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「新聞『日本』の時代の広告」(序論)(1)

●「日本」創刊当時の広告主とその背景

 「日本」創刊の頃の新聞広告は、現代の新聞における新聞広告とは大分その様相が違う。
手始めに、創刊第一号の広告面(四面)の広告主とその内容を見てみると、

・東陽ビール(発売広告)
・香竄葡萄酒(製品広告)
・英和和英袖珍字典 耕文社
・萬國地理誌 奎文堂書店
・私立医学専門学校濟生學舎(医学生徒募集広告)
・大東速記學協会(速記法自宅独習生の募集)
・宇治御茶師 上村出張所(御茶賣捌き)
・織田●秀 (洋法専門眼科医術開業)
・温泉割烹 伊香保(座敷修理完了)
・新聞広告取次所 空氣堂

となっており、広告主としては酒類、出版、学校が各2件、流通1件、医院1件、サービス業(温泉割烹)1件、広告取次1件、の計10件である。
創刊号が発行された明治22年(1889年)は、現代のような大量生産・大量消費社会には未だなっておらず、広告対象商品を持つ企業も非常に限られていた。
 当時の産業構造を、1896年上期の会社総資産という視点から見てみると、一位の鐘淵紡績を筆頭に繊維企業が圧倒的に多く、50位以内に入るその他の会社としては製紙、化学、鉱業関係の会社が多い。いわゆる消費財のメーカーとしては、37位の大阪麦酒、43位の日本麦酒があるのみである。
 また、当時の日本は、資本主義に向けてその制度、インフラを整備する途上にあった。
商法の公布が「日本」創刊の次の年の1890年(明治23年、施行は26年)であり、広告に関係の深いものでは、商標条例の公布が1884年(明治17年)、意匠条例の公布が1888年(明治21年)である。
 上記のような時代環境の中で、「日本」創刊当時の広告主として、今日の広告主であるような大手の企業、とくに消費財メーカーは数少ない。

たけざわ
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by kuga-katsunan | 2008-07-31 17:09 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(5) 明治時代中期の時代の“空気”

 今回は、新聞「日本」が発刊された明治20~30年代の時代背景としての“空気”を探ってみよう。

 既述のように明治22(1889)年2月に、森有礼文相の暗殺事件があった。さらに同年10月には、不平等条約改正問題で外務大臣大隈重信への爆弾テロが勃発、彼は一命を取り留めたものの片足を失った。このように、依然として当時の政治問題には常にテロと暴力がつきまとっていた。
 ちなみに、この爆弾テロの犯人は、玄洋社の来島恒喜であった。当時、新聞「日本」は、条約改正批判の急先鋒であり、頭山満や三浦梧楼らが「日本」へ押しかけていたが、古島一雄は、この事件について、彼らとは別関係であったと述べている。  

 明治政府に対する「テロと暴力」の系譜をたどると、不平士族による反政府活動にまでさかのぼる。明治7(1874)年から10(1877)年にかけて不平士族による反政府活動が活発化した。通説では、一方に「民撰議院設立建白書」にはじまる自由民権運動による言論活動があり、他方で、佐賀の乱、岩倉具視襲撃事件等の反乱・テロによる武力行使があったとされる。しかし、それらは単純に分けられるものではなく、西郷隆盛が「右手に筆を取り左に剣を御提(おさげ)」と語ったように、武力も言論を立てていたし、民権運動でも武力闘争の要素を含んでいた。

 そして、明治10年に最大の士族反乱であった西南戦争が終了すると、その運動エネルギーは、「筆」による民権拡張の運動に向けられたとされているが、ここにも常にテロと暴力の要素が潜在していた。その後、民権運動には、富農商層が加わり、明治15(1880)年には自由党が設立され、彼らが中心を担うようになっていった。明治14(1881)年から19(1886)年にかけて、政府の弾圧に対して全国各地で自由党員がからんだ福島、秋田事件等のいわゆる激化事件と呼ばれる暴動とテロが続発した。それがやがて自由党の消滅によりおさまったが、「テロと暴力」の体質は、前述の明治22年の事件へとつながって行く。

 大隈の事件以降、暴動とテロは無くなったようにみえたが、その底流には、依然として「テロと暴力」体質は潜在していた。時代は下り、明治34(1901)年、当時の大物政治家、星亨が暗殺され、明治38(1905)年には、日露戦争後のポーツマス条約に反対する民衆3万人が、日比谷公園に結集、暴徒化し外務省や警察署等を襲撃するという日比谷焼き討ち事件がおきるのである。

 いずれにせよこうした当時の“空気”のなか、古島は、「新聞記者は、布衣の宰相、社会の木鐸だと信じて居ったし、又実際、言論の力で政界を動かすに足るという自信をもって居った」と覚悟めいた言葉を残している。新聞記者という職業は、命を賭す仕事であった。

