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<羯南と古島一雄>(7) 私立大学評判記(その2)

 前回、古島一雄の新聞「日本」時代に連載した記事として、「私立大学評判記」を紹介しましたが、読み込んで行くとどうも記述された時期が誤っていることがわかりました。

 基にした資料は、昭和24年に日本経済研究会から発刊された鷲尾義直著『古島一雄』です。そこでは、明治33年11月3日から数十日にわたって連載されたとして記述されていました。しかし、当時の私立大学が“大学”という名称を使用できるようになったのは、基本的には、明治36(1903)年3月に専門学校令が公布されてからです。

 さらに、「私立大学評判記」を読み進めていくと、明確には年号が出てきませんが、明治36年に書かれたことが読み取れるところがありました。(本来は、原典の新聞「日本」にあたるべきでありますが、時間がなく手を抜いてしまい申し訳ありません。)

 当時の学校制度、特に高等教育機関については複雑で、戦後のそれのように固定化されたものではありません。それそこ明治初期には、数年で変更が加えられ、それ以降も流動的であり、そこを着実にたどっていかないとわかりにくい点が多々あります。  

 古島は、当「評判記 緒言(上)」のなかで次のように述べています。
「吾人は今ま此の評判記なるのもを草するにあたり、先ず過去四十年間における教育が明治の思想界に向かって如何なる影響を与え、如何なる効果を結びしやを吟味して、しかるのちその創立の因由を尋ねんと欲す。」

 次回から、この古島の意図にそってあくまで当記事を中心に、その背景である明治時代の学校制度を踏まえ、当時の大学事情を現代と比較しながら紹介できたらと思います。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2008-09-28 11:54 | その他 | Comments(0)

追悼 小島直記

 作家の小島直記が亡くなった。

城山三郎とは一味違った、明治以降の経済人などを扱った異色の作家であった。

いしがみ君も紹介してくれているように小島には、古島一雄を主人公にした<斬人斬馬剣>という作品がある。

 「人触れれば人を斬り、馬触れれば馬を斬る、必殺の筆剣」

古島一雄の筆の力を評したのが、この書名の由来である。

 静岡の三島から山にあがった風光明媚なところに、小島直記伝記文学館がある。

小島がかってここにこもって執筆した部屋、使用した資料も残されている。

 館の皆様の御厚意で書籍を中心とした資料を拝見したことがある。
一度、なぜ古島一雄を取り上げたかをお伺いしたい、とお願いしていたが、今はそれも虚しい。

 最近は<致知>という雑誌に投稿されています、というお話であった。

<致知>、中国の<大学>にある<格物致知>からとった、雑誌名。

この格言は、小島直記の作家姿勢であり、小島は古島の生き方に同様のものを見ていたのかもしれない。

天国の青木先生は、小島直記に会われるであろうか

合掌

たかぎ



 
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by kuga-katsunan | 2008-09-27 05:53 | ニュース | Comments(0)

《黄泉還り対談》 陸羯南---正岡子規について語る 

問   明治三十年雑誌『ホトトギス』が発行される時、色んなアドバイスをしたと言われておりますが・・・。

陸   「具体的な事は忘れました。ただ募集した俳句を雑誌に載せるときは、その人の名前と、住んでいる所の土地の名前を、一緒に掲載すれば良いと言うような事を言った覚えがあります。
新しい雑誌なので読む人を惹き付けるためには、自分の名前が載っていると知り合いにも買わせたりするのではないかと思ったのです。
それにその土地その土地で同好の人達がまとまって、何か新しい組織が出来るかもしれないとも思いました。そうやって裾野が広がると言うのは、夢があって楽しいではありませんか。
他には挿絵を多くしたり、行間を開けたりして柔らかい感じの本のほうが良いだろうと・・・。しかし、その辺の事は正岡君が『小日本』を編集していた事があって、先にやっておりました。だから何も私の忠告は要らなかったのです。
この雑誌は東京で高浜虚子さんが発行するようになって爆発的に売れたようです。正岡君が亡くなってからの事ですが、夏目さんの『吾輩は猫である』と言う小説はこの雑誌に連載されて世に出たんです。
  兎に角、高浜君の経営手腕は大したもので、この雑誌は明治、大正、昭和、平成と永いこと発行された様ですね」
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by kuga-katsunan | 2008-09-21 05:27 | 研究 | Comments(0)

陸羯南・四女・巴さんを囲んで  その六

 日清戦争のとき従軍したいというのを止めろと、ずいぶんまわりでとめたらしいですね。

そのころ喀血していて加藤さんからおたのまれしていて、どうしても行くということで止められないということで、それで戦地へ行って具合が悪くなって、須磨のところまで帰って来たのでしょう。そのときに須磨の病院に―。

