く、候文の手紙形式で、開店や売出しを宣伝した。
チラシは、現在も変らず地域密着のメディアであり、店の商圏に合わせて出稿するものであり、新聞広告に比べてその到達力は限定されているわけである。
 引札から、新聞広告への転換を奨めるべく、その効果について述べている福沢諭吉の次の文章を参照されたい。
「新聞紙は上天子の宮殿より下●巷の茅屋に至るまで、東西南北都鄙遠近の別なく行き渡らずといふことなし。若し人ありて、新聞の手を借らず、他の引札、張札等の方法を以て新聞同様の広さに広告を行届かしめんと試むることあらんには、其費用と手数の莫大なる、尋常人の資力にはおよぶべからざるものならん。」 (出典「時事」1883年10月16日「商人に告る文」)
 また、新聞広告は、こうした広域への到達力だけでなく、商品の効能について理解させたり、企業の信用を創造するといった、現代的な広告の機能、役割を担うことが可能なわけだが、その例として「日本」創刊号の四面(広告面)に出稿された、東陽ビールの広告を取り上げてみたい。
創刊号の広告は論説面と同じく、右上から縦書きに書かれているが、右第一列から始まるヘッドコピーは「○獨逸國人醸造世界第一等○東陽ビール發賣廣告」となっている。続いてボディコピーとして、「本邦醸造の麦酒其数多し然と●未だ善良の麦酒有るを聞ず」とし、ビールの本場、ドイツの醸造師によって作られたビールであることを前面に打ち出すことで、品質の高さを強調している。(中略)
ほぼ中央に麦酒のボトルのイラストを配し、それに続いて
「内務省東京衛生試験所分析告示書中左の語あり」とし
「右定量分析の成績に據れば本品ハ氣味佳良にして各成分の量善く自然●比例に適ひ性質善良の麦酒なりと●」「叉此の東陽ビールを帝國医科大學御雇教師獨逸医學博士ベルツ大先生に進呈せしに先生賞賛して左●詞を賜りたり」 「近藤君醸造●東陽麦酒ハ同君より寄贈せられたる瓶詰に就て試みしに氣味佳良なり」とテスティモニュアル(著名人や権威による推奨広告)の手法を用いている。
最後に、ヘッドコピーと同じ字の級数で
「附言府下洋酒店ハ勿論全國各地方洋酒店及ヒ洋物店藥舗等二差出シ有之候間御最寄ノ取次店二於テ御購入ノ程伏テ奉願上候也」と、東陽ビールが全国の店で売られていることを知らせ、購入を促しており、チラシ(引き札)とは違い、新聞広告を全国レベルのメディアとして活用していることが見て取れる。また、この当時、全国の店で取り扱われていることは、商品、企業として信用されていることを示唆するものでもあったろう。
 一方、同じ日の広告面には、「洋法專門眼科医術開業」というキャッチで、麹町の織田という眼科医の広告が掲載されているが、この場合はチラシと同様の、地域密着で告知型の広告(引札)といえる。同様に、大東速記學協会(速記法自宅独習生の募集)と宇治御茶師 上村出張所(御茶賣捌き)も引札的な広告である。
「日本」創刊号の広告面は、引札的な広告と、商品についての理解促進や、企業の信用を創造する機能を持つ「新聞広告」が混在する当時の状況を物語っているといえよう。

たけざわ
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by kuga-katsunan | 2008-11-04 17:47 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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