 (参考文献)坂本多加雄『日本の近代<2>明治国家の建設』中央公論新社、鷲尾義直     『政界五十年 古島一雄回顧録』海音書房、古島一雄『一老政治家の回想』中央公論社

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2008-07-28 21:42 | その他 | Comments(0)

27歳 正岡子規編集長 奮闘記 その4

先のエピソードにおいて、どう捉えたらよいか、考えあぐねている部分がある。
 それは、
「近ごろは、日本人の心は、日々腐りはじめ、言ったり書いたりすることばっかりで、志や行いは、ますます薄弱になっている」(原文では、「近時の人心日日に腐り、口筆益々多くして、志行愈々薄く」)
 というくだりである。

 大正6年といえば、第一次世界大戦を視察した秋山真之が、ヨーロッパから帰朝した時期にあたる。この時期の秋山真之について、防衛大学の田中宏巳・教授は、著書『秋山真之』(吉川弘文館・刊)で、こう解説している。

<欧州大戦を見て帰った秋山が憂慮したのは、大正デモクラシーの下で西欧流の思想にかぶれて身勝手な行動をする風潮と、欧米の国家も軍隊も社会も劇的に変化しているのに、日本が明治の遺産にしがみつき、現状に満足している現実であった>(260頁)

 牽強付会、まことに想像をたくましくすることが許されるのなら。
秋山真之に、こんな追想が頭をよぎったか。
「大正時代になって、西洋の借り物の思想やことばで意見を散らしまくる言論のいい加減ぶりは、見るに耐えない。それに引きかえ、明治時代の、のぼるくん(子規の本名)は、借り物ではなく、自分の頭で考えた言論があった」
あまりに推論が過ぎるが、そう信じたい気持ちがどこかにある。
こんどう
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by kuga-katsunan | 2008-07-23 06:28 | 研究 | Comments(0)

「柴四朗という生き方  その六

  会津藩に生まれて

  柴家については、

  会津藩で編纂した諸子系譜の柴家の系譜をみると、出身は信州とあるだけで、誰の
家来なのか明確ではない。普通、信州出身の会津藩士は、初代の会津藩主保科正之が
信州の高遠藩であったときの家臣であるか、正之が、最上藩に移封になったとき、武田
か織田などの家臣であって、浪人していて家臣となったものが多い。例外でなければ、
柴家も、これらのいずれかに属しているといえる。
(「近代日本に生きた会津の男たち」より)

 とあるが、四郎はこの柴家八代目佐多蔵繁吉の五男六女の十一人のこどものうち、四男として、1952年(嘉永5年)12月房総半島・富津の会津藩陣屋で生まれた。
 富津で生を受けた、というのは、この当時の会津藩士として、会津藩の運命を象徴している。
 保科正之の定めた家訓十五ヶ条を支柱に、気迫を持った武士集団を作り上げていた会津藩は、すでに力の衰え始めた幕府から、なにかにつけて頼りにされていた。日本近海での列強の動きが活発になる中、ロシアが南下政策を取れば樺太に出兵もし、東京湾の警備も安房、上総へと会津藩士が交替で当たっていた。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2008-07-16 21:19 | 研究 | Comments(0)

《黄泉還り対談》 陸羯南---正岡子規について語る

問   病気が治っても直ぐに東京に帰って来ない子規は、なんか不真面目と言う感じがしますが・・・。

陸   「私にとってはそんなことはどうでも良いことで、正岡君がどこに居ようと病気がそれ以上悪くならず、本人の気がすむ様に暮らしていてくれれば良かったのです。とにかく神戸に着いて、いきなり病院に担ぎ込まれたと言う電報を受け取った時の驚きは無かったですからね」

問   子規の入院中の費用も陸さんが出されたとか。
高浜虚子の「子規居士と余」に『入院費用の事やその他万般に就いて日本新聞社から依頼されていた・・・』と書かれていますが・・・。

陸   「私は見舞いにも行けなかったので、そう言うことしか出来なかったんです。

   でも、正岡君は須磨保養所に行ってからは、記事を書いて送ってくれる様になるまで回復しましてね、付き添っていた高浜君に聞くと、送ってきた原稿のほかに、後で新聞に載るんですが、与謝蕪村の評論の原稿を書き溜めていたそうです。

 彼はただ療養していた訳ではないんです。このことが俳句について理論的に極めていく始まりとなったのかもしれません。その後『俳諧大要』『俳人蕪村』と言う俳句革新を運命付ける著作を現すことになる訳です。その萌芽がこの時期だったんではないでしょうか」
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by kuga-katsunan | 2008-07-05 06:11 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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