  三十五でね、ああいう病気をもっていて、いまみますとね歌も面白いですが随筆なんかも面白いでしよ。あれだけのものを書き残したんですから、感心して父も読んでいましたけど、こんどこそはいうことを聞けといってもどうしてもきかない、加藤さんからたのまれていることもありますし、そういうときに父ところへ来た手紙があるんですけど、みなさんはどんなにか子規の書いたものがあるだろうともらいにいらっしゃるけれどあんまり近すぎてないんです。

  旅行に行ったとき、旅行先から、からだのいいときのもの、一つを四郎(巴さんの弟)が巻物にして、この間お目にかけましたね短冊なども昨年ですか出来ましたね松山の記念館へ、そこへね四郎と相談してね、置いておけばそのうちに破けてし享つかもしれないので寄付しました。館長はねいろいろお持ちだろうから拝借して飾りたいと葉山に来られた。息子さんが大阪の方で教授していられて二人でね、折角来られたのですがお目にかけるものもなければ残ってもいないのですよ。

  うちの方ではしょっちゆう紙きれ、三角のような紙っきれに書いたものを妹さんが持ってこられ、口で妹さんに言わせればいいのですが間違うといけないからと、むつかしいことをいって紙っきれに書いてね、
そんなものはとっておきませんからなんにも残っていないのですよ。
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by kuga-katsunan | 2008-09-14 21:28 | トピックス | Comments(0)

弘前   陸羯南会

東奥日報に、弘前での羯南会の設立が、報じられていますので、転載させて頂きます。

<陸羯南研究会、来月14日に設立

弘前市出身で、明治を代表する言論人・陸羯南の研究会「陸羯南会」が、羯南生誕の日の十月十四日に設立される。

 同市の有志が発起人となって準備を進めており、発起人の一人で、事務局の舘田勝弘さん(63)は「羯南や関係する人々の研究を進め、功績を伝えていきたい」と話している。>

(東奥日報  9月5日
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by kuga-katsunan | 2008-09-07 16:51 | ニュース | Comments(0)

羯南の肉声

 羯南の百一回目の命日が過ぎた。

 昨年の百回忌には、弘前でシンポジウムなどが開催された。
これは今後の羯南研究の大きな礎石になったと思う。

 ちょうど一年前のこのブログでは、

<羯南は、欧州旅行の疲れ、帰国後の経営困難が重なり、病勢が進み、明治40年9月2日、静養中の鎌倉の別荘で帰らぬ人となった。家族のこと、新聞のこと、心残りが多くその心中、察するに余りある。

 (中略)

 たしかに羯南が経営のために奔走しているときに、誰か、経営と編集を分離して、羯南に編集、論説の作成に専念できるように、助言をするものはなかったのか。
歴史にIFはないが、<記者>に専念できた羯南が、その後の日本の変転に対しどのように評したか、聞いてみたかったが、それも今は虚しい。

 今、せめて我々にできるのは、20世紀の泥沼から抜け出したにも拘わらず、再び各国のナショナリズムが勃興し始めている現代にあって、国と民族と個人の存続を賭けて悩み、議論した羯南たちの考え方を、如何に現代に活かすか、ということなのであろうか。

 没後百年、今、甦る羯南の声に耳を傾けたい。>

と、書いた。

 羯南の書いたものは、勿論彼の声ということになるが、本人のもっと肉声に近いものはないかと探し続けていた。

 近衛篤磨と羯南のことを調べていくうちに、東亜同文会活動がでてきた。

東亜同文会は、明治31年羯南等を中心に組織された東亜会と篤磨等を中心に組織された同文会が合併して出来上がった団体である。この会は19世紀末から20世紀初頭の日本とアジア、中国の関係を考えていく上で非常に大きな意義をもっている。

 この会の機関誌があった。
初期は<東亜時論>としていたが明治32年12月から<東亜同文会報告>という名前に変わった。この機関誌には種々の論文と併せて東亜同文会が開催した講演が掲載されていた。

 東亜同文書院の後裔である愛知大学の図書館の皆様の御厚意で内容を教えて頂いていくうちに
   <陸実君講話>

という記事があることがわかった。

  講演の題目は

   <東亜の平和>
     <附 満州開放の利益>

とされていた。

 羯南は、その中で

<私は平和と云ふことに就て一寸考へた事がありますから、それを申上げやうと思ひます>

と語りはじめている。

たかぎ


 


 
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by kuga-katsunan | 2008-09-03 04:54 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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