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<羯南と古島一雄>(6) 私立大学評判記(その1)

 古島が生涯で最もあぶらの乗った時期は、新聞「日本」の記者時代であったと述べている。それは、25歳から42歳までの18年間であった。
 今回は、古島35歳の明治33年11月3日から数十日にわたって連載された「私立大学評判記」を取り上げよう。当時の東京にある大学の状況が以下のように紹介されている。

慶応義塾大学 創立:文久3(1863)年 卒業生13,000人 在学生2,400人 ※記載は慶応義塾大学から始まる。
帝国大学(現・東京大学) 創立:明治3(1870)年 博士363人、学士4,988人を排出。 在学生3,000人以上 「源を幕府の蕃書調所に発し、由来最も古し」 
明治大学 創立:明治14(1881)年 卒業生2,973人 在学生2,000人
早稲田大学 創立:明治15(1882)年 卒業生2,581人 在学生4,500人
法学院大学(現・中央大学) 創立:明治18(1885)年 卒業生2,973人 在学生1,300人
哲学館大学(現・東洋大学) 創立:明治20(1887)年 卒業生2,000人 在学生300人
法政大学 創立:明治23(1890)年 卒業生850人 在学生800人
日本法律大学(現・日本大学) 明治:創立23(1890)年 卒業生900人 在学生1,300人
 
 当時の代表的な大学を取り上げているようであるが、すべて現存している。東京の官私の学校は、380校に上り、学生数15万人を超えるとも記載されている。

 学生数を現在と比較すると、日本大学が日本最大の学生数であり、80,693人(平成19年5月1日現在。ただし全国に分散する)、他の私学も数万人規模の学生をかかえる。東京大学は、国公立大学の中では、最も学生数が多く28,953人(平成20年5月1日現在)である。ちなみに筑波大学の学生数は、16,584人(平成20年5月1日現在)。
 当時は、現在に比べれば学生数は少ない。それゆえ、彼らは、当時の人口(明治30年4,240万人)からして少数のエリートであった。   

いしがみ
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by kuga-katsunan | 2008-08-31 19:36 | その他 | Comments(0)

「柴四朗という生き方  その七

 家訓十五ヶ条の第一条には「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら処るべからず…」とあるが、つまり、忠義において、他藩と同じ程度で満足してはいけない、という精神である。

 1862年(文久2年)執拗に迫る幕府の命を受け入れ、第九代藩主松平容保は、新設の京都守護職に任じられた。多くの家臣たちは、この職を受け入れることが何を意味するのかわかりつつも、ひとたび「君臣ただ京師の地を以て死所となすべきなりと、議ついに決す」(山川浩遺稿「京都守護職始末」)という結論に達すると、一丸となってこれに邁進することになる。家訓の第十二条には「政事(まつりごと)は利害を以て道理を抂(ま)ぐべからず。僉議(せんぎ)は私意を挟み人言を拒(ふせ)ぐべからず…」とある。

 なんのかけひきもすることなく、忠義に生きるという決断をし、実行する。このとき父・佐多蔵、兄・太一郎とともに、四郎も上京しており、1868年(慶応4年)の鳥羽伏見の戦いには、会津藩士として幕府軍に参加している。

 幕末の京都は、諸藩入り乱れ、公家の動きも活発で、文字通り権謀術数が渦巻いていたであろう。そのなかにあって、ひたすら会津藩は、純度の高い秋霜烈日たる武士道の精神にのみ殉ずる。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2008-08-24 18:02 | 研究 | Comments(0)

《黄泉還り対談》 陸羯南---正岡子規について語る

問   先生は子規の俳句を新聞に取り上げたのはどうしてですか。
陸   「正岡君が、俳句について、私に話した時の意気込みは凄いものがあった。
自分の命があまり長くない、望みを途中で果たせず死んで行った先人は数多く居た。自分もこの仕事、つまり俳句の新しい展開の基礎作りをしておかないと十七文字の文学が埋もれてしまう・・・という意味の事を熱っぽく私に話すのです。
当時の新聞は、短歌の欄はありましたが俳句を載せた新聞はありませんでした。
正岡君の俳句の記事を新聞に載せるかどうかは、社内の人間がどの様に見るかが大事で、私がどうのこうのした問題ではないのです。
紙上に俳句を載せても、読者の反応が悪く社内でも駄目だとなれば、当然そのような記事は書かせて貰えません。
正岡君の場合は、私の縁者と言うことで、極端に悪く言う人は居ないとは思いますが、駄目だとなれば社内での扱いは大体分かりますよ。
それが正岡君の場合は、古島君が大変誉めてましてね、私も安心したのを覚えております」
問   陸さんは俳句はやらないんですか。
陸   「短歌はやるんですが俳句はやったことがありません。最初の頃は句会があって声を掛けてくれてもいたんですが、私が入ることで雰囲気が変わってしまうような気がして、句会には出たことはありません」
問   子規が神戸入院の後東京に帰ってきて、翌年の正月に子規の家で句会があった時の事を何か・・・。
陸   「その時のことはハッキリ覚えています。明治二十九年一月三日の事ですが朝一番で正岡君が私を迎えに来まして、どうしても会わせたい人が居ると言うんです。新年の挨拶かなと思って伺いましたが、そこには前の年、従軍記者として清国に行ったとき出あった森鷗外さんと、この正月休みを利用して、暮に東京に戻ってお見合いをした夏目漱石さんが居ました。
鷗外さんと漱石さんはこの時はじめてあったと言ってました。明治の文豪三人があの小さい家で会っていたんですから・・・、正岡君の人脈って凄いですね」
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by kuga-katsunan | 2008-08-19 22:44 | トピックス | Comments(0)

陸羯南・四女・巴さんを囲んで  その五

今西 子規さんの日記見るとみんな朝鮮服に替えてしまって友禅なんてやめろと書いてありますね、面白いですね思い切ったことを、

巴 ここは紫、ここは赤なんて説明が書いてありますよ。

細川 一番さいごのころ、八月ごろに、九月に子規さん亡くなりましたね、八月ごろに『病状六尺』の中に家のものに律さんに花を二つほど摘んで来いといったら、こういうふうにつんで来た、そうしたらそんなものは写生にならんからダメだといったら、陸さんが、羯南さんが持って行けといわれて朝顔が一輪咲いているのを持ってゆけと。それを子規が写生したら、それを見てお姉さんとトモエさん、それを手本にして十歳と七歳ですか、いっしようけんめい写生した。その方が俺のよりもよく出来ておったと書いてありますね。

巴 私がねえ、ちょいちょいと子規さんの全集に名前が出ていて。
  加藤さんてね学校が同級生で親友ですから、あの加藤さんが、自分がこういう職業(外交官)についたので始終こちらにいるというわけにはいかんから、ご迷惑かもしれんが、この甥はひとつ面倒みてやろうと思っているので、こういう職業についてしまって済まないけれど困っているときは相談にのってやってくれとたのまれて承知した父がいうことで、そうして一高に入ってそばにいるようにということで家を借りて、そこへ住まわせることにしたと、行ったり来たり出来るように―。
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by kuga-katsunan | 2008-08-12 04:20 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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